住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代にウキウキしながら見たバラエティ番組の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう--。

「とにかく音楽に明け暮れた短大時代、お昼休みによく仲間と学食で集まって見ていたのが『笑っていいとも!』(’82~’14年・フジテレビ系)。“明日のゲストは誰なんだろう?”と、わいわい予想するのが日課になっていました」

富士山の麓である静岡県御殿場市に生まれ育った歌手の永井真理子さん(54)は、幼いころからテレビっ子だった。

4歳上の兄とはチャンネル争いもしていたが『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)と歌番組だけは、きょうだい仲よく見ていたという。

「全員集合の公開生放送を地元の中学でやったことがあって、体育館の床にシートを敷いて家族で見たんです。私はカトちゃんの『ちょっとだけよ』が大好きで(笑)。会場を盛り上げるため、拍手や笑い声などをあげるようにスタッフが合図するという“テレビの裏側”を垣間見られたことも、貴重な体験でした。そのとき会場で母にねだって買ってもらった志村けんさんの『東村山音頭』(’76年)が、私が初めて手にしたレコードなんです」

『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)、『ザ・トップテン』(’81~’86年・日本テレビ系)、『夜のヒットスタジオ』(’68~’90年・フジテレビ系)も欠かさなかった。

「『ナショナル・スナッピー』という、カラフルなテープレコーダーで録音していました。雑音も入っていたけど、そこにもときめきを感じて、何度も聴いていました」

小学校時代は、兄の弾くアコースティックギターに合わせて歌うのが、遊びの一つだったという。

「幼いころに習っていたピアノは基礎でつまずいてしまっていたので、私は独学のピアノで歌い、兄がギターを弾いて、セッションしていました。ビートルズの曲は英語がわからなくて、耳で聞いたままの発音で歌っていたんです」

中学生になると、兄の留守を見計らい、こっそり部屋に忍び込んで、ギターの練習をするように。

「たまたま兄が帰ってきてしまって、とっさに近くにあった本を手にしたんですが、将棋の本をさかさまに持っていて(笑)。

兄に『何をやっているんだ!』って怒られました」

■全寮制高校での生活は「ザ・体育会系」

そんなこともあり、自分のギターが欲しかった永井さん。父親と、岐阜県にある全寮制の高校に合格することができたら、買ってもらえるという約束を交わした。

「合格して約束どおり、買ってもらえましたが……。お習字の先生をしていた達筆な父に、新品のギターケースに大きく縦書きで『永井真理子』と名前を書かれて、すごく恥ずかしかったのを覚えています」

憧れ続けたギターを入手したが、寮生活は厳しく、音を出すことを禁止された。

「まったく練習できませんでした。同室には先輩もいるため、下級生は先輩の背中を流したり、靴磨きをしたり、完全な体育会系。つらくて逃げ出す生徒もいましたが、だいたいは敷地内の森で発見されるんです。文通相手の男の子から送られてくるカセットテープで、ナイアガラ・トライアングルの曲を静かに聴くのが、私の唯一の癒しでした」

『笑っていいとも!』の存在を知ったのは、そんな高校時代だった。

「『どうやら、お昼に面白い番組があるらしい』とで聞いていたんだけど、寮では見られないから、夏休みやお正月に帰省したときの楽しみになっていました」

高校を卒業した直後、永井さんの父親は他界。親戚からは「お母さんが経営している美容院を継ぐべきだ」と言われた。しかし母親は「東京に行って、自分の好きなことを見つけてきなさい」と送り出し、短大に通わせてくれた。

「高校時代からずっと抑圧されていた“音楽をやりたい”という思いがはじけて、入学してすぐ、100人以上も所属する他大の軽音サークルに入ることに。

新歓コンパの席で『どんな楽器ができるの?』っていう話題になったのですが、ギターは持っていたものの、当時はまったく弾けなかったので、とっさに『歌ならできます』と答えたんです。そうしたら先輩が『じゃあ、コーラスで入ってみる?』と誘ってくれて。いざバンドで歌ってみると、高揚するし、モヤモヤしたものが全部吐き出されるんですね。もう歌うことしか見えなくなりました」

■自分見失ったデビュー当初「自由な時間がなかった」

そのまま音楽に命をかけるつもりでいた永井さん。だが、まもなくメンバーの先輩たちは、こぞって就職活動を始めた。

「歌う場を探していた私に、先輩が紹介してくれたのが、後に楽曲提供してくれることになる、前田克樹さんでした」

同じ熱量で音楽に向き合える前田さんとともに、デモテープをレコード会社に持ち込んだという。

「もちろん、すぐにデビューできるなんて思っていませんでしたが、最初に持ち込んだレコード会社の担当者が『このあと、お茶でもしませんか。あなたの声には魅力がある。目の中には炎が見える』と興味を持ってくれたんです」

母親の希望もあり、在学中は学業を優先。短大を卒業した翌年(’87年)の夏に、デビューを果たした。

「レコード会社からは『いきなりシングルのヒットで売れると、次が苦しくなるから』と、アルバムで聴かせられる歌手に育てられ、曲も短大卒業までの間に書きためて、デビュー。夢の扉がバンバン開いた時代でした」

着実に歩みを進め、アニメ『YAWARA!』(’89~’92年・日本テレビ系)の主題歌として起用された『ミラクル・ガール』(’89年)、『ZUTTO』(’90年)と、ヒット曲を連発。

「この2曲で、私のことを知ってくれた人も多いと思います。急激に忙しくなり、毎日のように撮影や取材が入って、“いったい自分はどこにいるんだろう”とわからなくなりました。忙しいこと自体には耐えられるのですが、友達と会ったり映画を見たりする自由な時間がないのが苦しくて、『これでは自分が成長できない。少し休みたい』と訴えたのですが『そんなの走りながら悩みなさい』と言われてしまい……」

そんな状況下、幼いころから見ていた『夜のヒットスタジオ』へ出演したこと、そして大好きな『笑っていいとも!』の「テレホンショッキング」に呼ばれたことは、大きな喜びとなった。

「同じ事務所のドリカムさんから声をかけていただきました。

たしかツアー中で、移動の新幹線の電話に連絡をいただいたので、周囲がすごくうるさくて、ろくに話もできなかったのですが、『いいとも!』だけは、しっかりと言えました」

忙しさのあまり、折れそうになっていた心を支えたのは、デビュー前から大好きだったテレビ番組への出演だった。

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