2028年のロサンゼルスパラリンピックで3大会連続のメダル獲得を目指すパラ水泳アスリートの富田宇宙さん(37)が自ら実践するメンタルトレーニング「ごきげん学プログラム」を、所属するEY Japan(東京都千代田区)の管理職研修として2025年9月から始めた。
“ごきげん学”は、スポーツ心理学をアスリートの現場で実践する「応用スポーツ心理学」の一つで、さまざまな人が取り入れやすいよう最適化された研修プログラム。
網膜色素変性症という難病で16歳から徐々に目が見えなくなった富田さんに、ごきげん学プログラムを始めた動機やこの難病の進行に伴う物事の捉え方、考え方の変化を聞いた。
―なぜごきげん学プログラムをEYの研修として始めたのですか。
私は競技パフォーマンスを上げるため、スポーツドクターの辻秀一先生が開発したこのメンタルトレーニングに長年取り組んできました。当初はプレッシャーやストレス下でもやるべき事に集中したり、苦しい水泳練習も楽しむことで効率を高めたりと、競技パフォーマンスを向上させるためでした。ですが実践し理解を深めるうちに、状況や他人に振り回されない心の余裕を育むこの理論は、ビジネスパーソンが日々機嫌良く働き、さまざまな背景を持つメンバーと協力し合い活躍する職場環境の実現にも有効ではないかと思いました。そこでEYでDEI(多様性・公平性・包括性)を推進する担当者(多様性推進部課長)として、辻先生の協力を得てこのごきげん学プロジェクトを立ち上げました。最近注目されているウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良い状態)を本質的に追求する新しい試みとして、社内だけでなく、ビジネス界全体に広げていきたいと考えています。
―ごきげん学プログラムの特長は。
“非認知的”な脳の使い方を活性化することです。
◆機嫌の良さは波及する◆
―プログラムの受講者数は。
25年9月から26年3月までのプログラムを、まずはEYの管理職約100人が受講しました。
単に知識として知ってもらうのではなく、仕事・生活に生かせるスキルとして身に着けてもらうことを目指しているので、参加者同士での対話や自身の内面を書き出してもらうことなども実施しています。普段から機嫌の良さを大事にする働き方は、周囲に波及し、多くの人が機嫌よく働けるチームの誕生にもつながっていきます。
◆人生を振り返る機会にも◆
―受講者の反応は。
職場だけでなく、たまに子どもと接していらいらした時に自分をコントロールできるようになって機嫌が良く子育てができるようになったとか、人生をどういうふうに生きていきたいのかをあらためて考えて自分のキャリアを見つめ直すきっかけになったとか、うれしい感想をいただいております。単なる仕事の「ストレス対策」ではなく、よりよく生きていくための「心のマネジメント術」として機能していると思います。仕事のパフォーマンスに限らず、受講者のみなさんの人生の“質”をより豊かなものにする取り組みであることが実感できてうれしく思っています。このごきげん学プログラムは、自分のライフワークとして一生をかけてやっていきたいプロジェクトです。
―ごきげん学プログラムは人生を振り返る機会にもなる?
