コンビニ業界が飽和状態に陥る中、沖縄ファミリーマート(沖縄県那覇市)の業績が好調だ。全国の1店舗あたりの売上高(全店平均日販)ではセブン‐イレブン(68万3000円)が圧倒的なのに対し、沖縄県ではファミマが68万5000円と上回る。
なぜ沖縄ファミマはセブンに勝てるのか。糸数剛一社長に、ジャーナリストの座安あきのさんが聞いた――。(前編)
■沖縄県内の店舗数は圧倒的1位
革新は、いつも辺境の地から起こってくる。沖縄ファミリーマートが「地域ド密着」の徹底したローカル戦略をてこに、飽和状態に陥るコンビニ市場の停滞を覆して新たな拡大路線に入った。
大手コンビニ3社が発表した2025年第1四半期決算(3~5月期)で、1店舗あたりの売上高(全店平均日販)1位はセブン‐イレブンの68万3000円、2位はローソン58万4000円、3位ファミマ57万9000円。これに対し、同期間の沖縄ファミマの平均日販は68万5000円となり、初めてセブンの全国平均を上回って過去最高を記録した。沖縄ファミマは27年度に日商70万円、売上高900億円突破(24年度比74億円増)を目指している。
2019年にセブンが最後の空白地である沖縄に進出し、わずか6年間で190店超を開業、沖縄は全国3位のコンビニ激戦区に浮上した。337店を抱える沖縄ファミマは、真向かい、真横、真後ろに店を出される激しい「ドミナント攻勢」を受けてきたが、長年かけ“地元通”を掘り下げてきた蓄積の差が、ここにきて業績にあらわれてきた。
「全国チェーン」の便利さに「地元の馴染みの店」の親密さがかけ合わさり、独自の進化を遂げつつある。フランチャイズ運営に不可欠な縦の組織構造を受け入れながら、沖縄がもつ横社会と多様性の強みを感覚的に乗りこなすことができる「人」の存在が特徴的だ。36年間、沖縄ファミマの営業・店舗開発に携わり、米国ファミリーマートの社長を務めた経験もある糸数剛一社長(66)に、自身のバックグラウンドを生かした「ド密着戦略」の勝機を聞いた。

