人生の充実感はどうすれば得られるか。古典教養アカデミー学長の宮下友彰さんは「カントは、昼からビールを飲む行為を『奴隷』的行為だと蔑む一方で、自分を戒め、ビールを飲もうとする欲求をぐっと抑えることこそが、自分の欲望から『自由』になれたということだと説いた」という――。

※本稿は、宮下友彰『不条理な世の中を、僕はこうして生きてきた。知っているようで知らない「古典教養の知恵」』(大和出版)の一部を再編集したものです。
■一風変わった「自由」の解釈
「自由とは自分を律することである」

――退廃的な毎日から救ってくれた言葉
スピノザの章では、「自由意志」など存在しないという主張を紹介しました。
本稿で紹介する哲学者エマニュエル・カントはその逆で、「自由」は存在すると定義した人物です。
真逆の主張に混乱するかもしれませんが、古典教養を学ぶいいところは、相対する考えを学べることにあります。
今回の「自由」について言えば、「自由などない」と信じたほうが気がラクになることもあれば、「自由は存在する」と信じたほうが気がラクになることもあるでしょう。
気分で服を替えるように、考え方も気分によって変えればいいと思います。
では、一風変わった「自由」の解釈をしたカントという哲学者の思想を見ていきましょう。
■自由とは自分を律すること
カント「自律」のあらまし

――昼間からビールを飲むことは自由?
エマニュエル・カントは18世紀末を生きた哲学者です。
彼は毎日、決まった時間に起床し、決まった時間に散歩をし、さまざまな哲学的な諸問題を歩きながら考える、非常に生真面目な人間でした。
それは彼の哲学にも反映されているのですが、その最たるものは、彼が定めた「自由」の定義です。
カントは言います。

「自由とは自律である」。
自由とは自分を律することである、と主張するのです。
では、「何にも縛られない」という意味であるはずの自由が、なぜ「律する」という言葉で表現されるのだと思いますか?
たとえば、あなたが営業マンとして働いているとします。
業務時間のほとんどは外出していて、さまざまなクライアントのもとに通うのがあなたの仕事です。
ある暑い夏の日、昼食を食べに定食屋に入ってメニュー表を見ていると、定食のほかに生ビールの文字が目に入りました。
今は勤務中で、ビールを飲むことは常識的にNGです。
ところが、あなたはビールを注文し、飲み干してしまいました。
普通ならその行動を、「自由」と表現するでしょう。
しかし、カントであれば、そんな行為を「自由」であると見なすどころか、自由を失った「奴隷」的行為だと主張するでしょう。
一見、僕らの直感とは違う判断を下すカントの主張ですが、次のように考えると納得できます。
カントは、昼からビールを飲む行為を「奴隷」的行為だと蔑みます。
なぜでしょうか。

それは、ビールを飲むことが自分の欲望の「奴隷」になっているからです。
■自由に過ごしているのに、なぜ満足感がないのか
同じように、「やるべきことがあるのに眠たくなったら寝る」「宿題があるのにゲームをしたくなったから遊ぶ」というのも、「自分の欲望に振り回されている」とカントは考えます。
反対に、「本当はビールを飲みたいのだけれど、勤務中にアルコールを摂取することは不謹慎だ」と自分を戒め、ビールを飲もうとする欲求をぐっと抑える。
これこそが、自分の欲望から「自由」になれたということ、つまり「自由とは自律である」というわけです。
つまり、「自分が決めたルールにきちんと従えることが真の自由である」とカントは説きました。
たとえば、体重が増えはじめたことが気になって、ダイエットを決意したとします。
ところが、ある日、友人からおいしそうなケーキをもらってしまいました。
一般的に考えれば、そのケーキを貪ることが「自由」な行為です。
しかし、カントは、そのケーキを食べてしまったら、自分で決めた「ダイエットをする」というルールを守れず、欲望に振り回された「奴隷」だとあなたを非難することでしょう。
反対に、自分で決めたルールに従い、ケーキを食べるのを自ら拒んだとき、あなたは真に自律的であり、「自由」になれたということになります。
「自由とは自律である」というのは、一見矛盾した主張に思えますが、このように考えると納得できるのではないでしょうか。
この古典教養が救ってくれる人

・自由に過ごしているものの、なぜか満足感がない人

・休日をどう過ごせばいいかわからない人

・自分は「リア充」とは程遠いと考えて、落ち込んでいる人
■自由の意味を知り、人生を変えようと考えた
僕は先述の通り、大阪支社で勤務しながら、楽しい日々を過ごしていました。

