明治時代の偉人の中で、女性関係が最も激しかったのは誰か。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「お札の顔になった人物の多くは、従来の常識を覆す恋愛をしていた。
それは、古い秩序を壊し、新しい時代を作り上げるための挑戦でもあった」という――。(第3回)
※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■明治天皇が呆れた「長州藩士」の節操のなさ
明治時代のリーダーたちの中でも、とりわけ女性関係が派手だったのが伊藤博文です。
パートナーがいる女性にも遠慮なく手を出してしまう節操のなさで、あまりに愛人が多いため「掃いて捨てるほどいる」という意味から、一時は「箒(ほうき)」というあだ名をつけられてしまったほど。その奔放さゆえに、明治天皇から「いい加減にしろ」と叱られたという逸話まで残っています。
伊藤博文の面白い逸話は、まだあります。彼は鹿鳴館(ろくめいかん)での舞踏会の最中、馬車の中で日本初の「カーセックス」を実践しようとしたという伝説の持ち主でもあります。
その相手は、岩倉具視(ともみ)の娘で大垣藩主戸田家に嫁いだ社交界の花・戸田極子(きわこ)でした。このスキャンダルは、当時の新聞にすっぱ抜かれてしまいましたが、ここからが伊藤博文のユニークなところ。
なんと戸田家の当主をウィーンの全権大使に任命し、極子の名誉を巧みに回復させたのです。
そのおかげで極子はウィーンの社交界で日本文化を紹介する名物夫人となり、戸田家の子孫の方々は現在もウィーンフィルの楽団員として活躍し、日本でも公演を行っています。
■5000円札の顔、津田梅子の正体
さて、これほど女性好きだった伊藤博文ですが、長く親交を持ちながらも、手を出さなかった女性がいました。

