「『カムカムエヴリバディ』(NHK)で22年ぶりに朝ドラに出演しました。撮影は大阪で行いましたが、毎回行くのが楽しみで。

深津絵里さんやオダギリジョーさんと現場でお会いできるのもうれしいのですが、大阪というところはおいしいものもいっぱいありますからね。特に“551蓬莱の豚まん”を買って帰るのも楽しみの一つでした」

女優・松原智恵子さん(77)はふうわりとほほ笑んだ。

松原さんが『カムカム~』で演じたのは荒物屋の女将・赤螺清子。“背筋がピンと伸びた気品あふれる女性”という設定だが、松原さんそのものに思える。

「でも、それほど(役に)ピッタリではなかったかもしれません。『そんなにきつう言うたらあきまへんえ!』と、息子をスパスパ叱るシーンもありましたが、私、叱るというのがあまり得意ではないのです」

松原さんは’61年に映画デビュー。清純派女優として人気を博してから60年になるが、その可憐なたたずまいは現在も変わらない。

今年1月6日には喜寿をむかえたばかりだが、松原さんにとって今年はもう1つ、節目がある。結婚50周年だ。

夫はジャーナリストの黒木純一郎さん。実は黒木さんは5月31日に3000号をむかえた『女性自身』の歴史を語るうえで欠かせない人物でもある。

’67年5月にスタートした本誌最長寿企画、「シリーズ人間」の1回目から取材に参加。

また30年以上にわたって掲載された瀬戸内寂聴さんの法話連載の立ち上げからずっと取材を担当していたのだ。この道60年という大ベテランで、取材方法もユニーク。

「その地域の仏教界では知らない者は誰もいないという高僧を取材したときのことでした。お付きの人と部屋に入ってきた高僧に対して、黒木さんは小指を立てながら、『相変わらず遊んでますか!』と、白い歯を見せたんです。

横で見ていた私は凍り付くような思いでしたが、高僧は呵々大笑。おかげで取材は、冗談も飛び交うようなかなりリラックスした雰囲気で進みました。

高僧とは旧知の間柄で、信頼関係があってこその、あの挨拶だったのでしょうが、黒木さんならではの取材テクニックですね」(同行した編集者)

取材現場にも、ジーンズに胸のボタンを3つ開けたシャツというスタイルでひょうひょうと現れた黒木さん。そんな“型破り記者”との出会いと結婚生活について松原さんが語るーー。

■周囲が猛反対した週刊誌記者との交際と結婚

「純一郎さんと初めて会ったのは取材現場。『週刊現代』の『この人に会いたい』というインタビュー企画でした。

私のことをすごく綿密に下調べしてから取材に来ているのだな、と思いました。私が22歳、純一郎さんが26歳。

4歳しか年齢はかわりませんが、彼はとても落ち着いた雰囲気で、いろいろなことをよく知っていました。私の周りにはいないタイプの男性だったのです」

松原さんは夫のことを“純一郎さん”と呼ぶ。これは交際を始めたころから変わらないという。

初対面の取材は’67年12月ごろ。当時、吉永小百合、和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれていた松原さん。この年のブロマイド売上げ数は女優部門で1位。

いっぽうの黒木さんは7年間在籍していた早稲田大学を中退し、編集プロダクション「早稲田編集企画室」(※現在は早稲田企画)を立ち上げたばかり。

松原さんにとって黒木さんは印象に残る男性だったが、それは黒木さんにとっても同じだった。黒木さんは初対面の日のことを懐かしそうに話していた。

「取材が終わった後、僕は事務所に戻りましたが、彼女もどこかに用事があったそうで、それぞれの車で走っていたのです。

こちらがちょっと前に出ると彼女は抜き返してくる。けっこう気が強いんですよ。

僕も運転には自信があったから、抜きつ抜かれつで、だんだんレースみたいになって。面白い女性だな、と思いましたよ」

当時、黒木さんは記者活動のほかにも、着物メーカーなどの宣伝にも携わっており、そのポスターに松原さんが起用されるなど、仕事をいっしょにする機会もあった。

’69年の出来事について、松原さんはインタビューでこう語っている。

《あるコマーシャルの仕事で水着のままシャワーを浴びる場面がありました。そのときは真冬で寒かった。水を浴びながらチラッと彼のほうを見たら、そこに彼の心配そうな顔がありました》(『週刊女性』’72年4月1日号)

それ以来、仕事以外でも、グループでプールや海などに行くようになったという2人。’70年夏、神奈川県・真鶴の海での出来事が、松原さんにとって黒木さんとの未来を考えるきっかけになったという。

