「53年ぶりに再会したんですよね。小学校5年生で両親が離婚することになりまして。

父は私を呼んでくれていたんですけど、断って母のところに行ったんですよね。私の意思で。

家庭は崩壊しているわけですからね。名前も変わって、環境も変わって(父のことはずっと)何も思ってなかったんですけど、突然、父の弟の方から連絡が入って、『もう会っておいたほうがいいんじゃない?』って声かけていただいて、会ったんです」

9日に放送された『徹子の部屋』(テレビ朝日系)でそう語った風吹ジュン(70)。風吹はかつて高校教師だった父親の不倫が原因で両親が離婚。兄とともに母親に引き取られ、それ以来、父親とは半世紀以上も“絶縁状態”にあったという。

番組だけでは語り切れない“壮絶な過去”について、風吹は昨夏のインタビューでこう語っている。

《久しぶりに会った父は、要介護3の状態で病院のベッドに横たわっていました。そして、その傍らには私が幼い頃に家族が崩壊する原因となった女性が未だに寄り添い、父の看病をしていました。そんな彼女から父の話を聞くのは、複雑でもあり、初めて耳にする数々は興味深くもありました》(『HERS』’22年夏号)

’18年のNHK連続テレビ小説『半分、青い。』の撮影で大阪に滞在していた風吹はそれまでの時間を埋めるように、父親が住んでいた奈良の病院へ幾度となく通ったという。父親が第二次世界大戦期、海軍航空隊に所属し、戦時中にゼロ戦のパイロットだったことも初めて聞かされたそうだ。

そして父親が’21年、96歳で亡くなった気持ちを同誌でこう告白。

《だから、空に雲が浮かんでいると、『ああ、お父さんが隠れているんだな』と、思ったりして。そして、空を見上げては、幸せな気持ちになるのです。今では、母から父を奪った女性に感謝すらしています。母は最期まで彼女を憎んでいたけれど、その母が教えてくれたのは、人を憎むことは自分の人生を追い込み、辛い生き方に繫がるということ――》

■母から「今日から自分で生きて」と通達を

父親が不倫相手のもとへ去り、母親と一緒に富山で生活し始めた風吹。だが、その時間も長くは続かなかった。風吹は13歳で、母親からも「養えなくなった」と“育児放棄”されていたと別のインタビューで語っている。

《幼い頃に両親が離婚して、母に引き取られたものの、「今日から自分で生きていって」と通達されてしまい、兄のいた京都へ行って、保護者のないまま中学時代を送って……》(『婦人公論』’21年7月13日号)

風吹の知人は言う。

「彼女に貯金などなく“窓を開けると目の前が崖”という狭小の部屋で暮らし始めたそうです。3歳年上のお兄さんが働く代わりに彼女が台所に立ち、苦しい家計をやりくりしたといいます」

そうして兄と二人三脚で生きていき、18歳のときに単身上京。20歳でモデルデビューし、ドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS系)で共演した樹木希林さん(享年75)との出会いをきっかけに本格的に女優業へまい進することに。つらい少女時代を生きた風吹だが、両親を含め、決して人を恨むようなことはなかったという。

前出の『婦人公論』ではそんな彼女の人生訓も語られていた。

《そういう特殊な生い立ちなので、あまり人に期待していないのかな。とにかく、誰かが助けてくれるなんて幻想はとっくの昔に消えているし、若い頃は私のことを理解してくれる人などいるはずがないと考えていました》

風吹は’81年に音楽プロデューサーと結婚し2児を授かるも、相手の不倫が原因で’92年に離婚。40歳のときだった。

「小学校にあがったばかりの娘さんと息子を引き取り、女手ひとつで子供たちを育て上げました。現在は交際10年になる年下の実業家の方と同居生活を送っていると聞いています」(前出・知人)

■4人の孫が誕生「長生きしてよかった」

風吹の母親は晩年、認知症を患ったという。『徹子の部屋』で風吹は介護生活をこう語っている。

「大変でしたね。あの賑やかな母親でしたから、突然病院から電話がかかってきて『迎えに来て!』って言うんです。反抗期なのかな? 私に腹が立って救急車を呼んで入院しちゃうんですよね。つまらないとすぐ『迎えに来て!』。とってもワガママ言ってました。

最後はお手伝いさんも次々と断っちゃうので、とても手が回らなくて兄にもお願いしたんです」

兄妹で協力しながら介護に奔走していたという。母親が京都で臨終の際は仕事の都合で間に合わず、風吹は到着後、故人の体を清める湯灌を自ら行ったという。親子関係カウンセラーの横山真香さんは“捨てられた親”の最期を看取ることは、子供にとって大きな意味があると言う。

「そういう親の場合、亡くなる寸前になっても会わない子供はとても多いです。でも、それは親の本当の姿を見るチャンスを失うことと同じだと思うんです。親が年老いていけば子供も成長して人生の酸いも甘いも知る。あんなに嫌いだと思っていた親と数十年ぶりに再会したら『お父さんも苦しかったんだ』とか『お母さんはこう思っていたんだ』と察して、積年の負の感情が初めて着地できることもあります。

風吹さんにしても、きっとお父様に会っていなかったら家庭を捨てた父親とその不倫相手という見方で終わっていたことでしょう。しかし実際に対面したことでお父様と相手の方へ新たな理解ができた。風吹さんの今後の人生に貴重な時間だったと思います」

壮絶な半生を歩んできた風吹。だからこそ、その言葉にも重みがある。彼女と一緒に仕事をした制作関係者は言う。

「ドラマの撮影がきっかけで、風吹さんとスタッフ数名でご飯を食べに行ったんです。

そのときに人生相談に乗っていただき、『誰かを恨んで生きるのはとてもつらいこと』と言われたことが今でも心に残っています」

風吹はいま4人の孫がいる。米国にいる孫2人とはリモートでも交流しており「長生きしてよかった」と心底思っているそうだ。波瀾万丈の人生を経て、両親を看取った経験が彼女の明るい70代を支えていたーー。

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