初めての一人暮らしで、どんなに夜遅く帰ってきても、誰にも迷惑をかけない。
当時の僕にとって最高に「自由」な毎日でした(カントの定義する「自由」とは違いますが)。
特に金曜日の夜は、朝になるまで会社の後輩と飲み歩いたり、さまざまなバーに顔を出し、人間関係を広げていました。
その犠牲というべきか、土曜日のはじまりは、だいたい昼か、最悪の場合、夕方で、二日酔いによる頭痛に苦しみながら起床します。
そして、迎え酒で、土曜日の夜はまたバーに繰り出し、日曜日も潰す。
そんな堕落した休日を過ごしていました。
一方で、大阪でゼロから知り合いを増やしていくうちに、「会社の力を借りずに、1人でこの地でやっていけるのではないか」という考えが湧いてきました。
新入社員時代の「仕事から逃避する」ためのネガティブな退職ではなく、「仕事が楽しいから」こそ、自分の可能性を突き詰めてみたいというポジティブな退職を考えはじめたのです。
そんな考えを持ったまま、なんとなく日々を過ごしていただけでしたが、次第に、土日の大半を二日酔いで潰してしまっていいのか、もっと将来を考えるための時間に使うべきではないかと真剣に考えるようになりました。
■好きなときに好きなことができても充実感がない
そのとき、偉大な哲学者であるカントの声が聞こえました。
「お前は自由の意味をはき違えている」と。
たしかに、一般的に自由とは「誰にも邪魔されない」「好きなときに好きなことができる」といったものです。

しかし、その通りにやってもなぜか充実感はありません。
夜中までバーで飲み明かしたのに、なぜか虚しさしか残らない。
たまに平日では仕事が終わらず、土曜日を使って全部仕事を終わらせようと、休日出社をすることがありました。
結局、すべての仕事が終わるのは夜なのですが、なぜか充実感があるのです。
この違いこそが、カントの「自由とは自律である」という主張でした。
僕はあえて、「決して土曜日を無駄に使わずに」「仕事を終わらせることに使う」という自分に課したルールを守ったことによって、カントの言う自律的な自由な状態になり、それにより、たしかな充実感を得ることができたのです。
充実感を得る方法をカントから学んだ僕は、徐々に友人の数も増えていく中で、ある企画を始めることにしました。
それは、「本を読み、その本の魅力をプレゼンする」という「読書会」というもので、あえて開催日時を土曜日の朝7時に設定しました。
その決断の裏にも、やはりカントの哲学がありました。
何からも束縛されることなく、何件も飲み屋を回り続ける行為は「自由」ではなく、むしろそれは欲望の「奴隷」です。
そうではなく、「土曜日の朝は早く起床しなければならない」という、自分で決めたルールに忠実に従うことこそが真の「自由」だと、カントは称賛してくれるはずだと思ったのです。
■罪悪感は、欲望に打ち勝つことで消えていった
実際に、「読書会」は、毎回20名ほどのメンバーが集まり、定期的に開催されるようになりました。

彼らも僕と同じように「金曜日の夜に遊びすぎて、土曜日の大半を無駄にしてしまって、後ろめたさが残っていた」と話してくれました。
なぜ、後ろめたさを感じるのでしょうか。
それは、カントの言うように、心のどこかで「自分の欲望の奴隷になってしまった」という罪悪感が存在するからです。
反対に、金曜日は早く寝て、土曜日は平日と同じ時間に起床して、朝の読書会に参加するとします。
読書会が終了しても、まだ時間は午前9時前です。
二日酔いで土曜日を潰すよりも、読書会に参加したほうが達成感があるのは、自分で決めたルールにきちんと従えたからです。
言い換えれば、「もっと酒を飲みたい」「もっと遊びたい」「もっと寝ていたい」という自分の欲望に勝てたからです。

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宮下 友彰(みやした・ともあき)

古典教養アカデミー学長

1987年、埼玉県出身。学生時代より、哲学・文学・思想の本が好きで、数百冊を読み漁る。早稲田大学政治経済学部を卒業後、博報堂グループの広告代理店に入社。仕事で壁にぶつかるたび、かつて読んでいた哲学・文学・思想の言葉を思い出し、自分を奮い立たせてきた。のちに退職し、2019年、採算度外視で、教養を学ぶサービス「古典教養アカデミー」を大阪天満橋にオープン。
2020年、コロナにより、全面オンラインに移行、2022年YouTubeチャンネル開設(登録者数3500名)。日本政策金融公庫、佛教大学、京都先端科学大学などで講演実績あり。

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(古典教養アカデミー学長 宮下 友彰 イラストレーション=さこうれい子)
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