「純一郎さんのグループの1人が海で溺れてしまったんです。波も高くて岩にぶつけられてしまう危険もありました。誰も動けなかったのに、純一郎さんはわが身をかえりみず、海に飛び込んで、その人を助けてくれました」

だが人気女優と若き週刊誌記者が結ばれるまでの道のりは険しかった。黒木さんは、松原さんを心配する俳優仲間から、“自分の身のほどを知って、身を引くべき”という電話を受けたこともあるという。

周囲だけではなく、松原さんの母・君子さんも猛反対。

実家は名古屋市でアパートや旅館、銭湯なども経営しており、君子さんは『女性自身』の取材に対しても、「智恵子は芸能人とは結婚させない。きちんとした実業家を見つけて交際してほしい」と、ハッキリ語っていたほど。

収入の安定しない週刊誌記者などは論外だった。

「純一郎さんとお付き合いするようになってから、母がお見合い話もたくさん持ってくるようになりましたが写真も見ませんでした。

正直、収入のこととか何も考えていなかったですね。結婚は、お金がどうとか、地位がどうとかではなく、“誰とするか”ではないでしょうか。純一郎さんも何度も私の実家に足を運んで、家族の説得にあたってくれました」(松原さん)

初対面の取材で松原さんは「27歳までに結婚したい」と語っていた。黒木さんはその願いをかなえてあげたかったのだろうか? 2人が京都六角堂で式を挙げたのは’72年9月23日。黒木さんは31歳、松原さんは27歳になっていた。

■新婚旅行先のサハラ砂漠で“遭難危機”に!

硬質な花弁が重なり合う茶色い薔薇。それが松原さんの宝物だ。

「“サハラの薔薇”です。

砂の成分が結晶して自然にこんな形になるのだそうです。お土産物店で買ったのですが、町の名前は忘れてしまいました。

わが家には飾り棚に7つも飾っているのです。棚で咲いている薔薇たちを見ると、あの旅行のことを思い出します……」

松原さんと黒木さんが新婚旅行に旅立ったのは、挙式から4日後の9月27日。イギリスからスタートし、ヨーロッパを巡り、スペインからアフリカ大陸に上陸した後はサハラ砂漠を走破し、またヨーロッパに戻り、トルコへ……。17カ国、2万キロ近くを100日かけて車で走り回ったのだ。

ハネムーンというより冒険旅行そのものだった。

「私はハワイや韓国ぐらいにしか行ったことがなく、もっと世界を見てみたいと思っていました。純一郎さんがシルクロードに関する本を書くことになっていましたので、その取材旅行に途中まで同行させてもらったのです。

途中で車が故障することもあるかもしれません。だから1台にカメラマンと取材クルーが乗り、もう1台は純一郎さんと私とで代わりばんこに運転しました。

スペインを走っているときにタイヤがパンクしたら、地元の人たちが『日が昇ってくる方角から来た旅人だ』と、私たちのことを珍しがって、修理を手伝ってくれたのです」

どの地域も思い出深いが、いちばん鮮烈に印象に残っているのはサハラ砂漠。

「なかなか行けない場所ですからね。サソリもいるし、危ないですから、町から町へ移動するときは、本当に用を足すときぐらいしか車の外に出ません。実際、大雨のために遭難しかかったこともありました」

モロッコで起こった事件の顚末は、『女性自身』’73年1月6日・13日合併号にもニュース記事として掲載されている。

「夜までに次の町に移動しようとしていたのです。ポツリポツリと雨が降りだして、砂漠に雨なんて珍しいと喜んでいたら、豪雨になって。

私がハンドルを握っていたのですが、泥の中で車がズルズル流され始めたので、純一郎さんが、『止めたほうがいい!』と。

ライトで照らしてみたら、地図にないはずの川が目の前にありました。慌てて降りて、みんなで車を押して引き返しました。あのまま車を走らせていたら、大変なことになっていたでしょうね。翌日明るくなってから見に行ったら、かなり深い川ができていましたから」

危機を脱した一行はアルジェリアに向かった。

「検問所に泊めてもらったとき、小さなコンロを持って、外でお料理しました。監視員さんたちもいっしょにごはんを食べたのですが、空を眺めると、本当にきれいで。そう、満天の星でした。こんなふうに……」

子供のように両手を大きく上げて、天をあおいだ松原さん。その瞳には、50年前に黒木さんと見上げたサハラ砂漠の星空が映っていたのだろうかーー。

【後編】松原智恵子「素敵な世界を見せてくれてありがとう」50年連れ添った夫へ贈るラブレターへ続く

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