太平洋戦争末期、アメリカ軍は降伏を呼びかけるビラや新聞をB-29戦闘機から日本国内に大量にばら撒いた。それらの一部はハワイで捕虜として収監されていた日本人によって編集されていた。
日本人捕虜収容所長だったオーテス・ケーリさんの『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の観た日本軍と敗戦日本』(角川新書)より一部を紹介する――。
■戦線の兵士に戦局を知らせる「新聞」を作る捕虜たち
そのころ、主に戦線の日本将兵に戦局と世界情勢を知らすために『マリヤナ時報』という4頁の新聞がハワイで作られていた。この新聞のスタッフは、長いこと日本へ行ったことのない日系市民が中心となっていたので、文章もおかしく、内容の選択にも的外れが多かったようだ。はじめ私は、この新聞記事を、印刷に回す前に、グループに見てもらい、変な日本語を直してもらっていたが、直接グループが翻訳することにした。
比島では『落下傘ニュース』という同種の新聞が比島派遣軍から発行されていた。これをグループに見せると目を瞠った。
「本物だ。内地の一流新聞に劣らない鮮やかな編集をしている。これは、新聞の紙面製作に充分経験のある者がやっているに違いない」

「いるんだねえ、フィリピンにも。――ぼくらと同じ志の捕虜が。ぼくらより、もっともっと優れた人たちが――」
『落下傘ニュース』は、グループに感動を与え、勇気づけた。ひとたびは決意したものの、自分たちだけが、突飛な考え方に落ちているんじゃないかという不安に、ときどき襲われたが、こうした同志の存在は、連中に確信を与えた。

