ロシアの首都・モスクワでモバイル通信を遮断される事態が相次いでいる。スマートフォンが使えず、ポケベルや紙の地図を買い求める市民が急増。
海外メディアは、遮断の本当の狙いは単なる安全対策ではないと報じる――。
■首都モスクワで起きた異変
モスクワの街頭でこのところ、携帯のデータ通信が通じず途方に暮れる市民の姿が目立つようになった。
3月6日金曜日、モスクワのレニングラード駅。モスクワ市民のルドルフは、タクシーを呼ぼうとした。恋人と一緒にいたが、二人のスマートフォンはどちらもつながらない。画面には配車アプリの読み込みアイコンが虚しく回り続けるばかりだ。
辺りを見回すと、同じように画面を睨みつけたまま立ち尽くす人々が、駅構内のあちこちにいた。ルドルフのアプリの不調ではなく、モバイルインターネットが丸ごとダウンしていたのだ。
この際の通信断は週末を挟んで断続的に生じ、混乱が広がった。独立系ロシア語ニュースサイトのメデューザによると、通信障害は同週末を通じて何度も起きたという。Wi-Fiを代わりに使おうにも、認証に必要な電話回線すら不通となっており、モスクワ市民に戸惑いが広がった。
■中心部を意図的に遮断
同じ週末、市内中心部にいたリナは、「最初はVPNか何かのトラブルだと思った」と振り返る。
だが通信が戻ったのは、都心を取り囲む第三環状道路(一周約36キロ、JR山手線とほぼ同規模)の外に出てからだった。環状道路の内側では通信がまだら状にしか機能しておらず、通りを数本を隔てた先に移動するだけで、モバイル通信が全く届かなくなる状態だった。
通常ならばモスクワは、世界で最もデジタル化が進んだ都市の一つに数えられる。行政手続きの大半は電子政府ポータルで完結し、地下鉄の改札から日用品の支払いまで現金に触れる必要がない。移動は配車アプリに頼り、食事はフードデリバリーで済ませる。いずれもクレムリンが数十年かけて築いてきたインフラだ。市民はもはや、このネットワークなしには暮らせない。
ところが当のロシア政府が、「安全保障上の措置」と称してそのネットワークを遮断した。築き上げたデジタル都市は、前時代的なアナログに引き戻されようとしている。
■ポケベル、トランシーバーや紙の地図が売れている
CNNが3月21日に改めて報じるなど、モスクワでは断続的な通信断が続いており、巨額の経済的損失を生じている。
ロシア独立系英字紙のモスクワ・タイムズが報じた専門家の推計では、遮断開始からわずか5日間でモスクワの事業者が被った損害額は、30億~50億ルーブル(約57億~95億円)に上る。スマートフォンで回っていた宅配、タクシー、カーシェアリングが一夜にして止まり、小売業者はオンラインの受注を丸ごと失った。

経済へのダメージが日ごとに膨らむなか、市民はアナログへの回帰を急いでいる。英高級紙のテレグラフがロシア最大手のオンライン小売業者ワイルド・ベリーズのデータを引いて伝えたところでは、遮断開始以降、ポケベルの売上が73%急増した。
トランシーバーや固定電話の購入数も25%以上増え、モスクワの市街地図や紙製の観光ガイドはほぼ3倍売れている。スマートフォンが用をなさない以上、前世紀の技術に頼るほかない。
もっとも、ロシアではポケベルの通信サービス自体がとうに廃止されている。市民は藁をも掴む思いでポケベルを買い求めたが、端末が実際に鳴る保証はどこにもない。
■住民の命がかえって危険に
遮断の理由としてロシア政府は、「市民の安全確保」を掲げる。
ウクライナから飛来したドローンはSIMカードを搭載し、ロシア国内のデータ通信網を通じてウクライナ領内から遠隔操縦される。通信を絶てば、人の手による遠隔操作は難しくなる。
だが、ウクライナ国境に近い街では、ロシア国民がその「安全策」にかえって命を脅かされる状況になっている。ロシア西部のベルゴロド州では、通信障害のせいで空襲警報がスマートフォンに届かない。警報が届かなければ、避難のしようもない。

