■やなせたかし最大のヒット曲、誕生秘話
のぶ「嵩さん、見て。ほら、血が流れゆう」
嵩「……手のひらを、すかしてみれば……真っ赤に流れる、僕の血潮……」
朝ドラ「あんぱん」(NHK)は、第20週「見上げてごらん夜の星を」から舞台を芸能界に移している。やなせたかしをモデルとする嵩(北村匠海)が作曲家のいせたくや(大森元貴)と知り合い、その紹介で六原永輔(藤堂日向)の制作するミュージカルの美術を担当することに。いせたくやのモデルは、昭和のヒットメーカー・いずみたく。六原永輔のモデルは作詞家・放送作家の永六輔だ。
いせ役で、「ミセス」の略称で知られるMrs. GREEN APPLEの大森元貴が本格的な演技をさらりと披露し、話題になっている。J-POPアーティストの中でも突出した歌唱力を持つ“歌うま”な彼だけあり、劇中ミュージカルのタイトルでもある「見上げてごらん夜の星を」をアカペラで歌い上げたシーンは、いせは音楽監督で舞台役者ではないので設定上は無理がありつつも、さすがというべきところだった。
実際にも1960年ごろ、やなせたかしといずみたくは出会っている。「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術をやなせが手がけたのも、史実どおりだ。やなせは、いずみを「たくちゃん」と呼び、いずみが1992年に死去するまで長く付き合い、信頼関係を築いた。やなせにとっては、親友と呼ぶべき存在だったようだ。
そして、冒頭のシーンのように、やなせが明かりに自分の手をかざしてみたことから、「手のひらを太陽に」の歌詞が生まれたことも事実である。
■やなせの妻が「手のひら」を発見したわけではない
『日本童謡事典』(上笙一郎編、東京堂出版)は、「手のひらを太陽に」と同題のやなせの随筆からとして、こう引用している。
厭世的な気分に追い込まれた時のことです。暗いところで懐中電灯で冷たい手を暖めながら仕事をしていました。ふと電球を手のひらにあててすかして見ると、真っ赤な血が見える! 自分は生きているんだという再発見と、その喜びを謳歌してがんばらなくちゃ! と自らを励ますためにこの詞を作りました。
ドラマと違うのは、のぶ(今田美桜)のモデルである妻・暢(のぶ)さんが最初に懐中電灯に手をかざし血管が透けると発見したわけではなかったこと。また、やなせは『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)には、こう書いている。
一九六二年、ぼくは佐野さんに頼まれてニュースショーの構成をしました。司会に宮城まり子。そしてぼくが作詞し、作曲をいずみたくに依頼したのが「手のひらを太陽に」です。
■テレビ番組の「今月の歌」という企画だった
佐野さんというのは、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の佐野和彦プロデューサー。のちに「徹子の部屋」のチーフプロデューサーになる人物だ。
つまり歌手・女優の宮城まり子が司会する朝の番組で「今月の歌」という企画があり、その企画ありきで「手のひらを太陽に」が誕生したということだ。ドラマのように、自然発生的に歌がクリエイトされたわけではない。やなせは「現在、ぼくが作詞した歌の中で一番多く歌われているのは『手のひらを太陽に』だが、作曲はいずみ・たくで、最初に歌ったのは宮城まり子である。今ではこのことは意外に知られていない」(『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)とも書いている。
宮城まり子は当時35歳。社会福祉家の先駆けであり、ねむの木学園を創設した人物として有名だが、もともとは一世を風靡した芸能人。22歳の時「なやましブギ」で歌手デビューして以来、コケティッシュな魅力で男性からの人気があった。
■宮城まり子をプロデュースする立場になった
『アンパンマンの遺書』によれば、雑誌『漫画読売』の仕事で、やなせが宮城にインタビューをしたことがあり、その後、宮城から直接電話がかかってきたのだという。
「やなせさん、お願いしたいことがあるんや。きてくれへんか。クルマをまわすからうちへきてほしいんや」
まり子さんは独得の甘えるような声で言ったので、ぼくはたちまちフラッとしてしまった。
宮城の自宅に招かれたやなせは、宮城の最初のリサイタルの構成を頼まれた。やなせは困ったものの「メロメロ状態のぼくは、構成というのはなんだか解らないままひきうけてしまった」。