■「天皇は残して財閥は叩く」
ニミッツ司令部の宣伝課長をしていたジョンソン大佐が、グループの話を聞きにやってきた。軍部に関しては問題のあろうはずはなかったが、天皇と財閥をどう思っているかが話の中心になった。グループの支配的な意見は、天皇は要らないものだということだった。
ただ、天皇にいま触れることは賢明な策ではない。四方八方塞いでしまうことは、ますます抗戦に駆り立てることになるから、都合のいい逃げ口として、天皇を残すのが、戦争を早く終わらす方法だと主張した。
財閥については、必ずしもグループの意見は一致していなかったが、多数の意見としては、財閥は叩くべし、であった。侵略戦争の責任からいっても、軍部と同罪だし、国民一般は、財閥攻撃を受け入れ易いという意見が多かった。
■特攻隊の無惨な死に体を震わせる米兵も
ジョンソン大佐は、当時国務次官だったグルー氏と親しく、近くワシントンへ行くということだったので、グループの意見を参考に伝えてもらうことにした。飛行機の都合で明朝ということになったので、ディーン中尉と幡さんが中心となって、徹夜で進言書を作り、翌朝30部のコピーを飛行機のジョンソン大佐に手渡した。
ドイツ降伏の報を間もなく聞いた。さしもの沖縄戦も、やがて終わりを告げた。沖縄周辺で死んだ特攻隊員に送った女学生の手紙を翻訳していたディーン中尉が、近くにいた2、3人を呼んで、
「見て下さい。
ぼくは、とても苦しくて、こんな手紙は訳せません」
と体をふるわせて言った。写真を添えた手紙には乙女の純情を一途に捧げて、愛国の熱情が綴ってあった。
「特攻隊が、実際どんな惨めな死に方をしているかぼくは知っているだけに辛い。こんなに可愛い娘さんたちが、“大空に散華”などという言葉に騙されて、間違った方向に引きずられてゆくのを見るのは堪(たま)らない」
聞いている日本の捕虜と、少しも変わらない愛情だった。こういう純真な青年が、戦時中アメリカの軍人だったことを知っている日本人は少ないだろう。
■日本のラジオ放送は常軌を逸した
戦火は、いよいよ日本の本土へ集中されていった。日本側の放送は、ますます常軌を逸してきた。飛行機の体当たりと、人間魚雷と、竹槍とで、本土決戦を呼号し続けた。太平洋の波濤(はとう)を越えて、時に高く、時に低く、雷鳴を伴いながら、入ってくる愛国行進曲を聞いていると、夜を徹して響く土人の祭りの太鼓を連想した。太鼓よりも、もっと複雑な楽器を動員して、ドンドコドンドン、ドンドコドンドンを打ち鳴らしているようだった。
これが始まると、みんなラジオ室に集まって、しーんと聞き入る。その真剣な表情を見ていると、私は心配になった。
引きずり込まれてゆくのではないかと。故国の人たちが、こんなに懸命になっているのに、事の善し悪しは別として、逆らうのは悪いという気持に襲われはしないかと。
ラジオが小さく消えてゆくと、ダイヤルにしがみついて、懸命に追うのである。そして、内地にいたころは、夕食の景気づけに鳴らせておいたであろう新内(しんない)などを、項垂(うなだ)れて聞き入っている姿を見ると、私は置き去られたような寂寥(せきりょう)を感じた。日ごろ、目の色や皮膚の色を忘れ切って話をしている連中が、にわかに、私をアメリカ人にしてしまうような気がした。
■「島じゃ、戦友が日に何十人と死んでゆく」
ラジオ室の係だった右門が、私を避けているように思われ出した。理論的な本はあまり読まず、むしろ禅のような本を好むところや、対人関係ではすべて気持から入ってゆくたちだったから気になった。食事はみんな揃って野天の食卓で食べることにしていたが、右門とほかに2、3人は、ラジオ室へ持ち込んで食べていた。そして、ほとんど表に出ず、せいぜいポーチで仔猫を愛撫している姿を見るくらいだった。
間もなく、この収容所から出たいと言ってきた。それも直接私にではなく、ディーン中尉を介してだった。彼には、ここへ移る前後の錯綜したいきさつや、グループ内の派閥的底流や、私に対する誤解など、いろいろあったに違いなかった。
