80年前の8月15日、昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言の受諾と終戦が国民に伝えられた。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「当時、戦争終結を意味する『ポツダム宣言』の受諾を決定するために、天皇ご自身の決断(いわゆる『聖断』)が必要だったという事実、そして『終戦の詔書』を昭和天皇ご自身が読み上げ、それを録音したお声がラジオで放送されたという事実は、あの終戦がいかに“異常”だったかを物語っている」という――。

■終戦記念日、正午に黙禱
8月15日は「終戦記念日」。天皇皇后両陛下には、東京・千代田区の日本武道館で開催された全国戦没者追悼式にお出ましになり、壇上中央に設けられた「全国戦没者之霊」の標柱の前で、正午に黙禱をお捧げになった。同時刻に、皇居・御所では敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下も黙禱されていた。
天皇陛下のおことばには、「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」とあった。
昭和20年(1945年)のこの日、「大東亜戦争」の終結を決定づけた昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送が、正午から行われた。黙禱はその時間に合わせている。「玉音」とは天皇ご自身のお声のことだ。
大東亜戦争というのは昭和16年(1941年)12月12日の閣議決定による呼称。だが敗戦後、被占領下にあった昭和20年(1945年)12月15日に占領当局(GHQ)から出された指令=いわゆる「神道指令」によって、しばらく公文書での使用が禁止されていた。近年では「アジア・太平洋戦争」などと呼ばれる。
■「80年」という歳月の長さ
その終戦からすでに80年もの歳月が流れた。この歳月の長さは、終戦の年から時間を同じ80年分だけ昔にさかのぼらせると、ある程度は実感できるかもしれない。

昭和20年(1945年)から80年さかのぼると、いつか。慶応元年(1865年)になる。幕末激動の時代にあたる。
当時の天皇は、明治天皇の父宮にあたる孝明天皇で、江戸幕府の将軍は徳川家茂(いえもち)だった。“不平等条約”とされる欧米各国との修好通商条約の勅許(天皇の許可)が、ようやく得られたのがこの年だった。
それから大政奉還・王政復古、廃藩置県、明治憲法の制定、日清・日露戦争、第1次世界大戦への参戦、関東大震災……と、昭和20年(1945年)までに数多くの出来事があった。それに匹敵する月日が終戦以来、流れたことになる。
■「聖断」と「玉音放送」の異例さ
これだけ長い歳月を隔てると、あの時の「終戦」が当たり前の出来事だったかのように見えるかもしれない。朽ち果てた大木が自然に倒れるように、わが国は終戦を迎えた、と。
だが当時の実情は、決してそのような生やさしいものではなかった。あの時点で、首尾よく戦争を終わらせることができるか、どうか。まったく予断を許さない険しい場面だった。

そのことのハッキリした証拠は、戦争終結を意味する「ポツダム宣言」の受諾を決定するために、明治憲法が予想していなかった天皇ご自身の決断(いわゆる「聖断」)が必要だった事実だ。
それに加えて、「終戦の詔書」を昭和天皇ご自身が読み上げ、それを録音したお声がラジオで放送された事実自体が、あの終戦の“異常さ”を何よりも雄弁に物語っている。
■憲法に制約される天皇
しばしば誤解されがちだが、明治憲法のもとでも、天皇が独断で恣意的な専制政治を行うことは、困難な体制が築かれていた(鳥海靖氏『日本近代史講義』、鈴木正幸氏『国民国家と天皇制』など)。
行政権については、国務大臣(内閣)の「輔弼(ほひつ)」という名の同意を必要とし(第55条)、立法権についても、帝国議会の「協賛」という名の同意が欠かせなかった(第5条)。司法権にいたっては、「天皇の名」において裁判所が独自に行使した(第57条)。
具体的には、たとえば先の大戦の開戦にあたっても、当時の東條英機内閣の閣僚が全員一致して開戦の方針を固めたので、昭和天皇はそれを追認したという順序だった。
明治憲法には、戦争の開始および終結を天皇の権限と規定している(第13条)。しかし、それも国務事項として内閣の「輔弼」が必要だった。そのことは、“宣戦”や“講和”の詔書にはどれも、内閣総理大臣や閣僚の副署がある事実からも明らかだ。
ところが80年前の終戦に際しては、連合国が日本に降伏を呼びかけたポツダム宣言の受諾をめぐって、たやすく関係者の意見の一致を見ることができなかった。とくに、それを受諾してもこれまでの皇室による立憲君主制(当時の用語では「国体」)を維持できるかどうかの見通しについて、深刻な意見の対立があった。
「国体」を確実に守れるのでなければ、ポツダム宣言を受諾すべきではない、つまり戦争継続という声も強かった。

