『どうする家康』において信玄の後継として徳川家康と対峙した武田勝頼(たけだかつより)。設楽原の戦いでは決死の突撃を選び、勝ち目のない戦いには撤退を選ぶ父・信玄の対比ともいえるシーンと言っても過言ではないかと思います。


優秀な父を持つと自然と2世は比較されてしまいがちで、意外にも「勝頼は暗愚だった」との評価が残っています。果たして、勝頼がこのような評価を受けた原因は何だったのでしょうか。

そこで今回は、勝頼が暗愚という評価を受けた原因と、勝頼が残した功績を同時にご紹介します。

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武田勝頼/Wikipediaより

■勝頼が暗愚と評価された理由

暗愚の悪評も…武田勝頼が悪評を受けた理由と実際におこなった功績を紹介【どうする家康】


武田勝頼(右)/Wikipediaより

勝頼が暗愚として評価されたのは江戸時代が始まりです。この当時は家を守ることが重要視され、それと反対のことをした場合は愚かな行いとして見られていました。

そのため、「勝頼は武田家を滅ぼした暗愚の武将」として評価が確立されてしまいました。しかし、近年では勝頼を見る目が変わってきており、再評価され始めています。



■勝頼の功績

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山県昌景/Wikipediaより

勝頼が生前に残した大きな功績は「武田家史上最大の領地拡大をした」ことです。勝頼は元亀4年(1573)の信玄の死後、翌年の天正2年(1574)に東美濃に侵攻。苗木城や阿寺城、千旦林(せんかんばやし)城といった遠山十八支城(岩村遠山氏が所有する城や砦)を次々と落としました。

そして、同年2月には山県昌景が美濃・尾張・三河・遠江攻略の拠点となる明知城や飯羽間城を攻略しました。

その勢いのままに5月には遠江支配強化のために高天神城へ侵攻します。
城主の小笠原信興は、徳川家康から援軍が来ないまま60日間籠城しましたが降伏。ついに、勝頼は信玄が落とせなかった高天神城を攻略すると共に、領地拡大を成し遂げました。

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自害する勝頼(右)/Wikipediaより

しかし、怒涛の勢いも1年と続かず、天正3年(1575)の長篠の戦いでの大敗を機に失墜していきました。その後は、勢いを取り戻すことができず、天正10年(1582)に天目山の戦いの敗北により勝頼は自刃しました。

■最後に

勝頼は諏訪家の家督を継いでいたので、武田家の家督を人間ではありませんでした。しかし、家督を継ぐべき人間がいなかったが故に家督を継いだ背景があります。

また、側室の子だったこともあり、勝頼が当主になったことに反発を持った人物もいた方かもしれません。

勝頼はその人物達を納得させるために約1年で領土拡大させたと考えると勝頼の実力は本物だったと言わざるを得ません。

それでも武田家を滅亡させた張本人ということで、悪評を受けたしまったことは残念に感じます。勝頼に正当な評価が確立されてほしいばかりですね。

出典:伊藤潤『敗者烈伝』‎2016年、実業之日本社

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