しかし、私には多くを語ろうとしなかった。
『マリヤナ時報』の編集が、すっかりグループに任されるようになってから、翻訳が出来るものと、新聞の経験者とは、ほとんどそれにかかり切った。大組みや校正のため、私が幡さんや北川をジープに乗っけて街に出ないわけにゆかなかった。帰ってくると、マーシャルたちが、柵内の掃除をしていたりした。
「おれたちは掃除をしに、こんなとこへ来たのじゃない。島じゃ、戦友が日に何十人と死んでゆくじゃないか」
そういう声を聞いた。
「首をねじられるような、妙ちくりんなビラの批評ばかりだ。おれたちの言いたいことをもっと言わせてくれ」
■太った捕虜を「プーちゃん」と呼ぶ関係性
私としては、上司が許すワク内でやるよりほか仕方がなかった。財閥の批判は、当分しないというような方針も、一部に不満がられ、一体どれだけ自分たちの叫びを容(い)れてくれるのか、という反問を起こさせたようだった。
ハカセをあれだけ厳密に追及しながら、彼と同工の性格者が、芳しくない分派行動をちらつかせた。悄気(しょげ)返って、宿舎に塞ぎこんでいる私を、ディーンがニコニコ顔でやってきては「君のやってる仕事は羨ましい。君でなきゃ出来ない仕事だ」と、言葉少なに励ました。
私はまた、ディーンの頭脳と、その人柄とがなければ、絶対に、こんな大それた仕事に乗り出しはしなかった。もう一人、それは幡さんだった。
「ケーリさん、あんたは」
そこで一度切るのが彼の癖だった。
「何を言おうとしたんだっけ、おれは」
そう言いながら、人形のように、がくんがくんと左右前後に首を曲げて、ニコニコすることがあった。私は釣り込まれて、
「どうしたい、プーちゃん」
と、いつの間にかヘラヘラ笑いながら、肥っているから“プーちゃん”ともいった彼の肩をどやすようなことになった。いつも考えていて、何もかも見抜いている男だった。完全に私の兄貴だった。
■ポツダム宣言の内容は徹夜で編集された
和平の胎動が、連関なしに浮かび出ることもあったが、その都度、軍歌に吹き消されていった。そして、ポツダム宣言の日が来た。私はジープを飛ばして、全文を収容所に持ち帰り、みんなを集めて内容を話した。みんなの顔に喜色が溢れた。
「立派なものだ。
思ったより進歩的なものだ。もっと陰惨なものを予想していた」
それが大体一致した感想だった。
「もう、戦争に行かなくてもいいんだ。素晴らしいじゃないか。体が軽々とするね」
喜んでみたものの、日本の戦争指導者が、これを承知するとは思えなかった。国民一般が、このポツダム宣言の全文を知れば、和平への気運が国内で高まるに違いない。指導者は、宣言をすっかりそのままは国民に見せないかもしれない。立派な日本語にして、空撒こうということになった。
「こういう爆弾のお手伝いなら大賛成だ」
翻訳係が訳したものを、ディーンを中心に、みんなが頭を集めて、意味の正確さと、訳文の自然さをギリギリに検討し、徹夜で磨きをかけた。当時B-29で、日本に撒かれた“ポツダム宣言”は、途中で要らぬ手を入れられはしたが、その元は、こうして生まれたものだった。
■原爆投下に気を落とす米兵を日本人捕虜が慰めた
われわれの喜びは、間もなく鈴木〔貫太郎〕首相の黙殺放送で吹き飛ばされた。空(から)元気だ、そういう感じも受けたが、その“悪魔の声”が招いたかのように、原子爆弾が広島を襲った。
そのニュースは、まるで目も眩む閃光を見るようだった。その破壊力の大きさが、容易には実感としてつかめず、ただ大変なことになったという恐怖だった。グループに与えた衝撃は深刻だった。一人が泣きじゃくりながら部屋から屋外に飛び出していった。鉄柵につかまって、泣き続けた。ウオッチェ〔マーシャル諸島〕から来た男だった。仲間の一人が寄っていって労ろうとした。
「あんまりじゃないか。いくらなんでも、こんなむごたらしい武器を使わなくても……」

