自動車業界で「最後のカリスマ」と呼ばれた鈴木修は1978年の社長就任以来40数年スズキのトップに君臨していた。なぜそこまで現役で頑張れたのか? 経済ジャーナリストの永井隆氏は「常に大手に踏み潰されるという危機感があったからだ」という――。

■グリーン車で着替えする気さくなオジサン
2001年4月19日午前7時50分、東京駅の東北新幹線ホーム。出張に向かうサラリーマンが行き交う中を、黒いポロシャツに背広を羽織った恰幅のいいオヤジサンが、たった一人で歩いてくる――。
オヤジさんの名前は鈴木修。軽自動車のトップメーカーだったスズキの総帥だ。鈴木修が社長に就いたのは、地元の浜松商業が春の選抜高校野球で初優勝した1978年の6月。
以来この時点まで22年間も社長を務め、2000年6月に会長に就任したが、引き続きCEO(最高経営責任者)のまま。社長交代会見でも「この度会長に昇格しました」などと、本人は嘯いてもいた(また、この後も社長に復帰する)。
1930年1月生まれなので、01年4月は71歳である。
既にこの頃には、自動車業界では“最後のカリスマ”として知られる存在になっていた。が、多くの取り巻きを従えて“神様”などと崇め奉られることはなかった。一般のサラリーマンと同じに、一人で東京駅までやって来た。
「慌てたよ、時間を勘違いしちゃってさ。
ホテルの時計を見たら、あれ、もうこんな時間だと……」
ホームで待機していた、国内営業担当の副社長、小型四輪事業部長の常務、東京支店長の3人に話しかける。
「そうでしたか。大丈夫です、まだ発車までには20分以上ありますから」

「ホテルの朝ご飯、食べずに来ちゃったよ。もったいないなぁ」
鈴木修がおどけるように言うと、3人の口元が同時にほころぶ。
東京から国内出張に出かけるとき、鈴木修が定宿にしていたのはホテルニューオータニ。海外出張のときは、成田や羽田へのアクセスに便利な帝国ホテルだった。
やまびこ5号が入線し、4人は乗り込んだが、グリーン車に乗車したのは鈴木修だけ。他の三人は指定席だ。安価な軽自動車で利益を確保するには、無駄なお金を一切排除する。スズキの企業姿勢が表れている。
「さてと、着替えるか」
■「仙台で大事な人に会う。その人の好物なんだ」
グリーン車の自分のシートまで歩くと、鈴木修は堂々と着替え始めた。
背広に続き、黒いポロシャツを脱ぐ。ズボンのベルトを外し、ズボンを少し下げ、ランニングシャツの上に持参した白いワイシャツを着込む。
通路を妙齢なご婦人が通っても、気にする素振りは見せない。自然体のまま。大企業のトップというより、田舎から上京した“愛すべきお父さん”なのである。
取材クルーのカメラマンがシャッターを切ると、「なんだ、こんなところまで撮るのか。まいったなぁ……」と迷惑そうにこぼすが、着替えを淡々と続ける。
ネクタイは、黒地に銀色のストライプが斜めに入ったスタイリッシュなタイプ。「修さんは、黒が好き」と元幹部は打ち明ける。
この年の春、皇居で開かれた園遊会に招かれた帰りにも、都内を走るカルタスの“助手席”でモーニングから背広上下に着替えた。この経営者は、体裁やら「他人から自分がどう思われるのか」よりも、合理性や時間を優先する。
着替え終えると、シートに身を沈め、広げた新聞紙を頭から被る。
と、次の瞬間には爆睡を始めていた。
ちょうど同じ時刻、宮城県気仙沼市内にある早朝から営業している海鮮問屋で、鈴木オート社長の鈴木三千(このとき57歳)は、新鮮な海鞘を物色していた。鈴木オートは、気仙沼市唐桑町(当時は本吉郡)にあってスズキ車を販売している。
「昼から、海鞘で一杯かい」
店主が冷やかすと、物色していた手を止めて、濃い眉を少しだけ吊り上げて鈴木三千は言った。
「違うよ、これから仙台で大事な人に会う。その人の好物なんだ」
■元特攻隊だったカリスマ
鈴木修は、この日も長い旅の途中にいた。
仙台出張を終えると、工場進出しているハンガリーに赴く。ゴールデンウイーク後は、決算発表を行い、それが済むとデトロイトのゼネラル・モーターズ(GM)に飛ぶ。大株主だったGMに前期の経営説明をするのが目的だ。
「社長室にはほとんどいない。いつも現場を回っているから」
こう話す鈴木修を、ここで少しだけ紹介する。1930(昭和5)年1月30日、岐阜県益田郡下呂町(現在は下呂市)に生まれる。

