習近平のファーストレディ、彭麗媛(ほう・れいえん)とはどんな人物なのか。英ジャーナリストのマイケル・シェリダンさんによると「彼女には隠された過去があった」という。
著書『紅い皇帝 習近平』(草思社)より紹介する――。
※本稿は、マイケル・シェリダン(著)、田口 未和(訳)『紅い皇帝 習近平』(草思社)の一部を再編集したものです。
■伝説の歌姫に一目惚れした習近平
習近平の人生に現れた新しい女性は有名人だった。中国ではほぼ誰もが知っている彭麗媛(ほうれいえん)だった。
20代前半から歌手として毎年、新春を祝う全国放送のテレビ番組に出演していた。中国の新年は、家族が集まって夕食をともにし、テレビで娯楽番組を見るのが伝統だった。
離婚した孤独な地方官吏の習近平に、彭麗媛は魅惑と情熱を与えた。彼女は正統派の歌姫で、そのソプラノの歌声は観衆の心をつかんだ。人々は彼女が歌う素朴な民族歌謡、たとえば「希望の野原に立って(在希望的田野上)」や「我ら黄河と泰山(我們是黄河泰山)」などの曲を好んだ。これらの曲と巧みに組み合わせて歌われる愛国的なバラードは、歌詞のなかで人々を「山と海」として称賛した。
民衆を「共産党の水源」と表現する曲もあった。彭麗媛は人々の目をとらえて離さなかった。
軍楽隊が伴奏し、バックダンサーが所定のダンスをこなすなか、赤いシルクのロングドレスを着た彼女が舞台を踊りながら移動する。テレビカメラは、ふっくらした手で赤い旗を振りながら笑っている子供たちを映し出した。
彼女の夜の衣装は時にはオリーブグリーンの軍服を褒章で飾ったものに変わった。というのも、彭麗媛は人民解放軍文化部の少将でもあったからだ。
■妻への告白のセリフ
どの記事を読んでも――もちろん、どれも中途半端で詳細に欠けていたが――習近平は彼女に一目惚れしたと書いてある。
習近平が彼女に、「出会って最初の40分で、あなたが将来の妻になる人だとわかった」と告白したとする記事もある。彼らの最初のデートは1986年に友人がお膳立てをした。詳細は不明だが、効果があったのは間違いない。
場所は厦門だった可能性が高い。習が副市長を務めていた活気ある港町だ。習は33歳で、彭は24歳だった。興奮が伝わる記事のひとつによれば、彭麗媛は最初のデートにわざと控えめな軍服を着ていった。

彭本人が国営新聞に、最初は習近平のことを、年より老けていてつまらない相手に思えたと語っている。習は軽いおしゃべりが苦手でもあったが、それでも、2人は相性がよかったようだ。
習近平は彭麗媛に歌うときのテクニックについてたずね、彼女のプロとしての仕事に興味を示した。そして、彼女は「たちまち」恋に落ちた。このロマンスについての定番のプロパガンダは、習が彭に敬意をもって接したということだ。一度のデートが次のデートにつながった。
■国営メディアは報じない妻の本当の生い立ち
中国の将来の指導者が彼女の人生に入り込むずっと前から、彭麗媛が確固たるキャリアと評判を築いていたことは重要だ。彼女は全国的な有名人だっただけでなく、その後も50カ国ほどで公演を続ける。彼女が政治的に申し分ない妻であることが、夫の「ソフトパワー」においても重要だった。
彭麗媛は1962年11月20日に鄆城(うんじょう)県で生まれた。中国東海岸の山東省の奥地にある地域だ。父親の彭龍坤(ほうりゅうこん)は党の下級役人で、習近平の父親と同様に文化大革命の犠牲者となる。