結果的にそのコンサートは成功し、宮城のファンである作家の高見順らも感動して拍手を贈り、「ぼくはそれからも彼女のステージの構成をしたり、ホンを書いたり、たまには巡業にくっついて行ったりと、すっかりまり子オタクみたいなことをやっていた」という(『アンパンマンの遺書』)。
宮城といずみたくを引き合わせたのも、やなせであり、そうして「手のひらを太陽に」はテレビで宮城が歌うことになった。「あんぱん」では宮城に該当する白鳥玉恵役をアイドルグループ・乃木坂46の“歌うま”メンバー、久保史緒里が演じ、歌唱を披露する。
■「手のひらを太陽に」は戦後にできた唱歌の傑作
宮城は「手のひらを太陽に」を初めて歌ったとき、「ぼくらはみんな生きている」という歌詞に合わせて、帽子にズボン姿だった。曲の持つ普遍性を感じ「これは(中略)私一人だけの歌とは違う。みんなが歌うようになるよ、と思った」という。
その言葉どおり、発表と同じ1962年、NHKの番組「みんなのうた」でも宮城が少年コーラスと共に歌い、65年、男性コーラスグループのボニージャックスが歌ってレコードを発売。年末の「NHK紅白歌合戦」でも彼らが歌うとそこで初めて大きく話題になった。ボニージャックスのリーダー、玉田元康は歌の魅力をこう分析している。
「地球の仲間と友達だ、的な歌はよくあるが、頭で書いている感じだと好きになれない。
『日本童謡事典』も「〈生きていること〉の喜びを真直(まっすぐ)にうたい上げた詩で、陰翳(いんえい)ある表現によらず、幼児にもわかる日常の言葉で技巧を用いず書かれており、理解しやすい」と高く評価している。
■「最初はアメンボではなくナメクジだった」
こうして「手のひらを太陽に」で、やなせたかしの詩人としての力が広く認められたわけだが、あまり知られていないエピソードもある。
一番の歌詞は、小さな動物たちも人間と同じように生きていると歌い、「みみず」「おけら」「あめんぼ」を挙げているが、最初は「あめんぼ」ではなかったという話だ。保育士の業界雑誌『ちいさいなかま』2010年8月号、埼玉大学教育学部・岩川直樹教授の寄稿にこうある。
やなせたかしさんの「手のひらを太陽に」といううたの「ミミズだって、オケラだって」の後に続くのは、もとは「アメンボ」ではなく「ナメクジ」だったそうだ。それが誰かの意向で変えられたことを、からだとことばの探求者である竹内敏晴さんのレッスンのなかで、初めて聞いた。
竹内は演出家であり、やなせと同時代に活動していたので、2人の間には接点があり、竹内はやなせからこの逸話を聞いたのかもしれない。伝聞でしかないが、曲の誕生にテレビ番組が絡んでいたこともあり、いかにもありえそうな話だ。岩川教授はこうも書く。
「やなせさんの、そして竹内さんの、きれいごとではない生の肯定力のようなものを感じた。アメンボにしたからこそ広く歌われたのだろうが、ナメクジのままのほうが深さを保てただろう」
■なぜ「ナメクジ」をチョイスしたのか?
やなせがこの歌詞を書いたのは、勤めていた三越宣伝部を辞め、漫画家に専念しようと思ったが、40代になってもこれといったヒット作を出せず、前出のように「厭世的な気分に追い込まれた」時だった。
「(生きているから うれしいんだ)が二番で、(かなしい)のが一番。普通に作れば逆でしょう。当時の僕の心境を反映しているのです」
(読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』岩波現代文庫)
■成功体験が「アンパンマン」につながったのではないか
本業の漫画ではなかったが、「手のひらを太陽に」で大ヒットを飛ばした。盟友のいずみたくとは、その後もコンビを組み、「アンパンマン」のミュージカルも含め作詞作曲で約300もの曲を世に出したが、最初に組んだ「手のひらを太陽に」ほど、知られている歌はない。
いずみは「やなせさんの歌で印税を一番かせいだのがこれ(「手のひらを太陽に」)ですよ」と語ったという(『唱歌・童謡ものがたり』)。それもナメクジ→アメンボの変更を不本意だったかもしれないが、承諾した効果だろうか。
国民的大ヒットと呼ばれるコンテンツの裏には、やなせのような暗い情念や葛藤を抱えたクリエイターの創作を、大衆が共感できるようにマイルドにする仕掛け人がいるものだ。そんな「手のひらを太陽に」の成功体験が、後に「アンパンマン」でやなせをブレイクさせたのではないだろうか。
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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。
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(ライター 村瀬 まりも)