※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■なぜ故郷を飛び出したのか
「修さんは下呂出身である自分のアイデンティティーを、最後まで貫いた」と、秋田スズキ会長の石黒寿佐夫は指摘した。
やはり、下呂には向かわなければならない。鈴木修のアイデンティティーの原点を探るためにだ。
さらに、アイデンティティーとも関連するのだろうが、筆者には素朴な疑問が一つあった。師範学校で正規の教員免許を取得した後、鈴木修はなぜ故郷の下呂を飛び出して東京に出たのか。
空襲で焼き尽くされた東京はまだ、混乱と混沌の中にあったのに。
地元で教師になるという、どちらかといえば安全で地元のためになる選択を、どうしてしなかったのだろう。
2025年3月下旬の木曜日、筆者は編集者とともに下呂を訪れた。岐阜市でレンタカー(ワゴンタイプの軽自動車)を手配し、山道をひたすら走らせて辿り着く。初夏のような暑い日だったせいなのか、あるいは大学が春休みのせいなのか、深い山に抱かれた温泉の街には、多くの若者が闊歩していた。若いカップルも目立つ。
ガソリンスタンドにいた50代に見える地元の方に話を聞くと、「どうやらSNSにより若者が来るようになったようだ」。「ただし、下呂のホテルや旅館の宿泊費は高く、“特急ひだ”を利用して日帰りで帰る若者たちがほとんど。外国人旅行者は、泊まってくれる」とのことだった。
■小学校でも知られた俊英
人伝てにアポイントを取っていた、野中一則・野中グループ会長に会う。野中は下呂市の名士であり、野中グループはタクシーや自動車販売、保険、ガソリンスタンドなどの事業を展開する。鈴木修とは何度もゴルフを楽しむ関係だった、という。スズキは副代理店大会を下呂温泉のホテルで頻繁に行ったが、そのときには野中は鈴木修と杯を交わし一緒に温泉に入り、地元からスズキに入社を希望する若者を鈴木修に紹介することもあったそうだ。
野中は、1934年10月18日生まれ。鈴木修よりも学年で5年下。このとき、御年90歳。父親から譲り受けた運送事業を発展させてきたという自負を持ち、下呂を心から愛している。矍鑠(かくしゃく)いう言葉の似合う老人だ。
「私が通った小学校には、5つ上の学年に三人の俊英がいました。その一人が修さんだった。母親から、『しっかり勉強すれば、松田修さんのようになれる』と言われたのを覚えています。80年以上も前ですから、修さんと直接やり取りした記憶は、もうありません。ただし、修さんは勉強だけのガリ勉ではなく、運動もできた先輩、という印象は残っている」「松田家には、兄弟が四人いて修さんは四番目。5学年下の私と同じ学年に妹さんがいて、地元の下呂に嫁いでます」「家は普通の農家。豪農ではない。山間の田畑で米や野菜を作っていました」
■温泉街に現れた生家跡
野中に軽自動車の助手席に乗車してもらい、鈴木修の生家跡に案内してもらう。町内の狭い道を低速で登っていくと、数分で着いた。やや急峻な丘陵地を登り切った平地にあり、現在は更地になっている。家屋はもうない。立ち入り禁止を示す黄色と黒のバーが、両端に設えた二つの赤いコーンで支えられていた。
生家跡から十数メートルほど、細い坂道を徒歩で下った右側に、松田家の墓所がある。広さは150平米ほどだろうか。中央には、まだ新しい墓石の「松田家代々の墓」が建てられ、美しい花がこの日も左右に手向けられていた。関係者によって手厚く管理されていることを、連想させる。
なお、墓石は巨大なものではなく、ごく一般的な慎ましい佇まいである。
「これを読んでみてください」。杖をついた野中が、指を指す。墓所の入り口に「記念碑」と刻まれた墓碑(石盤)がある。約1500文字からなり、最後に《二〇二〇年一月三〇日 卒寿を記念して 松田栄八 きわ 四男 鈴木(松田)修》と記されている。
内容は次の通りである。
■都会へ出ろと薦めた父
《松田家はこの地、岐阜県益田郡下呂町森一三〇三番地に屋号阿多野と称して、享保年間より代々住んでおりました(中略)。私の父栄八は明治三〇年に生まれ、平成三年に九十三歳で亡くなりました。
栄八は松田家の次男として生まれたこともあり、家業の農業を嫌って家を飛び出し、大正初めに岐阜市に出て警察官となりました。(当時岐阜市に出たことは勇気ある行動でありました。)
明治三七年から三八年に起こった日露戦争で、松田家長男の平太郎が二十四歳で戦病死したことにより、栄八は下呂に呼び戻され、松田家並びに農業を継ぐことになりました。
松田家を継いだ栄八は、野村きわと結婚し四男三女をもうけました。栄八は農業を好まなかったため、下呂役場に勤める、いわば兼業農家でありました。母きわは農業に励み、その傍ら苦労しながらも四男一女を育てました。》