モスクワ・タイムズによると、ロシア南部クラスノダールでは、ウクライナのドローンが飛来するたび防空部隊が電波妨害(ジャミング)をかけ、インターネットどころか通話もSMSも完全に遮断される。本来は携帯に届くはずの空襲アラームが、市民に届いていない。
市が打ち出した対策は、迎撃時にアナログ式の空襲サイレンを鳴らすことだった。ところが独立系メディア「オストロジュノ・メディア」によれば、住民からは攻撃中にサイレンが鳴らなかったとの苦情がすでに相次いでいる。当局は「緊急事態の基準を満たさなかった」と釈明する。
前線から遠く離れたモスクワ郊外でも、通信遮断のせいで命にかかわる事態が起きていた。米ニュース専門チャンネルのCNNが取材したのは、糖尿病を患う8歳の息子ワーニャを持つ母親のスベトラーナさんだ。彼女は息子の血糖値をモバイルデータ経由で24時間見守り、必要なインスリンの量をメッセージアプリのテレグラムで伝えてきた。
頼みの綱だった通信が途絶えたいま、血糖値を確認することも、投与の指示を出すこともできない。「足元の地面が突然引き抜かれるような感覚です」とスベトラーナさんは語る。
■ネット遮断に隠された5つの狙い
公式の説明では、ウクライナのドローン対策を目的に通信を制限している。だが、建前の裏に少なくとも5つの狙いがあると分析されている。

第1は、当局が承認したサイトだけにアクセスを限定する「ホワイトリスト」制度の実験とする見方だ。中国のネット検閲「グレート・ファイアウォール」のロシア版に当たる。
第2に、今年9月の下院選を見据えた情報統制とするもの。続く第3は、今後ウクライナ戦争への動員を本格的に拡大するにあたり、反発の封じ込めを意図したとする説だ。
そして第4に、独立系の通信プラットフォームを排除し、国産サービスへの強制移行を図るとする分析。最後の第5は、連邦保安庁(FSB)に通信遮断権限を与える新法のテストとする見方だ。それぞれ別の施策に見えるが、束ねればプーチン大統領の権限を強化し、対ウクライナ体制を万全にする下地となり得る。
ネット検閲の下地作りではないかとの疑惑には、裏づけがある。米政府系国際放送局のラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティによれば、テストは昨夏にはもう始まっていた。常に通信が可能なホワイトリスト入りしているサイトには、携帯キャリア、親クレムリン系メディア、政府機関、EC(電子商取引)サイト、Odnoklassnikiや旧VKontakteのVKといった国産SNSが並ぶ。何を許可し、何を遮断したいか、その意図は一目瞭然だ。
法的な地ならしも抜かりないようだ。
プーチン大統領は2月20日、連邦保安庁(FSB)の要請があれば通信事業者にサービス停止を命じられる法律に署名した。事業者は損害賠償責任を免除される。
同メディアが指摘するように、クレムリンは2012年のプーチン氏の大統領復帰以降、言論統制を段階的に強め、2022年のウクライナへの全面侵攻を機にさらに締め付けてきた。今回の署名もその一環だ。
ポーランドのシンクタンクである東方研究センター(OSW)は、前線の劣勢とロシア経済の低迷を前に、プーチン政権は政府系以外のメディアによる情報発信を封じたいのだと分析する。市民がSNSやメッセージアプリで横につながる機会を断ち、反体制運動の芽を摘むことも狙いのうちだ。
■大統領補佐官の記者会見中にも…
皮肉なことに遮断を命じた側も、その混乱からは逃れられなかった。
3月上旬、プーチン大統領とトランプ米大統領の電話会談を終えた直後のことだ。クレムリンのユーリー・ウシャコフ大統領補佐官が記者団との電話会見に臨んだが、英通信社のロイターは、肝心の回線が少なくとも3回途切れたと報じている。
モスクワ・タイムズによれば、ドミトリー・ペスコフ報道官は大統領府が固定電話に切り替えたと認めた。
クレムリンから徒歩圏内の下院でも、議員たちは同じ目に遭った。議事堂のWi-Fiにも携帯回線にもつながらず、当局みずから普及を後押ししてきたメッセージアプリ「Max」も、テレグラムも使えない。

