NHK「豊臣兄弟!」では、戦国大名・浅井長政が義兄の織田信長を裏切るシーンが描かれた。大河ドラマでは定番のシーンだが、そもそも長政はなぜ信長に反旗を翻したのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、史実に迫る――。
■ついに裏切った「浅井長政」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、信長(小栗旬)の天下取りの日々と、その過程で次第に出世していく藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の姿が描かれている。4月12日に放送された第14回「絶体絶命!」では、ついに浅井長政(中島歩)が信長を裏切った‼
記念すべき大河ドラマ史上通算13回目の裏切りである。なお、「太閤記」と「国盗り物語」は現存映像が限られており筆者もチェックしていないので、たぶん描かれている前提で通算している。
この後の展開は、もはや様式美の域である。おおむね定番の展開だと、お市の方が両端を縛った小豆の袋を密かに送り「袋の鼠ですよ」と兄・信長に知らせる。秀吉は「ここで踏ん張れば出世できる」と目の色を変えて殿軍(しんがり)に志願する。信長は九死に一生を得るわけである。
ただし、この様式美には1カ所、フィクションが紛れ込んでいる。小豆袋のエピソードは『朝倉家記』に由来するものだが、史学上は創作とみなされている。
では実際の信長はどうだったか。『信長公記』によれば、1570年、越前に侵攻した信長は、4月26日に金ヶ崎城の朝倉景恒を下し、さらに侵攻を進める体制を整えていた。

■信長は焦ったに違いない
木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰え、江北一円に仰せつけらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候のところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ……

(『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)
つまり信長の心理はこうだ。
「え、浅井が? ありえん。だってオレの美人の妹の婿だぞ。娘たちも三人、みんな可愛くて……あいつが裏切るわけないだろ、そんな流言、誰が信じるんだよ……ん? また報告来た? ……えっ……ほんとに? ……ほんとに裏切った⁇ なんで、ええええ! ぜひにおよばずぅぅぅぅ‼」
いやいや、まあ多くの海千山千の武将たちを率いる信長である。きっと重臣たちの前では、めっちゃ冷静に報告を聞き、すくっと立ち上がって「是非に及ばず」と退却を命じるところまではやったかもしれない。しかし内心はバクバクで頭を抱えていたに違いない。
なにせ、時に戦国時代である。浅井が裏切った途端に「お、これはチャンスだ‼」と動き出す有象無象が、あちこちにいたのだ。『信長公記』では5月6日の出来事を、こう記している。
■「裏切りの理由」は明確にわからない
稲葉伊予父子3人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。