この後、重要な一文が行替えされて刻まれている。
《栄八は子供には下呂を出て大きな都会で働くことを勧めました。》
教員免許を取得した鈴木修が、下呂を離れて戦後の混乱と混沌とが色濃く残っていた東京に、敢えて旅立っていった理由は、どうやら父・栄八の勧めにあった。高い山に囲まれて空の広さが限定されていた故郷を出て、「大きな都会」である東京に出て行き、やがては世界に出ていくことになる。
■「下呂の皆様に幸あれ」
記念碑のこの後を要約すると、
栄八の長男栄進は国鉄に就職した後、出征し中国やフィリピンなどを転戦。戦後は高山本線各駅長を務めた。
次兄稔は日本発送電(中部電力)に就職。難関の電気主任技術者第二種試験に合格した後独立し、中電の下請け会社りゅうでんを興し、創業社長として同社を発展させた。
〈注:記念碑に記述はないが、りゅうでん(本社は岐阜市)は電気工事などの専門業者で、スズキとも取引をする。現社長松田英文は鈴木修の甥に当たる〉
三兄正は名古屋に出て特定郵便局で修業し、愛知県江南市で特定郵便局長として20年務めた。勲五等瑞宝章を受けた。
四男である私は鈴木自動車工業(スズキ)二代目社長の鈴木俊三、妻とし子と養子縁組をして長女祥子と結婚。1958年に同社入社。78年から42年間社長会長を歴任。社長就任時3232億円だった売上高を3兆円を超えるまでに成長させた。藍綬褒章、勲二等旭日重光章を受けたほか、インド、パキスタン、ハンガリーからも民間人最高位の勲章を受けた。
長兄栄進の長男松田一美はスズキに入社し参与となった後、関係会社社長を務めた。しかし、2012年に65歳の若さで急逝した。
《よって松田家は父栄八の望んだ通り、子供たちは勿論孫たちも含めてすべて下呂を離れて活躍しておりますので現在では家屋を取り壊して、お墓だけが残っています。
この碑を建立して松田家のいきさつを申し述べるとともに、下呂の親戚の皆様、全ての郷里の皆様に、これまで大変お世話になりましたことへの心からのお礼を申し上げます。下呂の皆様に幸あれ》
と、文章は結ばれている。
記念碑は松田家の人間についてのみ、記されている。
■石柱に刻んだ「松田」の姓
「もう一カ所、見せたいものがあります」
野中はこう言い、軽自動車は街の中心部へ下る。
「ここは昔、花街でした。遊郭があった」という通りを横目に、着いたのは出雲大社飛騨教会。
同教会は下呂温泉の発展を願って、1934年に出雲大社から分霊を受け、社殿を造営するなどして39年に設立。商売繁盛、縁結びの神様として知られている。
社殿の老朽化に伴い、新たな社殿を建設して2023年夏に完成する。
「このとき修さんに寄進をお願いしたところ、二つ返事で応じてくれて、すぐに送金してくれました」と野中。
敷地の境界には、いくつもの石柱が設えられている。石柱はまだ新しい。社殿新築に際して寄進をした人や会社の名前が、それぞれに刻まれている。野中をはじめ地元関係者に混じり、誰もが知る大物映画俳優や著名な料理人、名門料亭の関係者など、飛騨地方と縁があるのだろうか、有名人の名も散見される。
そうした中、そう数は多くない、やや大きな石柱の一つに、「鈴木修(旧姓松田)」とあった。
ここでも、「松田」としっかり刻んでいる。下呂に対して、さらに自らのルーツである松田家に対する鈴木修の愛着は、相当に深いことが窺える。
■下呂の松田修というアイデンティティー
スズキ入社以来、浜松地域に66年も暮らしたのに、遠州弁を一切使わなかった理由は、「下呂の松田修」というアイデンティティーが鈴木修に内包され続けていたからだろう。会社にも地域にも彼は染まらなかった。
冷静な視座を持つ異邦人として経営を実践し、自身が言う「たくさんの経験から生まれたカンピューター(つまりはカン)」には、「下呂の松田修」というアイデンティティーがプログラミングされていた。
ちなみに、記念碑が建立された翌年まで、鈴木修は会長を務めたので、社長会長歴は43年に及んだ。
野中は言う。
「下呂の出身者としては、ブラジルはアマゾンの地域医療に貢献した細江静男(1901~1975年)さんという有名なお医者さんがいます。野口英世さんに並ぶくらいに、世界を駆け抜けました。医学界の細江さんに対し、修さんは経済分野で成功を収めた人だと思います。やはり世界を駆け抜けた」
細江は「ブラジルのシュバイツアー」などとも呼ばれたそうだ。
講演で、鈴木修は下呂や飛騨をよく話題に取り上げていた。「正月の雑煮一つにしても、下呂と浜松ではまるで違っていまして……」などと。また、「私は養子だから」も頻繁に使うフレーズだった。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)