■天皇ご自身による聖断は“禁じ手”
すでに多くの犠牲者を出した戦争なので、対処の仕方を誤ると、不満を抱く軍人によるクーデターすら起こりかねない。危うい局面だった。
広島・長崎への原爆投下や、ソ連がいまだ有効だった中立条約を一方的に破って参戦しても、陸軍内部の抗戦への意志はなお根強い。単純多数決などでは決められない状況だった。
そこでやむなく浮かび上がったのが、“禁じ手”とも言うべき、昭和天皇ご自身の「聖断」によって合意を図る、というやり方だ。これは本来、法的・政治的な責任の圏外にあるべき天皇(憲法第3条)に、政治上の責任を負わせかねない危険をはらむ。だから、本来ならこのようなやり方はできるだけ避けなければならない。
しかしこの場面では、それ以外に意見の一致を確保する方法がほかになかった。
このやり方ですら、8月10日と14日の2度にわたる御前会議で、昭和天皇に2度の聖断をお願いするという、慎重な手続きを踏まなければならなかった。
しかし、さすがに聖断の偉力は大きかった。御前会議で最後まで反対の姿勢を見せていた阿南惟幾(あなみこれちか)・陸軍大臣は、陸軍省にもどって聖断を伝え「不満に思う者はまずこの阿南を斬れ」と言って、部下たちの反発をおさえた(秦郁彦氏『昭和史の謎を追う(下)』など)。
■敗戦は君主制を滅ぼす
当時、総力戦の敗北が君主制の滅亡に直結することは、昭和天皇も十分にご存じだったはずだ。
第1次世界大戦の敗戦国だったドイツ、オーストリア、トルコ(オスマン帝国)の君主制は滅びた。戦争処理を誤ったロシアも同様だ。
第2次世界大戦でも敗れた枢軸国側、あるいは枢軸国の制圧下にあった国々は、イタリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの君主制が消滅している。
その上、連合国側のアメリカをはじめソ連、オーストラリア、ニュージーランド、中華民国では、おそらく昭和天皇を好戦的な独裁者とでも見ていたのだろう、その処刑を求める声が高まっていた。
このような状況の中で、昭和天皇が「敗戦」の決断を下すことは、皇室の存亡やご自身の安否に直接かかわるので、“ためらい”があっても不思議ではない。しかし、昭和天皇は迷うことなくポツダム宣言の受諾を決断され、ご態度にいささかの揺らぎもなかった。
これは後世から見ると、極めて妥当な唯一の正解ということになる。しかし実際に歴史の分岐点に立って、誤りなくそのような選択ができるためには、自分に降りかかるあらゆる危難を引き受ける勇気と覚悟がなければ、不可能だったはずだ。
■本当の「聖断の動機」
昭和天皇の聖断の動機について、こんな見方がある。
「天皇がこだわった『国体』の護持というのは、『万世一系』の皇室を自分の代で終わりにしてはならないということであり、国民の生命を救うのは二の次であった」(原武史氏『昭和天皇』)
しかし上記の状況を客観的に見ると、首をかしげる。
現に、昭和天皇ご自身が次のように述べておられた。
「当時の私(昭和天皇)の決心は第一に、このままでは日本民族が滅びて終(しま)う、私は赤子(せきし)(国民)を保護することが出来ない。


第二には国体護持の事で……故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬと思った」(『昭和天皇独白録』)

