藤原道隆の死からおよそ1年で政敵・藤原道長に追い落とされ、没落していった中関白家。一条天皇の皇后・藤原定子は出家を余儀なくされ、不遇の内に世を去ってしまいます。


時に長保2年(1001年)12月16日。定子が遺した一条天皇との子供たちは、妹の御匣殿(みくしげどの)に託されたのでした。

果たして彼女はどんな女性で、どのような生涯をたどったのか見ていきましょう。

■短い栄華から転落

藤原定子の死後、一条天皇から寵愛された定子の妹「御匣殿(みく...の画像はこちら >>


道隆と貴子(画像:Wikipedia)

御匣殿は生年不詳(寛和元・985年ごろか)、道隆と高階貴子(儀同三司母)の間に生まれました。実名は伝わっていません。

正暦4年(993年)に姉たちと一緒に裳着(もぎ。
女性の元服)の儀式をすませ、姉の定子に仕えます。

彼女は後宮をつかさどる御匣殿別当(~べっとう)となりましたが、まだ10代になったかどうかで実務的な采配をとれるとは思えず、ほぼ名ばかりの別当であったのでしょう。

ともあれ御匣殿は内裏で姉たちと交流し、その様子は清少納言『枕草子』にも描かれました。中関白家の栄華を彩りましたが、煌びやかな日々はあまり長くは続きません。

長徳元年(985年)に父・道隆が急死し、翌長徳2年(986年)には兄の藤原伊周・藤原隆家が謀叛(長徳の変)によって実質流罪となってしまいます。

ほとんど後ろ盾を失った定子は出家し、我が子たちを御匣殿に託して世を去りました。




■一条天皇の寵愛を得るが……。

藤原定子の死後、一条天皇から寵愛された定子の妹「御匣殿(みくしげどの)」とはどんな女性?【光る君へ】


姉の遺児たちを必死に育てる御匣殿(イメージ)

長女の脩子内親王(しゅうし/ながこ)は5歳、長男の敦康親王(あつやす)は3歳。そして次女の媄子内親王(びし/よしこ)に至っては生後2日目という幼さです。

対してこの子たちを託された御匣殿はまだ17歳くらい。とても母親代わりが務まるものではありません。

それでも大切な姉の遺児であり、自身にとっても大切な姪・甥ですから、必死になって母親代わりを務めたのでしょう。


乳母たちのサポートも受けながら、幼子たちの面倒に奔走する御匣殿の姿に、一条天皇は心惹かれるようになりました。

御匣殿は美しく控え目な性格だったそうで、定子を喪った悲しみを埋めてくれる存在として、一条天皇は御匣殿を寵愛するようになりました。

やがて彼女は懐妊。ここで皇子を生んでくれれば、没落した中関白家復活のチャンスが訪れる……伊周や隆家は大いに喜んだことでしょう。

しかし長保4年(1002年)6月3日、御匣殿は一条天皇の子を身ごもったまま亡くなってしまいました。享年17~18歳と言われます。


定子に続き御匣殿までも喪い、一条天皇の悲しみはいかばかりだったでしょうか。

■終わりに

藤原定子の死後、一条天皇から寵愛された定子の妹「御匣殿(みくしげどの)」とはどんな女性?【光る君へ】


御匣殿を見初める一条天皇(イメージ)

……四の御方は、御匣殿と申しゝ。御かたちいとうつくしうて、式部卿の宮の母代にておはしましゝも、はかなく失せ給ひにき。……

※『大鏡』一 内大臣道隆より

今回は定子の死後に一条天皇から寵愛された御匣殿の生涯をたどってきました。

若くして姉の遺児たちを託され、必死に母親代わりを務める中で、ようやく自分の幸せを得られると思っていたのに……。佳人薄命を絵に描いたような女性でしたね。


果たして御匣殿はNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのでしょうか。姉の藤原原子(げんし/もとこ)ともども、登場に期待しています!

※参考文献:

  • 倉本一宏『人物叢書 一条天皇』吉川弘文館、2003年12月

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