■「塩おむすび」や「フライドチキン」も沖縄発
「他のコンビニとの大きな違いはやはり、決定権が沖縄の側にあるということです。生活感があるかどうかが、ローカライゼーションしていく時の肝になりますから」
糸数剛一社長は、沖縄ファミマの特徴をこう説明する。
「地元の人の感覚で物事を決められること、地元の人が決裁権を持ち、人事権を持つということは社員の士気にも影響する。そのくらい実は大事なことだと思っています」
コンビニで買える「塩おむすび」や「フライドチキン」、近頃よく見かけるようになった「ポーク玉子おむすび」は、いずれも沖縄ファミマがオリジナルで開発し、人気商品となって全国のファミマに採用され、他店へと広がったものだ。今ではすっかり当たり前になったコーヒーのセルフ販売も、売り場の真ん中に専用マシンを置くスタイルで、全店で大々的に展開したのは沖縄ファミマが初だったという。
■「沖縄の生活がわかる」商品設計がヒットの法則
現在、沖縄ファミマに並ぶ弁当や惣菜など中食の50%以上を、独自に開発した商品が占める。変わりダネの一つに、紙コップ式の「泡盛コーヒー」がある。2010年の発売以来100万本超を販売するミリオンセラー商品になった。泡盛をブラックコーヒーで割って飲む県民スタイルから着想を得て開発したものなのだが、実はそのスタイルも「二次会のスナックの席でよく飲まれている」(同社広報)というディープなもの。商品のユニークさが観光客にうけ、沖縄でしか買えない手土産需要を掘り起こした。
さらに、2019年からは惣菜店「上間沖縄天ぷら店」と組み、分厚い衣で知られる「沖縄風天ぷら」を売り出し、累計約1500万本を販売。22年からは、「富士家ぜんざい」という、これまた地元民には馴染みの深い飲食店とコラボしたかき氷商品を定番化し、約169万個を販売した。
改良を重ねている「沖縄そば」は提携工場で製麺から手掛ける。もはやコンビニ弁当の域を超え、専門店に引けを取らない味とボリュームで、外食需要の一角までも取り込み始めている。
■「東京のにおい」に沖縄県民は見向きもしなかった
沖縄ファミリーマートは会社の構造と成り立ちに特徴がある。1987年、沖縄の流通大手リウボウグループが51%を出資し、ファミリーマートのエリアフランチャイズとして設立された。創業77年のリウボウはホールディングス傘下にデパートとスーパーを含め、1社で流通3業態を経営する総売上高1138億円、県内3位の非上場のローカル企業だ。
ファミリーマートは全国にチェーンを拡大していくにあたり、各地の有力企業と合弁会社を設立して運営する手法をとってきた。一貫して本社直轄で拡大してきたセブン&アイホールディングスとは真逆の展開だ。一方、競争環境の変化とともに、提携する地場企業の業績が悪化するなどした地域ではファミマ本体がその都度株式を買い戻し、本社管轄に移行してきた経緯がある。エリアフランチャイズ形式が今も残るのは、「リウボウ」と組む沖縄と、「本坊商店」と組む南九州(鹿児島・宮崎)の2地区のみとなった。
糸数さんが入社したのはファミマが沖縄に進出した翌年の1988年のことだ。当初は全国と同じ品ぞろえを目指し地域色を出さない戦略で店を増やしてきたが、1店舗あたりの日販は伸び悩みが続いていたという。
「入社した当時は累積赤字が何億もあって全然ダメな状態でした。
マチヤグヮー(商店)が強くて、認知されていない。東京ではコンビニが破竹の勢いで広がっていた時だったので、沖縄にも東京のにおいを持ってきたら当たる、そう見込んだのだと思いますが、簡単には受け入れられませんでした」
■「沖縄のほうが圧倒的に進んでいる」
糸数さんには、東京でいち早くコンビニの将来性に触れた、特別な原体験がある。
1959年、米軍統治下にあった沖縄に生まれた糸数さんは小学6年生の時に父親の転勤に伴って、那覇から東京に移り住んだ。沖縄が本土に復帰する1年前、琉球政府が発行するパスポートでの渡航だった。
戦後、多くの県民が貧しい生活環境にあった中、糸数さんの父親は米軍資本で創設された損害保険会社、母親は米軍向けに営業していた銀行「アメリカン・エキスプレス」に勤めていた。クリスマスやホームパーティーの様子を写したアルバムの写真には、両親と働いていた米国人の上司や同僚らの姿がある。生活ではドルを使い、大ぶりのステーキにアイスクリーム、チョコレートなど、日本人が憧れる米国のライフスタイルが日常にあった。それに比べて質素な東京の人々の暮らし、百貨店で輸入品の缶詰やお菓子が高級品として売られていたことには、心底驚いたという。
「沖縄のほうが圧倒的に進んでいるという優越感みたいなものがあったし、遠い異国から来たように見られ、クラスでは注目の的でした。勉強のレベルの高さについていくのは大変でしたが、沖縄だからと馬鹿にされたくない一心で猛勉強していました。僕にとっては思春期にカルチャーギャップまで加わった厳しい環境があって、本当に良かった」と振り返る。
そんな学生時代に糸数さんは、セブン‐イレブンが東京都内に出店し、急速に店舗網を広げていく様子を目の当たりにしている。

■20代は銀行員→フィリピン移住へ
「商店街の店は大体夜8時には閉まっていた。そこにセブンが朝7時から夜11時までの店を出したのは衝撃的でした。そこから数年もたたないうちに他店との競争が激しくなって24時間営業に変わっていった。夜の買い物需要がものすごくあったということですね」
早稲田大学を卒業後、糸数さんは沖縄に戻って銀行に就職し、外国為替を担当した。「マチヤグヮー(商店)のオバァーたちが日常的にトラベラーズチェックやLCオープン(個人輸入に必要な貿易口座開設の信用状)をハンドリングする姿に驚愕し、興奮した」という。だがある先輩に、「辞めるなら3年目まで。4年目になると、いかに待遇がいいかがわかって辞める根性を失う」と言われ、3年で退職を決意する。
放浪に出た旅先のフィリピンに魅せられてそのまま住み着き、結婚して子どもも生まれた。活気と混沌が入り混じる独特な空気感に米軍統治時代の沖縄が重なり、「居心地が良かった」(糸数さん)。現地で商売を始めたり、たまに“出稼ぎ”のため日本に戻って学習教材の訪問販売の仕事を得て上位の営業成績を上げたり、赴くままに20代を過ごした。
海外には、戦前に沖縄から移民でブラジルや米国に渡った親戚が暮らしていることもあって、海の隔たりを感じなかったという。学生時代を過ごした東京、本土に復帰して劇的に発展していく沖縄を頻繁に行き来しながら、グローバルな感覚でフラットに人間関係を築いていく術を身につけていった。