と。
ご自分の「一身は犠牲にしても」国民を救うことこそが「第一」の動機にほかならなかった。
このお気持ちは、8月14日に2度目の聖断を下された時のおことばに、よく示されていた。この時の昭和天皇のご発言について最も詳しい内容を伝えているのは、当時の国務大臣兼情報局総裁だった下村宏(海南)の『終戦記』『終戦秘史』に収められた記録だ。
■「自分はいかになろうとも」
下村の記録は、8月14日の御前会議が終わってからあまり時間を空けないで、自身のメモをもとに、同席した左近司政三(さこんじせいぞう)・国務大臣や太田耕造・文部大臣、米内光政(よないみつまさ)・海軍大臣らの手記とも照らし合わせ、さらに鈴木貫太郎首相の校閲も経たという。よって信頼性は高く、「最も真に近い」と評価されてきた(升味準之輔氏『昭和天皇とその時代』)。
その一部を引用する。
「国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが……要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れ(ポツダム宣言)を受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪(た)え難いことで、その心持(こころもち)は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民(ばんみん)(全国民)の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。
祖宗(そそう)(祖先)の霊にお応えできない。……先方(連合国)の遣(や)り方に全幅の信頼を措(お)き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」
これによって、昭和天皇の最優先の動機が「国体問題」よりも、「万民=国民の生命を助けたい」という一点にあったことは、確かだ。
■「終戦の詔書」に書いてはいけない言葉
興味深いのは、「終戦の詔書」の起案にあたり、昭和天皇のご発言のうち「自分はいかになろうとも」という部分は、決して盛り込んではならない、とされていたことだ。これは実際に起案にあたった迫水久常(さこみずひさつね)・内閣書記官長(内閣官房長官の前身)本人の証言による(半藤一利編『日本のいちばん長い夏』)。
だが、それは何故か。
もしそのような内容が詔書に含まれていれば、「国体護持」を“最後の一線”として抗戦を唱えていた陸軍が、憤激するに決まっているからだ。国体の護持どころか昭和天皇ご本人のお身柄さえ危ないポツダム宣言の受諾であれば拒絶せよ、と態度を硬化させることは明らかだ。
だから、聖断をめぐる陸軍内部向けの陸軍大臣や参謀総長の訓示などでも、刺激を避けてこのご発言はあえて伏せられていた。
■秩序ある「終戦」のために
戦後の「復興という光明」を見すえると、前提として欠かせないのは整然と秩序ある終戦だった。しかし陸軍内になお戦争継続を望む声が残る中で、それを実現するのは至難だった。
その困難を突き破るには、「戦争終結」がまぎれもなく昭和天皇ご自身のご意思であることを、すべての国民に一点の疑いの余地もなく、瞬時に納得させる必要があった。そこで採用された異例の手段が、天皇ご自身のお声(玉音)によるラジオ放送だった。
この奇策は内大臣だった木戸幸一らの発案によるが、昭和天皇はただちにそれをお許しになった。
陸軍の一部が抗戦を求めて皇居の占拠を企てた「宮城(きゅうじょう)事件」のような動きを挫折させるために、この放送が決定的に重要な意味を持った。
この間の事情を、外務省編纂の『終戦史録』は次のように述べている。
「超非常事態に直面した軍および国民の複雑微妙な興奮的心理を……統一するがためには、最早、直接天皇の御声による他なかった。政府や軍首脳部の権威は、天皇の御意思の自らの御発表を仰ぐ以外、この超非常時を乗り越える力を持たなかった」
あの終戦は、薄氷を踏むようにしてギリギリ実現したものであり、昭和天皇のわが身をかえりみない無私の精神と、高い権威による、ほとんど奇跡のような終戦だった。
終戦時の昭和天皇の和歌から一首を掲げる。
身はいかに なるともいくさ とどめけり

ただたふれゆく 民をおもひて

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高森 明勅(たかもり・あきのり)

神道学者、皇室研究者

1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録

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(神道学者、皇室研究者 高森 明勅)
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