サラリーマンから独立し、夫婦で作業犬の育成、派遣を行っている一般社団法人日本警備犬協会の創設者である川野悌子さん(49)。「人生を犬に捧げている」というほど犬中心の彼女の今の道のりは、意外にも「犬が苦手」だったところからスタートしている。
「私は子どもの頃に犬に追いかけられた経験から、犬は苦手。一方、夫は子どもの頃からずっと犬と暮らしてきた人。そんな夫が『独立して犬に関する事業をしたい』と言い出したときも“他人事”だと思っていました」
今から20年ほど前、ゼネコンに勤務していた夫の川野信哉さん(51)から、「会社を辞めて独立したい」と言われたとき、悌子さんはインテリアコーディネーターとしてキャリアを積んでいた。ところが、休暇で夫の両親の住むアメリカのカリフォルニア州に行った時に、信哉さんと義父母が犬のトレーナーの事業について話しているのを聞いているうちに、「私もやりたい!」と言い出した。
「今でもその理由がよくわかっていないんですけれども、帰国するときは、もうやる気でいましたね(笑)」
実はこの時、信哉さんは内心、喜んでいたという。
「僕は妻にも一緒にやってもらいたくて、『この仕事は楽しいんだよ』というアピールをさり気なくしているつもりだったんです。だから、悌子が『やる』と言ってくれたときは嬉しかったですよ」
数か月後、アメリカで軍用犬の訓練をする学校でトレーニングを受けるため、悌子さんは渡米。最初に事業を起こしたいと言った夫は資金を貯めるため、日本に残り仕事を続けた。
アメリカでトレーニングを始めた悌子さんは必死だったと振り返る。
「自分の好きなことではなかったわけですから、本当は辛いはずだったのですが、不思議と辛いも努力していると感じたこともなかったですね。犬嫌いですか? 一旦トレーニングに入ったら、そんな感情は消えていて、むしろ『よし、学ぶぞ!』って感じで夢中でした」
渡米時は英語もほとんど喋れなかった悌子さんだったが、犬のことならスポンジが水を吸収するが如くどんどん学んでいった。その様子を時々アメリカで見ていた信哉さんはこう振り返る。
「彼女の順応性に驚くばかりでした。とにかく限られた環境に順応するのがすごく上手い。それにコミュニケーション能力も抜群で、どこにいてもすぐに誰とでも友達になるし、場に馴染む。152センチのちっさい体なのに、存在感は大きかったですね(笑)」
数年後、信哉さんも会社を辞めて、アメリカのトレーニングに参加。先をゆく悌子さんの成長ぶりに驚かされる一方で、頼もしくも感じていた。
「男の僕ができることと女性の彼女ができることの分野が違います。僕は噛まれ役とか力を使ったトレーニングができますけれども、彼女はコミュニケーション能力を生かしてハンドラーとしてだけじゃなく、会社の“顔”にもなれると思ったのです」
2004年、2人は東京で家庭犬用のスクールビジネスを始めた。当時、犬のしつけの学校は日本では未開の試みだった。そのうちにこの事業への投資をしてくれる有力者も現れ、事業は順調に拡大していくかに思われた。ところが事業経験のない悌子さんにとって初めての試練が訪れる。
■事業が暗礁に乗り上げて 店舗を閉める日、残ったのは家族だった
「犬の総合トレーニング施設を作ってほしいという計画が私のところに来て、数千万円単位の出資がもらえたんですね。今振り返ると、経営の経験ゼロで知識もない私が社長業なんてできるわけがなかった。
隣にいる信哉さんも、「あの時はひどかったよね」とうなづく。
出資者が有名な実力者だったこともあり、いろんな人が近寄って持ち上げられた。ところが、事業がうまくいかなくなると分かった途端、お金をむしり取るように押し寄せてきた人達もいて、その豹変ぶりに驚かされたという。いよいよ店舗を閉めるという日、手伝いに来てくれたのは信哉さんだけだった。
「最後は社員も誰も来なくて、夫だけ。やっぱり最後に残ったのは家族でしたね。でも、それをきっかけに、『これからは自分達がやりたいことをやろうよ』って話し合ったんです」
それが後に訓練犬を育てることにつながる。
2011年3月11日の東日本大震災後、被災地で災害救助犬の活躍を目の当たりにし、川野さん夫婦は災害救助犬の育成を始める。当時、民間で災害救助犬を育て、派遣する民間企業は少なかった。その後、広島や熊本の災害で災害救助犬を派遣した。
川野さんたちの好む犬種は、ベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノア(通称マリノア)といって、ベルギー出身のシェパードグループに属する。
「マリノアの作業犬としての優秀さは群を抜いています。
そのうちに悌子さんは、育成中の犬の嗅覚の鋭さを警戒心の強い性格から、爆発物探知に向いているのではないかと気づき、爆発物探知のトレーニングを始める。そして、2014年、民間企業としては初の警備犬の事業を立ち上げた。
爆発物探知犬はこれまで、海外のVIPの来日時や、コンサート、スポーツイベントの会場などの公共施設、東京オリンピックの施設内などで活躍してきた。
悌子さんたちは、作業犬の民間事業におけるパイオニアだ。しかし、信哉さんはこう打ち明ける。
「僕1人ではここまで来れていないと思っています。だからなお子には感謝しかないっていったら当たり前に聞こえますが、それだけではない、お互いに足りない所を補い合える、ソウルメイトともいえるパートナーだと思っています」
そんな言葉を照れながら笑顔で聞いているなお子さん。
これからも夫婦二人三脚で未知の世界を開拓していく——。

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