「7月半ばまでは、役場の風さんへのメッセージノートにも、コロナの病状を心配する書き込みが目立ちました。今は回復しライブ活動も再開されたようで、7月21日のお隣の広島でのコンサート後には、ここ里庄まで足を延ばしてみたというファンの方も多くいらっしゃいました」

里庄町役場・企画商工課の樋之津公祐さん(33)が語る。

岡山県の南西部に位置する、緑豊かな里庄町は、シンガー・ソングライター、藤井風(25)の生まれ故郷だ。

『何なんw』『きらり』などのヒット曲や、投稿した演奏動画のYouTubeでの総再生回数が約5億回。昨年末には『紅白歌合戦』にサプライズ出場し、さらに自身の提供した楽曲を歌う大トリのMISIAのバックもつとめ、39.2%という瞬間最高視聴率を叩き出す立役者の一人となった。桑田佳祐や稲葉浩志もファンであることを公言しており、今、最も注目されるアーティストだ。

もともとメディアへの露出が少ないこともあって、その素顔に少しでもふれたいと、彼がデビュー直前まで暮らした里庄町を訪れ、出演していたライブレストランやミュージックビデオにも登場する場所などを“聖地巡礼”するファンが急増中だ。

「里庄町としても、10代のころからこの地で音楽活動を続け、ずっと故郷への思いを大切にしてくれる風さんを応援したいと“藤井風コーナー”を作りました」

役場に入ってすぐに目に飛び込んでくるのが、町のキャラクター“里ちゃん”などと共に飾られたサイン入りポスターや色紙などの貴重な藤井風グッズの数々。

「ふるさと納税でも、風さんのおかげで“里庄町”のワードでの検索が増えて、寄付額は’19年度には2700万円弱だったのが、’21年には2億円を超えました」

町長室を訪れると、「♡愛してる里庄町♡」「優しさ♡」と両面にサインされたCDや、町内に掲げられていた「祝・文部科学大臣新人賞 受賞」の横断幕のミニチュアなどの前で加藤泰久町長(62)が、

「わが町は、人口も1万1千人ほどで、面積もわずか12平方キロmという、これといって観光の目玉もない小さな町ですが、風さんファンと町民の交流も生まれて、町全体が元気をもらっています」

藤井が、この出身地の役場を表敬訪問したのが’20年夏。

「気さくで、飾らない人柄は、昔も今も変わりません。音楽はもちろん、そんな人間性をみんなが好きなんだと思います。

この町らしく、風さんの本業を邪魔しないように、自然体で応援していこうと思っています」

■昨年の『紅白』では里庄町からの生中継と思わせる演出に、近所の人が実家に駆け付けた

昨年末の『紅白』の際には、もしや里庄町からの生中継かと思わせる場面もあり、町はにわかに盛り上がったという。

「多くの近所の人が、家を飛び出して彼の実家へ駆けつけたそうです。実は東京の会場にいたという巧みな演出でしたが、あの大舞台で“里庄町”の名前が出たことは町民の誇りとなりました」

小さな町の名前と、緑色のモコモコのスリッパ姿を強烈に印象づけて終わった『紅白』だったが、これを機に里庄町への訪問者が急増するきっかけともなった。

サインにも「愛してる」と書き添える、大好きな故郷の町が注目されることを、藤井自身も喜んでいるに違いない。

そんな「愛」と、シングルのタイトルともなった「優しさ」に貫かれた藤井風の音楽に、日本だけでなく世界中の人が癒されている。

「僕がみんなの前で歌うことが、何かの役に立つなら」

彼が、かつて町の音楽仲間に語った言葉だ。

その原点を探しに、ゆかりある場所と人を訪ね歩いてみた。

■昼休みに流行っている曲のリクエストがあれば、その場で弾き語りをしてくれた

「ひと言でいえば“変な人”。あっ、ユニークなキャラという意味ですよ(笑)。小学校時代は、音楽というより、おもしろい男子のイメージ。架空のお笑い芸人になりきって、オリジナルのネタで教室中を笑わせていました」

共に公立小・中学校へ通ったという同級生は語る。

’97年6月14日、里庄町で喫茶店「ミッチャム」を営む両親のもとに生まれた藤井風。4人きょうだいの末っ子で、兄でミュージシャンの空とは13歳も年が離れていた。

《わしのずーっと近くにおったのがお父さんだったんで。子育てはほぼお父さんみたいな感じだったんですね》(『MUSICA』’22年5月号より。

以下《 》内同)

3歳でピアノを始め、小4でオリジナル曲を書き始めたのも、ミュージシャン志望の父親の影響だった。12歳のとき、やはり父親の「これからはYouTubeの時代だ」という勧めもあり、実家の喫茶店のピアノで弾き語りなどをして、カバー曲の配信を始めた。

中学では、一時、バスケット部に在籍したが、やがて再び音楽中心の生活に。前出の同級生は、早くも小学校高学年のころには、「ピアノの上手な風くん」のキャラができあがっていたと話す。

「卒業式などのピアノ伴奏は自然に風くんの役目だったし、昼休みに当時流行っていた『青山テルマが聴きたい』とリクエストすれば、その場で弾き語りしてくれました。絶対音感があるから、どんな曲も即興で再現できたんですね。

あと、教室でサインの練習も熱心にしていて(笑)。今、書いているサインは、当時からほとんど変わっていないんじゃないかな」

中学卒業後、地元では難関校とされる岡山県立岡山城東高校(岡山市中区)の音楽専門コースへ。音楽漬けだったという高校生活を経て、就職や大学進学はせずに、自分なりに将来、音楽で生きていく道を模索する日々が始まる。

具体的には、曲作りをしながらの、地元の夏祭りや高齢者施設などでのコンサート活動だった。

【後編】シンガー藤井風のデビュー前秘話 町のコンサートでおばあちゃんたちを熱狂させてへ続く

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