彭の場合は、遠縁に国民党軍に参加した者がいることを地元の紅衛兵に知られたのが原因だった。しかし、彼はそれほど大物ではなく、この家族の生活は、習一家とは非常に対照的なものだった。
将来のファーストレディの地味な生い立ちは、国営メディアによって美化され、故郷の村の正確な場所さえ言及されていない。実際には、そこは彭と呼ばれる集落だった。一家は泥の壁と小さな窓の平屋根の家に暮らしていた。
彭麗媛が有名になってから記者たちが訪ねたときには、農夫たちが中庭を使ってトウモロコシの莢(さや)を乾燥させていた。
■村人たちが語った父親の秘密
村はオートバイの力車で世界とつながっていた。2015年にやってきた記者たちに、何人かの村人がためらいがちに、かつての隣人について話した。年老いた村人たちはまだ毛沢東スタイルの帽子と上着を着ていた。
彭麗媛が資金を出し、彼女の名前がついた殺風景なコンクリート造りの小学校では、何列にも並ぶ机に着席した大勢の子供たちが、ぽかんと口を開けてよそ者たちを見ていた。麗媛は彭家の3人の子供のひとりだった。幼いころは、母親が畑で働くあいだ、背中にひもで縛りつけられていた。

両親は地味な仕事をしていたが、野心は旺盛だったようだ。父親は余暇を使って、夜間学校で村人たちに文字の読み方を教えた。のちに、彭麗媛は村人たちが初めて自分の名前が書けたときや、新聞のページを開いてもっと広い世界について知ったときの驚嘆ぶりを目にした思い出を語っている。
母親は地元の芝居の一座に加わって演じていた。文化大革命の時代に入り、紅衛兵がやってきたときには、夫妻の善行は「ブルジョワ知識人」として災難をもたらすに十分だった。それは北京で支配的な党派の思想のために、中国全土で数百万の国民が負わされた小さな苦難の縮図だった。
彭麗媛は自分の子供時代について詳しい話をしてこなかった。しかし、村人たちによれば、父親はそれほど遠くない場所にある「再教育収容所」に送られた。彼女は母親と一緒に収容所まで歩いて食べ物を届け、父の洋服を洗うのを手伝い、父が掃除をさせられていた共用トイレで、両親が仕切りの下で手を握っているあいだ、看守たちが来ないか見張り役を務めた。
将来のファーストレディの子供時代の暗い現実は、習が望むイメージ構築にふさわしいものではなかった。
■それでも人民解放軍に入ったワケ
香港の『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト(南華早報)』紙の進取的な記者たちが2015年に村で情報集めをしようとすると、地元の役人に立ち去るように言われた。政府が村人に、そうした「デリケートな」事柄については話さないように指示を与えたらしい。