このごきげん学プログラムは、例えば、こういう場合にはこういうふうに考えましょうとか、こういうことを言われたらこういう風に言いましょうとか、そういった「場当たり的なコミュニケーション術」や、嫌なことがあっても自分はまだ恵まれていると考えて前向きになりましょう、と自分に言い聞かせる「ポジティブ思考」とは違います。まずは心理学や人間工学に基づいた人の脳と心の働きを理解して、「私の場合はこれを考えると気持ちが自然といい方向に行く」という内発的なエネルギーを体感し自覚していく“体感学”です。
―ポジティブシンキング的なアプローチとの違いは。
思考の“構造”に立ち返って心を整える点が違います。
―受講者のそのほかの反応は。
これはあくまで個別的な反応ですが、仕事で嫌なことがあるたびに甘い物を食べていらした人が、ごきげん学を受講して重要なのは自分の思考をマネジメントして機嫌を良い方向にすることであり、ストレス解消のために甘い物を食べることには意味がないと気付いて、ダイエットに成功したと聞いています。
◆一身二生◆
―16歳から徐々に目が見えなくなって、ものの見方や考え方に変化はありましたか。
大きな変化がありました。この変化は自分の人生の幅を広げてくれました。目が見えていた高校までは、何かを目指して努力をすれば、それに見合った結果が得られるのが当然と思っていましたし、誰にも欲しいものを手に入れる権利と資格があり、自分にはそれを行使するために努力できる力があるという傲慢(ごうまん)な考えで生きていました。
―その強みは、以前のインタビューで「障害は強み」と述べている意味での“強み”ですね。
私は強みという言葉を、いわゆる「ストロングポイント」ではなく、「ユニークポイント」の意味で使っています。人それぞれが持つ“濃い特徴”という感覚です。例えば「すごく足が速い」も強みですが、「足が遅い」もまた強み、ということになります。まずは自分の「特徴」を良しあしの価値判断をせずに捉えて、自分にあって他人にはない「濃い特性」をどう生かして生きていくか、という視点を持つことで人はそれぞれの可能性を広げられると考えています。こうした概念を自分の中で咀嚼(そしゃく)して言語化できるのは、20代後半から学んできたコーチングも影響しているかと思います。普段の研修や講演では、自身だけでなく周囲の人の特徴についても良い悪いとジャッジせず、「一つの濃い部分」として、どうすればそれを最大限生かせるかという発想を持って協力し合う姿勢が大切です、とお伝えしています。
◆言葉を磨く◆
―そのように自分の心の在り方を考える内省的な側面は子どものころからあったのでしょうか。
子どものころから”うんちく好き“でしたね(笑)。深い精神性を感じさせてくれる宮沢賢治の世界が好きでした。加えて目が見えなくなっていく過程でより内省的になり、言葉に重きを置くようになったと感じています。
―言葉にも?
目が見えない分、言葉に頼らなければならない場面が多いので、自ずと明晰(めいせき)な表現が必要になります。「これ」や「あれ」といった表現では認識を共有できませんから。正確に意図を伝えられるよう言葉を吟味する癖がつきました。また、今回のインタビューのように発信の機会をいただくたびに、自身の感覚を正確に伝えることの難しさを何度も痛感してきました。反省を繰り返しつつ、日常的に自分の考えを明快に伝えられる言葉を探すことが習慣になっています。
◆パラリンピックの価値◆
―富田さんにとってパラリンピックの魅力は何ですか。
人の新たな可能性を示すことを通じて、公平性の価値を社会に訴えかけることができる点が一番の魅力です。今の時代に必要な価値観を社会に伝える力は、パラスポーツならではの素晴らしさだと思います。それぞれの持つ能力に応じて競争があり評価される、それが「公平性の価値」です。
―そうしたパラスポーツの価値やパラアスリートの在り方は、海外と日本で違いはありますか。
個々にいろいろな考え方があるので一概には言えませんが、パラスポーツが普及しているヨーロッパのパラアスリートたちの発信を見ていると、パラスポーツが社会との接点になり、自身の障害を受容することにつながったことや、その過程で成長でき、たくさんの仲間を得られたことなど、スポーツの勝ち負け以外の価値も発信する選手の存在感が強い印象です。パラスポーツの価値を自分の言葉できちんと発信できるパラアスリートの在り方には見習うところが多いです。私もパラスポーツの本質的な価値を伝えられる発信力を鍛えていきたいと常々思っています。
―オリンピックもパラリンピックもメダル至上主義、結果至上主義的な側面が観客も含めて目立ちますね。
私はスペインに住んだ経験もあり、確かにヨーロッパなどスポーツ先進国に比べて、日本はそうした面が強すぎるかもしれないと感じたことはあります。日本ではまだあまり浸透していませんが、本来のスポーツは、人々がよりよく生きていくための“文化活動”であり、私たちは「健康・教育・コミュニケーション・芸術」など多くの文化的価値を享受することができます 。そしてスポーツの力で障害を乗り越えてきたパラアスリートたちは、まさにこれらを体現する存在です。私はパラアスリートには、結果至上主義に隠れてしまいがちな、スポーツ本来の在り方を広く社会に訴えていく役割があると考えており、それが私自身デュアルキャリアアスリートとして第一線で泳ぎ続ける理由でもあります。
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とみた・うちゅう 1989年熊本市出身。16歳で失明に至る難病「網膜色素変性症」が判明。日大文理学部情報システム解析学科を卒業し、キヤノンソフトウェア社員を経て、15年9月にEY入社。21年の東京パラリンピックで2個の銀メダルと1個の銅メダルを獲得。24年のパリパラリンピックでは2個の銅メダルに輝いた。











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