■9月利下げ再開がほぼ既定路線に
米国で9月の利下げ再開の可能性が高まっている。FRB(米連邦準備制度理事会)のパウエル議長は、ジャクソンホール会議における8月22日の講演で、雇用悪化リスクの高まりなどを理由に利下げを慎重に進めると述べた。
利下げ時期こそ言及しなかったが、金融市場が織り込む9月FOMCでの利下げを追認した形である。
ここ1年の米国の金融政策を振り返ると、FRBは、2024年9月に利下げを開始したが、2025年に第2次トランプ政権が発足した後は利下げを停止していた。トランプ政権による関税政策など各種政策の動向とその影響を見極めることがその理由であった。
そうした中、米国経済は、トランプ関税の影響でスタグフレーション(景気停滞とインフレの同時進行)的な様相を呈した。2025年前半の実質GDP成長率は、前期比年率で+1.1%と2024年の+2.8%から大幅に減速した。
一方、物価については、FRBがインフレ指標として重視するPCEデフレータの6月の前年比は+2.6%と、2025年1月の+2.6%から変わらず、さらに足元では加速する気配がある。トランプ関税の米国経済への波及は続き、景気減速とインフレ率の上昇が当面並走すると考えられる。
もっとも、来年の半ばにはトランプ関税分の価格転嫁が概ね終わることが見込まれる。米国経済は回復に向かい、巡航速度といえる+2%程度の成長率に向けて加速していくことが中心的な見通しとなる。
ここで最大のリスクとなるのは、早急な利下げによるインフレ再燃であると筆者は考える。その背景には、トランプ政権による利下げ圧力がある。本稿では、米国経済の現状を確認するとともに、インフレ再燃リスクについて考察したい。

■トランプ関税の不確実性は低下も、高関税は継続
米国経済には、トランプ関税が大きな影響を及ぼしている。実際、トランプ関税が発動され始めた今春には、その不確実性の高さが、消費者や企業の景況感の悪化と貿易の混乱を引き起こし、米国経済の成長率を押し下げた。
ただ、足元ではトランプ関税を巡る不確実性は低下した。トランプ関税の中でも、各国に対する「相互関税」については、中国を除く多くの国との間で関税交渉が進捗し、8月上旬には相互関税率が概ね定まった。
また、中国に対しては、少なくとも11月中旬までは相互関税の上乗せ分の発動が延期される方向となった。各国の米国に対する報復措置がほとんど実施されなかったことも、混乱の小ささにつながった。
他方で、米国にとって安全保障面で重要な品目向けの「分野別関税」に関しては、対象拡大が続いていることには注意が必要である。ただ、各国に対する減免措置が設けられるなど、比較的柔軟な対応がとられ、平均関税率が大幅に上昇する懸念は和らいでいる。
このように、トランプ関税を巡る動きは徐々に予想の範囲内に収まるようになり、不確実性が低下してきた。ただし、不確実性が低下した分、今後も現在と同程度の関税率が続くことを覚悟しておく必要がある。
現時点の米国の平均関税率は、米国の有力なシンクタンクであるエール大予算研究所の試算(8月7日時点)で18.6%と歴史的な水準となっている(図表1)。高関税は企業の利益率の低下につながり、これを緩和するために、コスト削減や価格転嫁の動きが続くこととなろう。