やがて文化大革命の嵐は徐々に衰え、彭の父親は以前の仕事に戻った。麗媛は最も近い地方都市の運城(うんじょう)の学校に送られた。教員たちが彼女の音楽と歌の才能に気づいたのは、14歳のときだ。彼女は山東省芸術学校への入学が認められ、そこで才能が開花した。
家族へのひどい仕打ちも、彭の大義への忠誠をひるませなかった。彼女は18歳で人民解放軍に入った。軍への入隊は社会的、経済的な出世の早道だ。人民解放軍は彭の両親のような文化大革命の多くの犠牲者から尊敬されてもいた。
なぜなら、紅衛兵を倒して秩序を回復した部隊だったからだ。初期の時代から、軍は愛国心をかき立て士気を高めるために、音楽と娯楽を非常に重視していた。中華人民共和国では政治と芸術が腕を組んで進んでいた。
彭は好機をつかんだ。
彼女は「文芸兵」に任命され、観衆の前でのパフォーマンスに生まれながらの才能があるとわかった。彼女のフレッシュさと歌声のなかの何かが兵舎や町の広場で観衆の心を打った。
1979年には、ベトナムとの悲惨な国境紛争の前線へ行く慰問団の一員に加わった。軍の広報担当はすぐに、逸材を手にしたと気づいた。
■結婚にためらいがあったのは妻の両親
彭は20代前半にはすでに、中国中央電視台で催される毎年恒例の「春節の夕べ」のスター歌手としての地位を築いていた。このイベントは全国的に知られ、世界中で最も多くの人が見るテレビ番組になった。
彼女はすぐさま大成功し、毎年出演するようになる。パフォーマンスには特徴的な見かけやスタイルなどはなく、うまく変化を持たせていた。彭は時にはゆったりしたロングドレスを引きずりながら舞台上を横切った。
あるいは、龍や花の美しい刺繡が施された、体にぴったりした伝統的なシルクのチャイナドレス(旗袍)で観衆の目を引いた。仕立てのよい軍服を着て気取って歌う曲は、多くのファンを魅了した。
このように、彭麗媛が1986年に厦門の副市長とのデートに同意したときには、彼女はすでに伝説の歌姫になっていた。二人はすぐにお互いに夢中になり、1987年9月1日に厦門で結婚した。
簡単な式のあと、自宅での夕食会が続いた。習近平の両親は、息子が優雅で有名人の妻を得たのを見て満足していた。奇妙なことに、ためらいがあったのは彭の両親のほうだ。彼らは遠く離れた北京に住む革命の名門貴族に、素朴な不信感を抱いていた。
■妻への献身的な愛情
習近平が最高指導者になったあと、国営メディアが注意深く編集して提供した彼の結婚生活は、魔法の種明かしを決してしなかった。
それでも、ファーストカップルが人々にどう見られたいと思っているかを明らかにした。「彼らは仕事のためにしばしば別々に暮らしたが、互いを理解し、支え合い、いつも相手への思いやりを見せた」と、新華社通信のプロフィールは飾り立てた。
それに添えられた家族写真を見ると、控えめな伝統的な服を着た彭麗媛が庭を歩き、夫は自分の年老いた父親、習仲勲が座る車椅子を押している。仲睦まじい家族をアピールし、子としての義務を果たしている写真だ。習本人は仕事の合間に少しだけ立ち寄ったかのように、その場に不釣り合いなビジネススーツを着ている。
結婚後しばらくは、彭は人民解放軍の旅回りのショーに参加しつづけた。一座はしばしば中国の片田舎まで旅した。守備隊が山のなかで凍えていたり、砂漠で日焼けしたりしている場所だ。時には一度で2、3カ月も移動を続けることがあった。しかし、「妻のことを心配する」習は、彼女の行き先を突き止め、毎晩、「どれだけ遅くなっても」電話をかけたという。
妻への献身的な愛情が極まるのは、春節のテレビ番組の夜だ。妻が大衆を楽しませているあいだ、習は台所で餃子を手作りする。生地をこねて切り分け、おいしい具を詰め、妻が帰宅すると餃子を鍋に入れ、家族がみな座って食事をとった。
■「ほかの誰とも違い、それでいて普通の人」
彭はお返しに、手料理を好む夫のために「さまざまな地方料理」を作った。習は若いころに陝西省で食べていた香辛料をきかせた料理も、妻の故郷の山東省の軽めの食べ物も好物だったという。
新華社が発表したプロフィールを読んだ国民は、指導者が「友人たちとのパーティーのあいだにはほんの少し酒を飲み」、夜更かししてテレビでスポーツ番組を見るのが習慣だと知った。
ほかには、水泳と登山、そして、バスケットボール、サッカー、ボクシングの観戦を好むとも書いてあった。読者は習のことをごく普通の人だと思ったかもしれない。彭にとっては、夫は「ほかの誰とも違い、それでいて普通の人だった」。
習は出世の階段を上りつづけ、彭はほとんどの時間を北京で過ごした。彼女は意欲的に自分のキャリアを追求した。1986年には、伝統的な革命歌劇「白毛女」の主人公喜児を演じて、中国で最も栄誉ある演劇賞の「梅花賞」を受賞した。

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マイケル・シェリダン
ジャーナリスト

1989年6月に香港と中国から最初のレポートを送り、その後は『サンデー・タイムズ』紙の極東特派員を20年間続け、中国の興隆、1997年の香港返還と香港民主化運動を報じた。それ以前にはロイター通信、ITN、『インディペンデント』紙などで、中東の戦争、国際外交とヨーロッパの政治などを、ローマ、ベイルート、エルサレムを拠点に報道した。『スペクテイター』、『タブレット』、『ヴァニティフェア』、香港の『信報財經新聞』などにも寄稿している。2021年に香港の歴史を批判的に描いた『The Gate to China』を出版した。

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(ジャーナリスト マイケル・シェリダン)
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