「飛騨の山奥で生まれて育った」「だから、インドでもどこでも、何を食ったって腹を壊さない」と言う。農家の四男坊であり、旧姓は松田。子供の頃は腕白のガキ大将だったそうだ。
地元の旧制中学に入学したときには、すでに戦争が始まっていた。当時の男子中学生がそうであったように、修少年も救国の念に燃えていて、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。文武両道に通じていた修少年は、1945年5月、最上位である甲種の予科練習生になる。
つまり、海軍特別攻撃隊(特攻隊)への道を拓き、一度は自分の命を国防に捧げる道を選ぶ。入隊したのは奈良海軍航空隊宝塚分遣隊。有名な宝塚歌劇団の施設が、そのまま使われていた。
■「(仲間たちは)みんな、犬死にだった」
あるとき、淡路島にある要塞の補強工事の密命が下る。明石海峡には敵の機雷が敷設されていたため、迂回して鳴門から淡路島の阿那賀港へ木造船で渡る算段となる。
修少年は無事に上陸できた。
が、仲間が乗船したもう一艘の木造船・住吉丸は、突然飛来した米艦載機2機から機銃掃射を受ける。何の武器も持たない無防備な木船に、艦載機は容赦なく銃撃を浴びせた。船内はすし詰めだったが、14歳から19歳までの少年兵76人、教官ら6人の命が奪われる。昭和20年8月2日正午近く、終戦を直前に控えたよく晴れた夏の日の惨劇だった。
「おかあちゃん……」と言い遺して死んでいった兵士もいたと、記録にはある。
国のため敵艦への衝突だけを夢見ていた76人の少年たちは、志半ばにして散っていった。憧れの戦闘機を、一度も操縦することもなく。
15歳だった修少年はどうすることもできずに、阿那賀港から惨状を見つめ立ちつくしていた。
「本当は、私が乗るかもしれなかったんだよ。(仲間たちは)みんな、犬死にだった」
鈴木修は、言葉少なに語ってくれた。
米機の攻撃直後、阿那賀港と鳴門港の漁師たちは、自らの命も省みずに船を出し、海に投げ出されていた兵士と死体を引き上げ、さらに住吉丸を阿那賀港に曳航する。この結果、22人ほどが助かる。

しかし、補強工事は本土決戦に備えた極秘作戦だったため、軍から箝口令が敷かれ、少年たちの死は終戦後もなかなか表には出なかった。個人よりも軍という組織が優先されていた時代だった。
鈴木修はスズキの社長、会長となり、多忙を極めてからも、戦死した友を慰めに淡路島に毎年渡っていた。「修が来たよ」と、静かに手を合わせていたそうだ。当地で開催されていた淡路島女子駅伝競走大会(1990~2008年)での、スズキチーム応援も兼ねていた時期もあった。
ちなみに、淡路島出身で三洋電機(現在はパナソニック)を創業した井植敏男らにより、犠牲となった82人の墓碑が現地に建立されたのは1965年だった。
■資本関係がない業販店という仕組み
やまびこ5号が仙台駅に到着すると、鈴木修は当時の新型車「エリオ」の“助手席”に乗り、仙台市の郊外にある「仙台ロイヤルパークホテル」に向かう。同ホテルでは11時から「東北・北海道地区営業幹部研修会」と懇親会(出席者は225人)、夕刻からは地域の「販売店大会」と、やはり懇親会(同じく約300人)が行われる。
最初の研修会は、セールスや業販店の開拓を行うディーラーの営業マンが対象。スズキ資本のディーラーが大半だ。これに対し、販売店大会は業販店が対象。業販店とは、スズキオートのような各地域に点在する自動車整備業者や販売業者を指す。スズキとの資本関係はない。
スズキは1973年から2000年まで28年間、軽自動車市場でトップを走る「軽の王者」だったが、実は首位の座を支えていたのは業販店の存在である(ちなみに、暦年では2006年まで、軽トップを維持する)。
スズキは業販店への販売依存度が、当時は8割と高かったからだ。2001年時点で、スズキ車を扱う業販店は約4万店あって、このうち3000店強が「副代理店」と呼ばれる販売実績があり核となる業販店だった。
もともとは修理業者やバイク、自転車の販売店を、スズキ車も販売する業販店にしていった。この販売店網を作ったのは鈴木修である。
ちなみに、「現在は、直販比率が増えて業販店比率は約6割」(スズキ広報部)となっている。それでも現在スズキ車を扱う業販店は約4万3000店あり、副代理店は約3700店と実は増えている。業販比率が減ったのに副代理店が増えたのは、スズキが政策的に増やしたためだ。売れる店、すなわち副代理店に業販の販売は集中している、といえよう。