■経済の健全度合いを示す雇用情勢は既に悪化
米国の企業のコスト削減の動きは、早くも雇用情勢に及んでいる。直近の雇用統計をみると、米国の非農業部門の雇用者数の伸びは、5~7月平均で+3万5000人となった(図表2)。米国では毎月+15万~20万人雇用者数が増加すれば労働市場は健全とされるが、これを大きく下回る伸びである。米国企業は、トランプ関税を巡るコスト削減の必要性と先行きへの不安感から、まずは新規採用者数を減らすという形をとったとみられる。
一方で、米国における働き手の人数も伸びが鈍化している。トランプ政権の厳格な移民政策により、労働意欲が高いとされる移民流入の勢いが鈍っていることが背景である。外国人労働者は、米労働省の調査では、2024年1月から7月まででは127万人増加したが、2025年1~7月では124万人減少した。
米国では、外国人労働者が、ホテルや飲食店などのサービス業、建設業、農業などの重要な労働力となってきたが、これらの業種で人手が不足している状況が考えられる。雇用情勢が悪化する中でも、一部業種で人手不足感が残ることで、賃金上昇率が下げ渋るという「ちぐはぐ」な状態にある。
■経済の過熱感を示すインフレ率は年内再上昇へ
トランプ関税の影響は物価にも及び始めている。消費者物価指数から変動の激しい食品やエネルギーを除いた「コアインフレ率」をみると、2025年入り後は財(モノ)の価格が加速しており、サービス分野を含めた全体でも下げ渋っている(図表3)。
その背景には当然ながらトランプ関税を価格転嫁する動きがある。
価格転嫁のスピードは当初考えられていたものよりゆっくりだが、クリスマス商戦などのタイミングで価格転嫁が続くとの見方が多い。
ただ、現時点では、トランプ関税の影響を直接受けない財やサービス分野には、価格加速の動きが広がっていない。また、賃上げが加速することでインフレ率が押し上げられるリスクも顕在化していない。米国企業がトランプ関税分の価格転嫁を終えれば、高インフレは沈静化に向かうとの見方が中心となる。
この先、FRBは緩やかな利下げを進めることで、インフレ再燃リスクを注視しながら進むことになるだろう。上記のような経済状況が続けば、来年央にはトランプ関税の影響も一巡して、インフレ圧力が低下することが見込まれる。また、7月に成立した追加減税策による景気の押し上げも期待できる。米国経済は、向こう1年程度はスタグフレーション的な状況となるが、2026年後半には巡航速度とされる+2%程度まで成長率を高めることが見込まれる。
■トランプ氏が敷いたFRB議長への包囲網
こうした米国経済にとって、インフレ再燃が最大のリスクと筆者は考える。当面は企業の価格転嫁によるインフレ圧力が続くにもかかわらず、米国内で利下げを期待する向きが急速に強まっていることがその背景である。そして、利下げ圧力の源泉はトランプ大統領である。
トランプ氏は、FRBが金利を据え置くたびに利下げ圧力を繰り返してきた。
その矛先はパウエルFRB議長に向かっており、パウエル氏を「(利下げが)遅すぎる男(Mr. Too Late)」とレッテル張りをしている。さらに、FRBの建物の改修費用が膨れ上がっているとして、パウエル議長に対する訴訟も検討すると明かすなど、個人攻撃を激化させている。
また、トランプ氏は、FRBに対する影響力を強めるため、来年5月に任期を迎えるパウエル議長の後任人事に着手するなど、人事面で揺さぶりをかける。8月中旬には、次期議長候補を11人に広げたとの報道があった。
候補者の中には、現職のFRB理事や地区連銀総裁など、複数のFOMCメンバーの名前を挙げていることも巧妙である。議長に選ばれる可能性がある中では、トランプ政権に真っ向から反対する動きを取りづらくなるだろう。
■インフレ再燃リスクの背景にもトランプの影
トランプ氏の利下げ圧力が誤っているとは言い切れないが、トランプ氏が景気重視の姿勢にあることは明らかである。仮に、そうした圧力を受けて短期的な目線で利下げが進められ、過度に景気が押し上げられれば、インフレが再燃するリスクは高まる。
その結果、FRBが再び利上げに追い込まれる事態となれば、金利水準は再び見直しが迫られ、株価下落なども伴って、消費者や企業のマインドは悪化することとなる。
バイデン前政権時で発生したインフレ高進は、FRBに対する信認が保たれる中で、次第に沈静化に向かった。そして、その際の大幅な利上げによる「景気のオーバーキル(過度な減速)」懸念は、移民流入の加速や労働生産性の高まりなどを受けた経済成長率の高まりもあって、杞憂に終わった。
第2次トランプ政権では、逆に、過度な利下げがインフレ再燃を招き、景気を損なうことになるかもしれないことに注意が必要だろう。


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高橋 尚太郎(たかはし・しょうたろう)

伊藤忠総研上席主任研究員

2005年日本銀行入行、国際経済調査や金融市場調査等に従事。2017年有限責任監査法人トーマツ入社、マクロ経済分析サービスやリスク管理アドバイザリー等のプロジェクトに従事。2019年伊藤忠商事入社後、伊藤忠総研へ出向。東京大学大学院情報理工学系研究科修了。London School of Economics and Political Science(LSE)経済学修士課程修了。

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(伊藤忠総研上席主任研究員 高橋 尚太郎)
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