今回は【前編】に続き、2人の関係についてご紹介する。
前編はこちら
不仲夫婦? 幕末の動乱下、10年の別居婚を経験した徳川慶喜と一条美賀子の夫婦生活【前編】
新婚生活
美賀子と結婚した慶喜だったが、慶喜は一橋家7代目当主・徳川慶壽の正室であり未亡人となっていた徳信院と非常に仲がよく、2人の間には男女関係の噂があった。1856年には美賀子の自殺未遂の噂が流れるほど、美賀子は2人の関係性に思い悩んだとされる。
1858年。慶喜と美賀子の間には長女が生まれるが、わずか数日で早世している。この時期の美賀子の精神状態は芳しくなく、塞ぎ込むようになった。
10年間の別居
1862年。慶喜は将軍後見職となり京都に拠点を移した。美賀子は江戸に残り別居生活が始まる。別居中の美賀子の生活に関して詳細はわからないが、一橋家の屋敷に暮らしたという。京都時代の慶喜は、生活の面倒を美賀子の実家である今出川家に頼っていた。
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別居生活は66年に慶喜が徳川15代将軍となってからも続く。
再会から晩年の2人
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1869年9月。戊辰戦争の終結と共に慶喜の謹慎が解除。美賀子は慶喜のいる静岡へ向かい10年ぶりの再会・同居が叶う。
慶喜は複数の側室との間に21人の子を設けた。
新婚当時、塞ぎ込みがちであった美賀子だが、晩年の慶喜との関係性は以前に比べて良好であったとされる。1894年。乳がんにより死去。享年60。
慶喜は美賀子の死から3年後の1897年に東京の巣鴨に転居。その後は貴族院議員として政界に復帰した。1913年死去。享年77。
夫婦は台東区にある谷中霊園内の墓地に眠っている。
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