■「3年勤めたらタイへ」と思っていたら、ハマった
そんな糸数さんが一時的な定職を求めて帰郷し、紹介を通じて沖縄ファミリーマートへの入社を決めたのは29歳の時だ。フィリピンですでに、店舗網を広げつつあったセブン‐イレブンを愛用していた。当時はまだ珍しかった「賞味期限シール」のついた現地の惣菜品を外国人らが安心して手にしていた実体験から、「コンビニは絶対おもしろい業態になる」と確信して、飛び込んだという。
「3年勤めたら、今度はタイにでも行って自分で商売を始めるつもりだった」(糸数さん)が、会社は見込んだ通りの成長を遂げ、面白味にはまっていく。ファミマ本体の進出エリア拡大の機運に乗って、国内外を飛び回る仕事に持ち前の好奇心が刺激され、アイデアの具現化に奔走した。
ローソンが1997年に沖縄に進出、県内スーパー最大手サンエーと組んで「ローソン沖縄」を設立し、エリアフランチャイズに移行したのは2007年のこと。その同じ年、糸数さんはファミリーマート本社からの要請で、経営状況が悪かった米国ファミリーマート社の社長兼CEOとして改革を任されることになる。3年間、米カリフォルニアを拠点に店舗開発や商品開発のマネージメントを手掛けた。
■“沖縄流”だからここまで成長した
「消費者のニーズを今までの流れの中で考えるのではなくて、こういうものを欲しているのではないかと、探ってみるようになった。そして、判断のスピードが大きく変わった。半分ぐらいいけると思ったらすぐにやる。走りながら考えるようになったのは、アメリカを経験してからです」
特に、多様な人種、多様な考え方のスタッフらとの関わりは、その後の仕事に対する向き合い方を一新させた。
「言いたいことを言い合う、それでいて実績に応じたフェアな給与交渉をする」。フラットなコミュニケーションをベースにビジネスを動かしていく醍醐味を味わったという。
「ディスカッションの進め方、物事の判断基準、責任の負い方などアメリカの人たちの考え方が自分のスタイルに合っていて、まったくストレスを感じなかった。これは自分の性格が半分、残り半分は沖縄的なスタイルでやっているからだと気づいた。非常に考え方が柔軟になって、自己認識がアップデートされた」
さらに、「糸数という沖縄の名字にピンときた現地のウチナーンチュ(沖縄系移民やその子孫)が、しょっちゅう僕を訪ねてきた。どこに行っても沖縄人がたくましく生きていることに励まされた」と話す。帰国後、沖縄ファミマに戻った糸数さんは社員に繰り返しこう言い聞かせた。
「自信をつけろ、グローバルスタンダードは沖縄なんだ」(後編へつづく)

----------

糸数 剛一(いとかず・ごういち)

沖縄ファミリーマート代表取締役社長

1959年沖縄県生まれ。1985年早稲田大学政治経済学部卒業後、同年沖縄銀行入行。1988年沖縄ファミリーマート入社。取締役営業部長、常務、専務を経て、2007年ファミリーマートに出向し、米ファミリーマート社長兼CEO。2010年沖縄ファミリーマート社長。2013年リウボウホールディングス社長。2016年会長就任。

----------
----------

座安 あきの(ざやす・あきの)

Polestar Communications取締役社長

1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。

----------

(沖縄ファミリーマート代表取締役社長 糸数 剛一、Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
編集部おすすめ