スズキと資本関係がないだけに、業販店は儲けるためにダイハツ車やホンダ車を併売するケースはいまも多い。
■「私の旧姓は“マツダ”」
販売店大会が始まると、鈴木修は壇上に登った。マイクを右側に少しだけずらして「えー」と、始める。最初は小さな声で、ゆっくりとしたリズムだ。
“つかみ”としては、冒頭に「私の旧姓は“マツダ”」と話して、軽い笑いを取る。さらに、「私の年齢は8掛けで見ていただきたい。だからいま私は、57歳の働き盛り。一昔前といまとでは、同じ71歳でもまったく違うのです」と戯けて話す。なお、「8掛け」は、数年後には「7掛け」と話すようになり、実年齢と乖離していく。
鈴木修は中央大学法学部を卒業後、銀行員を経てスズキ(当時は鈴木自動車工業)に入社したのは1958年。直前に第二代社長、鈴木俊三の娘婿となり鈴木姓となった。
笑いを取り会場を和ませた後、訴えたいテーマに入ると語気を強くする。研修会と販売店大会のスピーチ内容で共通していたのは、翌2002年から始まる日産への軽自動車OEM(相手先ブランドによる生産)供給の話題だった。
カルロス・ゴーンの驚き
「あなたは71歳なのに、どうしてそんなに若いのか? その秘密を私は知りたい」
仙台出張を前にした4月2日午後2時10分。東京・大手町の高層ビルの一室で、カルロス・ゴーン日産自動車社長(当時)は、いつもの早口で鈴木修に話しかけた。もうすぐ共同記者会見が始まるが、二人が顔を合わせたのはこのときが初めてだった。
「それは、現場を回っているからですよ」
好奇心の固まりのようなゴーンの一点を見つめる視線に応えて、鈴木修はゆっくりと話した。ゴーンは、「それだけですか?」と突っ込むと、鈴木修は柔らかな笑顔を作ってナイフのような言葉で返した。
「スズキは浜松の中小企業。日産さんのような大手さんに踏み潰されないよう、必死に頑張るしかないのです。だから、私は年など取っている暇がない」
カルロス・ゴーンは、金融商品取引法違反および特別背任の疑いで起訴されたのち、保釈中の2019年12月に国外へ逃亡。現在はレバノンで暮らしている。
しかし、01年当時は経営危機にあった日産を迅速に再建していく、フランスからやって来た名経営者として称賛されていた。鈴木修より、ゴーンは24歳年下である。
■スズキの日産へのOEM供給の裏事情
このときのスズキと日産の提携は、スズキが日産に新型軽自動車「MRワゴン」を1車種、月間3000台程度、2002年からOEM供給するという内容。
ゴーンは1999年に仏ルノーから日産に入り、この年の10月に村山工場閉鎖などを柱とする「日産リバイバルプラン」を発表。12月に、当時は東銀座にあった日産本社で筆者はゴーンを取材した。このときゴーンは、「日産はフルラインメーカーだ。“ミニカー“も含まれる」と発言をした。実は、ミニカーが何を指すのか、筆者にはわからなかった。マーチのようなミニカー(小さな車)を意味しているのだと理解してしまい、「日産の軽自動車参入」については記事では触れることができなかった。抜かった話だったが、記事は当時月刊誌だったプレジデント誌に掲載された。
本書の取材で初めて分かったのだが、日産からのOEM要請を鈴木修は当初、二度にわたって断っていた。「(2000年12月まで日産の資本が入っていた)スバルに頼むのが筋」、と。
それでも、最終的に引き受けたのは、日産の軽参入は優遇的とされる軽自動車税を維持するのに大きな意味を持つ、と鈴木修が判断したためだった。
スズキの元役員は指摘する。
「ルノーの資本が入る前、つまりゴーンが来る前の日産は、軽自動車の優遇税制を潰そうと躍起になっていました。軽がたくさん売れると、マーチが売れなくなってしまいますから。日産渉外部のロビー活動は凄まじく、トヨタ渉外部以上でした」
そんな天敵が、向こうから軽陣営に入ってきたのだ。体制が変わったことでだった。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)
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