下院議員のミハイル・デリャーギン氏は、「議員は国民と一体であるべきだ」と皮肉を飛ばした。ネットから締め出されたという点だけは、たしかに一体だ。さらに彼は、「デジタル・デトックス(スマホ断ち)ができ、悪いニュースを見なくていいのは歓迎だ」ともジョークを加えた。
モスクワ物理工科大学に至っては、スマホの地図が使えなくなったら太陽や星で方角を確かめるよう、市民に呼びかけている。モスクワ・タイムズが報じた。
この一幕を、テレグラフ紙は見出しで「トランシーバーと紙の地図」の時代に逆戻りしたと皮肉った。
■プーチン体制に生じた不協和音
もっとも、通信障害はやがて解消するとの見方もある。英保守系週刊誌のザ・スペクテイターによれば、ロシア下院情報政策委員会のアンドレイ・スヴィンツォフ副委員長は、一連の障害は「トラフィック(通信データ)の経路変更」に伴う副産物にすぎないと説明している。ドローン攻撃の兆候を捉えれば誘導信号を遮断できるよう、国内ネットワークの基礎部分を組み替えているだけだという。
独立系の専門家も、影響は一時的なものだとみている。ロシアのネット分析家で、インターネット保護協会を率いるミハイル・クリマレフ氏はモスクワ・タイムズの取材に対し、当局が許可したサイトのみアクセスを認めるホワイトリストの恒久化を心配するのは「時期尚早に思われる」と述べた。モスクワを含むロシア全土で固定回線はまだ使えるというのが、その根拠だ。
ただし同氏は、警戒すべき一線もはっきり引いている。「ホワイトリストが家庭にまで導入され始めたとき、初めて真剣に懸念すべき理由が生まれる」
実際、検閲強化派は政権内に確実に存在する。ポーランドのシンクタンク「東方研究センター(OSW)」の分析によれば、支配層エリートは規制強化をめぐって割れているという。経済担当部局や財界は接続制限による経済的損失を案じる一方、プロパガンダ担当の官僚たちは偽情報を流してきた国内世論対策や対外向けのチャネルが断たれることを恐れている。遮断とその代償をめぐり、内部に軋みが生じている。
■モスクワに戦争の影響が迫っている
モスクワは長らく、ウクライナ戦争の凄惨な前線から切り離された別世界だった。
それでも他のロシアの都市では生活への影響は免れず、テレグラフによれば、ロシアでは少なくとも2025年5月以降、各地でインターネット遮断が頻発している。だが、首都モスクワだけは、こうした混乱とはおおむね無縁でいられた。
その保証が崩れ去ったいま、首都の住民は揺れている。メデューザの取材に対し、住民のミーシャは、「『チェブルネット』はもうすぐそこだ」と語り、諦めをにじませた。チェブルネットとは、アニメ「チェブラーシカ」とインターネットの合成語で、政府に囲い込まれたネットを揶揄する俗語だ。別の住民リナは、「ロシアを離れたくはないが、自由なインターネットへのアクセスは私にとって譲れない一線だ」と戸惑いをあらわにした。
住民の動揺をよそに、クレムリンは手を緩めない。ポーランドのシンクタンク東方研究センター(OSW)が引くロシアの独立系世論調査機関レバダ・センターの調査では、ウクライナ侵攻継続への支持率は2026年2月に過去最低のわずか25%に沈んだ。ここまで落ちた以上、体制維持を最優先とするプーチン政権が情報統制をさらに強めるのは目に見えている。
前出のクリマレフ氏はCNNに対し、当局が全面遮断に踏み切りうると警告した。戦争が激化するか経済崩壊の予兆が見られれば、その引き金になり得るという。「当局がインターネットを脅威と信じた瞬間、遮断に踏み切る。イランと同じだ」とクリマレフ氏は言う。
テレグラフによれば、モスクワのある診療所で独立系メディア「ベレグ」の記者がこんなやりとりを耳にした。待合室の高齢女性が、「政治と関係があるのかしら。戦争さえなければいいけど!」と呟いた。記者が、「戦争はすでに起きています」と告げると、女性はこう返した。「モスクワで起きていなければいいわ!」
これまで戦禍と無縁だったモスクワに、生活崩壊の足音が確実に近づいている。

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青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
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