その女性こそが、のちに津田塾大学を創設する才媛・津田梅子です。岩倉使節団に同行し、6歳で渡米した津田梅子は、のちに日本の女子教育の先駆者となります。同じく岩倉具視使節団の一員として同行していた伊藤博文は、彼女にとって幼い頃から親しみやすい兄のような存在だったのでしょう。
18歳で帰国した津田梅子は日本語が不自由で困っていましたが、そのとき、真っ先に彼女に手を差し伸べたのが伊藤博文でした。梅子は伊藤家で英語教師となり、その後、伊藤の紹介で明治の上流階級の娘たちに英語を教えることになります。
しかし、梅子は特権階級の子女へ教育を行うことで満足せず、再度渡米し、アメリカのブリンマー大学で学士号を取得。帰国後に津田塾大学を設立することになりました。
現代でいえばキャリアウーマンの先駆けともいえる梅子ですが、当時はまだ女性は家庭に入るのが幸せと思われた時代でもあります。そのため、家族からは何度も結婚をすすめられたそうですが、あまりのしつこさに、家族に対して彼女が「私の前で結婚の話をしないでください!」と怒りを爆発させた手紙も残っています。
■初代大蔵大臣の子供の数は…
そう考えると、当時梅子には恋人はいなかったようなので、伊藤博文が手を出そうと思えば出すことはできたかもしれません。でも、同じ屋根の下に暮らした時期もある二人ではありますが、伊藤博文は梅子にだけは一切手を出すことはありませんでした。
その理由についてはさまざまな推測ができますが、伊藤博文は梅子を純粋に尊敬し、大切にしていたのではないでしょうか。
梅子自身も、学校創設時などのスポンサーとして政治家や貴族を頼らず、一切の政治的影響を持ち込まないよう徹底していたようです。
現代でも、彼女が話した英語の音源を聞くことができますが、その発音は、完璧で美しい。彼女の流暢(りゅうちょう)な英語からは、真摯な教育への姿勢がうかがい知れます。そんな彼女の姿勢に対して、伊藤博文もまた敬意を払っていたのでしょう。
伊藤博文以外にも、女性関係が派手だった男性たちはまだまだいます。
その一人が、薩摩出身で初代大蔵大臣を務め、デフレ政策をとったことで知られる松方正義でしょう。彼は内閣総理大臣に2回も就任した人物でしたが、実は女性関係にはかなりだらしない人物だったことは、あまり知られていません。
松方は女性関係が派手だったため、子どもは20人くらいいたようです。あるとき、明治天皇に「お前には子どもは何人いるのか?」と尋ねられた松方は、即答できず、「改めて調べましてお答えいたします」と答えたという逸話が残っています。
■20人の婚外子を持った「お札の顔」
また、日本銀行の創設者であり、実業界の大物・渋沢栄一も女性関係が派手な人物でした。彼は、あまり容姿に恵まれなかったので、おそらく若い頃はモテずに苦労したのでしょう。そのコンプレックスが影響したのでしょうか、財をなして自由にお金が使えるようになると、女性関係がどんどん大胆になっていきます。
そのため、彼の血を引く子どもの数は20人から50人とも言われています。
明治の元勲(げんくん)たちの多くは、芸者や遊女出身の女性を妻や愛人として迎えていました。
明治維新という波乱に満ちた日々を過ごした彼らの眼には、華やかで情緒ある芸者や遊女の姿は、非常に魅力的に映ったのでしょう。また、花街で暮らす女性たちも、明治維新前夜の幕末時、奔走する男たちを陰ながら支えたともいわれています。
その結果、のちに木戸孝允(たかよし)と名を改める桂小五郎などは京都の芸者・幾松(いくまつ)と深い恋に落ち、維新後には堂々と彼女を正妻に迎えています。また、山縣有朋(やまがたありとも)の妻も芸者出身でした。
高い功績をあげた明治の元勲たちでしたが、彼らが名門令嬢と結ばれた例はほとんどありません。江戸時代まで続いた政略結婚を進めようとしなかった点も、新しい時代を切り開くリーダーたちならではの決断といえるでしょう。
■北里柴三郎と伊藤博文との「芸者バトル」
また、伊藤博文も、芸者のエピソードには事欠きません。
さまざまな芸者と浮名を流した伊藤ですが、彼は母親から、「女性と付き合うならば、素人の女性には絶対手を出さないように、芸者にしておきなさい」と厳しく教えられていたそうで、のちに妻とする女性も芸妓出身です。
なお、もとは芸者として絶大な人気を誇り、日本初の女優として有名な川上貞奴(さだやっこ)も、伊藤とは関係を持っています。
彼女はのちに芸者を引退して、「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚しますが、その前に彼女を狙っていたのもまた伊藤博文でした。
当時、女性の話があると彼の名前が頻出するので、おもわず「また伊藤か!」と呆れられたほどです。
また、伊藤博文が「とん子」という名前の新橋芸者をめぐって争ったのが、2024年7月から新たな千円札の顔となった北里柴三郎です。彼は艶福家として知られており、芸者との間に子どももつくっています。
さらに、真偽は定かではありませんが、彼には、ドイツ留学中に現地の女性と留学期間中のみの契約交際を行っていたという噂もあります。これは、ベルリンで恋人・エリスとの関係を泣く泣く清算し、『舞姫』を執筆したことで知られる森おう外(※)とは、対照的でしょう。
※森おう外の「おう」はカモメの漢字で正しくは、左に「はこがまえ」に「品」、右に「鳥」です。
■明治の元勲たちの恋愛模様の背景
なお、同じく北里や森と同じく研究者であった野口英世も、女性関係においては非常にルーズで有名です。研究のために渡米した後は、借金をしてまで女性にお金をつぎ込み、夜の街で派手に遊び回っていたという話はよく知られています。
政治家の原敬(たかし)の夫人も元々は芸者でした。彼女は原敬が離婚するまでは愛人という立場でしたが、のちに正式な夫人となり、原を支え続けました。原敬は生前、「自分が死んだら東京ではなく、故郷の盛岡で葬式を出し、墓には『原敬の墓』とだけ刻んでほしい」と強く願っていました。のちに原敬が暗殺された後、夫人はその言葉を忠実に守り、東京ではなく盛岡で葬儀を執り行いました。
今でも、2人の墓は、盛岡の墓地に仲良く並んでいます。
ここまでご紹介してきたように、家制度という制約から解き放たれた明治のリーダーたちは、男女関係においてもまた大胆に振る舞い、恋愛にまつわる従来の常識を覆す行動を見せ続けました。それは単なる個人的な恋愛の奔放さに留まらず、旧来の封建的秩序そのものに対する象徴的な挑戦であったとも捉えることができるでしょう。
彼らが生きた明治という時代は、日本人が初めて個人の自由を模索し、伝統や家制度という束縛を乗り越えようともがいた時期でもあります。男女の関係をめぐる彼らの大胆なエピソードは、その新しい時代精神の表れであり、人々が自由への憧れや葛藤の中で生きていたことを鮮やかに映し出しています。
ただの情事と捉えがちな明治の元勲たちの恋愛模様の裏には、実は、そんな開拓者マインドが潜んでいたのかもしれません。もちろん、権力や財力で複数の女性を得ようとすることは、まったく評価できない話ではありますが。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)

東京大学史料編纂所教授

1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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