「戦争だよ。これが戦争なんだ。むごたらしいことは、銃剣だって、原子爆弾だって、本質では同じだ」

「平然とあんたは言うが、おれは堪らない。こんな武器を同胞に向ける国とは、ぼくは協力出来ない」

「そりゃ矛盾している。B-29の爆弾なら協力すると言うんかね」
だが、原爆から受けたショックは、そうした理屈では、すぐさま癒えるものではなかった。“ウオッチェ”だってそのくらいの論理は弁(わきま)えて、ここへ来ていたのだった。
ディーンは頭をかかえたまま、タイプライターの陰に顔を埋めてしまった。日本の捕虜たちが、遠くからじっとその姿を見ていた。「いいんですよ、ディーンさん」。日本の捕虜たちはそう言って、このアメリカの将校を慰めたい気持だったろう。
ディーンも、彼らの気持はよく分かっていたに決まっている。しかし、ウオッチェと同じように堪らなかったのだ。この日の、この情景は、今も目に残っている。人間の最も厳粛な一つの場面だった。世界のすべての人が、この人たちのようになれたらと思う。
■終戦に日本の若者たちは立ちつくした
その翌日、宗教団体から出された原爆使用反対の声明が、新聞に載った。「日本では見られないことだ。戦争の真っ最中にも、こういうことが言えるんだね。アメリカは羨ましい」
幡さんがしきりと感心した。そして『マリヤナ時報』に、さっそくその記事を組み込んだ。その新聞が、日本の上空にまでゆかないうちに、終戦のサイレンを聞いた。
ゆかりの真珠湾軍港に投錨(とうびょう)している夥(おびただ)しい艦船が、一斉にサイレンの唸りを上げた。高く、高く。そして長く、――いつまでも、いつまでも。
時を同じくして、霰(あられ)のように凄まじい花火が、あちらからもこちらからも、競って飛び出し、真珠湾を花火の簾(すだれ)で覆ってしまった。硝煙に燻んだ巨艦が、その光を受けて、青く赤く照らし出されていた。
日本の若者たちは、庭に立ちつくして、目の前に繰り広げられている勝利の祭典を呆然と眺めていた。啜り泣きが聞こえる。両の拳を固めて、椰子の幹を打っている者がある。うれしくなってピストルを撃ちあげた番兵と握手している者がある。すごすごと寝室に入っていったかと思うと、どさっとベッドに体を放り投げた者もいた。電灯を消したままの寝室には、さっきからベッドに横になって、眼だけ、かっと天井を見つめていた者もいた。
■せいせいした者、がっくりきた者
「あああ、終わったよ」
大きな声を張りあげて寝室へ入ってきたのは“落下傘部隊”だった。その声が寝室に鳴り響いたが誰も声を出さなかった。
「せいせいした」
ベッドに横倒しになると、一つ大きく息を吐いて、また独り言を言った。
「そうかねえ、あんたは」
暗がりから応えたのはブラックだった。
「ぼくは、がっくりした。まるで裏切られた気持だ。東條〔英機〕にしたって、あれだけ国民を殺してきたからには、何か信念をもってやっていたに違いない。それが、どうしてこんなにスパッとやめられるんだろう。やめたこと自体は結構だ。しかし、何がなんだか分からない、ぼくにはわけが分からない」
庭の方でピストルの音が続けざまに2、3発鳴った。
「奴らうれしいだろうなあ」
そう思うと、北川の脳裡(のうり)には、内地の焼けただれた風景が浮かんできた。冷たいボロ服の痩せた中年の日本人の顔が浮かんできた。
「なんだ、この、戦争の終わりざまは」
椰子の幹にかじりついたまま、地団太を踏んだ。日本の上層部は、チャンピオンの軍部が抜けただけで、そっくりそのままの姿で握手している。あれをこそこわさなければならなかったのに。何かの取引のように終わってしまった。じゃ、もっと戦争が続いた方がいいのか、といえば、決してそうじゃなかった。わけもなく、はぐらかされた口惜しさだった。
■捕虜にとってはまだ戦争は終わっていない
ラジオ室でレコードが鳴り出した。ジャズ。気持の置き場のない若い連中が集まっていた。図書室でたった一人、書き物をしているのがいた。“ドク”だった。こんなときでも“耳の聴音機能”に夢中になれる男だった。
私はみんなに食堂へ集まってもらった。何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。
私はうれしい。ともあれうれしい。だが、彼らはこれからだ。戦争が終われば、この収容所は当然閉鎖になる。陸軍の収容所へ移されれば、私ともお別れだし、物の分からない、分かっていても卑劣な連中の中へ放り出される。それから、どのくらい経って日本へ帰れるだろう。帰った日本で、捕虜の彼らは、まずどんな顔で迎えられるだろう。家は焼かれている。
職場はおろか、戸籍もない。国として秩序のある社会があるだろうか。彼らにはまだ戦争が終わっていないのだ。この先、何年弾丸の音がしない戦争と取っ組まねばならないのだろう。
日本の占領軍要員に私が引っ張られることは当然予想された。毀すからには建てなくてはならない――私の参戦理由からすれば、是が非でも、自ら進んで行くべきだった。しかし一途にその気になれなかったのは、グループの今後が心配だったからだ。
私が日本へ行ってしまえば、彼らは、数千の捕虜が番号で扱われている収容所へ放りこまれる。私が同志にまで漕ぎつけた彼らが、そこでどんなふうに扱われるかを思うと、索漠(さいばく)たるものがあった。また、軍律が闊歩する同僚捕虜に取り巻かれて、どんな迫害に遭うかと思うと、勇躍(ゆうやく)日本へ向かう気になれなかった。

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オーテス・ケーリ
同志社大学名誉教授

1921年小樽生まれ。同志社大学・アーモスト大学名誉教授。14歳で進学のためアメリカに帰国し、42年、アメリカ海軍日本語学校に入学。真珠湾の陸海軍情報局に情報将校として配属され、戦場に赴いたのち、ハワイの日本人捕虜収容所長に就任する。アーモスト大学卒業後の47年、アーモスト大学から同志社大学に派遣される。51年イェール大学大学院で修士号取得。79年まで同志社アーモスト館の館長、92年までアーモスト大学代表を務めたほか、国際文化会館理事としても日本の国際化に貢献した。87年に勲三等瑞宝章を受章、89年に京都市文化功労者として表彰された。著書に『ジープ奥の細道』(法政大学出版局)、『日本との対話 私の比較文化論』(講談社)など。2006年逝去。

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(同志社大学名誉教授 オーテス・ケーリ)
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