(栗東町史編さん委員会 編『栗東の歴史 第2巻 (近世編)』栗東町、1990年)
信長が越前で敗走した、というニュースが近江に届いた瞬間、どこからともなく一揆が湧いて出て、村に火を放ち、守山の町に攻め込んでいる。信長の武将・稲葉伊予がなんとかこれを蹴散らしたようだが、それにしても仕事が速い。
信長の敗報が届いてから一揆発生まで、いったい何日かかったのか。ほぼ即日である。
まだまだ天下取りの途上とはいえ、比類無き勢力になっていた信長に対して、そのへんの無名の土豪や国人たちが「よっしゃ! 信長の首をとって、明日には祭りじゃああ!」と盛り上がって火をつけて攻め込んでくるのだ。こりゃあ、信長も本気で逃げないとヤバかったのがわかる。まあ、ここで「是非もなし」と颯爽と退却する演出をできるのが、天下人たるゆえんではある。
さて、こんな長政の裏切りだが、その理由を明確に示した資料はないために様々な説が挙げられ、創作されてきた。朝倉には攻めないという約束があったのに信長が裏切ったというもの、家来扱いに我慢できなくなったもの、さらにはそもそも同盟関係が存在しなかったというものまで。
“本能寺の変の黒幕は誰か”ほどではないが、史実・創作で描かれる説は、山ほど多い。筆者の個人的な意見では宮下英樹のマンガ『センゴク』の「戦国大名として覚醒したから」が、最高である。
■長政は“構造的に詰んでいた”
近年、福井県の郷土史家・香水敏夫がまとめた『小谷城主浅井長政の謎 なぜ、信長に刃向かったのか』(ユニオンプレス、2020年)は諸説の整理をしている。
ここでは、最もポピュラーな「越前朝倉氏への旧恩説」の出典は、小谷城落城から約百年後、江戸時代に書かれた軍記物語『浅井三代記』にすぎないとし、創作だと否定。
また、家康の外孫が編んだとされる江戸初期の史書『当代記』に「越前を取ったその引き足で当国へ乱れ入るべし」とある記述をもとに、信長の次の標的は自分たちだという危機感が浅井家中に広がっていたことを論じる。さらには、長政は足利義昭に忠節を誓っており、幕府守護のために信長を倒さねばならないと決意したとも主張しているのだ。
このように実にわずかな資料、それもほとんどは後年になって書かれたものから裏切りの理由を類推せざるを得ないのが、まぎれもない事実である。
だとすれば、問い方を変えてみよう。「なぜ裏切ったのか」ではなく「そもそも裏切りだったのか」と。
長政の立場から1570年の状況を丁寧に整理すると、まったく違う景色が見えてくる。長政は義侠心から信長に反旗を翻したのでも、朝倉への義理を守ったのでも、ましてや単純な裏切り者でもなかった。そうせざるを得ない構造的な「詰み」の中にいたのだ。
そう、浅井氏は、そもそも「詰んでいた」……そう考えると、その行動原理が見えてくるのだ。
■朝倉との関係は「従属」だった
浅井家の歴史を3代遡るとよくわかる。祖父・亮政の時代、浅井氏は北近江の守護・京極氏の家臣にすぎなかった。
それが下剋上で京極氏を追い落として北近江の実力者となったものの、今度は南近江の守護・六角氏に敗れて臣従を余儀なくされた。
父・久政の代には、六角氏の当主から一字もらって「賢政」と名乗らされ、六角氏重臣の娘を正室として押しつけられた。嫁まで指定される、これはもはや半属国扱いである。
この状況に家臣たちが業を煮やしてクーデターを起こし、長政が家督を継いだ。長政はさっそく六角氏から押しつけられた妻を返し、1560年の野良田の戦いで六角軍を撃破。北近江の独立を勝ち取った。
しかしここで重大な問題が生じた。六角氏という後ろ盾を失った浅井氏は、代わりの「親方様」を必要としていた。その役割を担ったのが越前の朝倉氏である。
注目すべきは、この浅井・朝倉の関係が「同盟」ではなく「従属」だったという点だ。浅井氏側が朝倉氏を「御屋形様」と位置づける文書が出てきたことや、一乗谷に「浅井殿」・「浅井前」の地名が残されていることから、対等な同盟関係ではなく、朝倉氏に出仕していたことをうかがわせる。一乗谷には浅井家の屋敷まであった。
対等な盟友ではなく、格上の主君に仕える関係だったのだ。
■長政は「協同組合の代表者」のような立ち位置
つまり長政が信長と同盟を結んだ時点での構図はこうだ。
そもそも浅井氏の実態は北近江の国人・土豪たちの連合体であり、浅井当主はその盟主にすぎない。しかも、家臣が主君にクーデターを起こして当主を交代させる、これが普通に起きる組織である。株式会社だと思ったら一人一票の協同組合だった、というやつだ。
この構造が、長政の外交を根本から規定していた。
あくまで「みんなに選ばれた」協同組合の代表者に過ぎないから、組合員の顔色をうかがいながら経営しなければならない。長政ひとりが「信長につく」と決断しても、家臣団が「朝倉様への義理はどうするんだ」と突き上げれば、それを無視することはできない。
じゃあ、なんで同盟関係になったかといえば、答えは単純である。「どっちにもいい顔をしておく」のが最良と思われたからだ。なにせ、信長というヤツは、尾張の新興勢力かと思いきや、気がつけば美濃を手に入れてしまった。朝倉の親分もそう手厚く相手をしてくれるわけでもないから、こっちにも唾を付けておこうというわけである。
想定外なのは、結果、長政が美人な嫁を手に入れたことくらいだろう。
■“二股外交”の前提が崩れていた
しかも信長は、幕府そのものをも骨抜きにし始めた。
上洛からわずか1年余り後の元亀元年(1570年)1月、つまり金ヶ崎のわずか3カ月前に信長は将軍・足利義昭に「五箇条の条書」を突きつけている。その内容がすさまじい。「諸大名に命令を出す際は、必ず信長の書状も添えろ」「これまでの将軍の命令はすべて無効とし、作り直せ」「天下のことは信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思をうかがう必要はない」要するに、将軍の権限を大きく削り、信長が実権を握るという意思表示である。
将軍すら手駒にされているのを目の当たりにして、「これは新時代が来るな」と感じる者はそうそういない。大抵は「え? これ、将来は俺も用済みで切り捨てられるんじゃないのか?」と恐れおののくだろう。
朝倉とも信長とも顔をつないでおくという二股外交が成立する前提は、完全に崩れていた。浅井の側から見れば、信長という人物はこういう存在だった。
突然現れた急成長企業が、気がつけば業界の覇者になっていた。最初は「一緒に仕事しましょう」と対等な顔をしていたのに、規模が大きくなるにつれて態度が変わり、気がつけば「うちのグループ会社ですよね?」という扱いになっている。しかも既存の業界秩序――室町幕府という長年の商慣行を「非効率」と言わんばかりに次々と書き換え、逆らう取引先は容赦なく潰していく。
「このまま黙っていたら、いずれ完全子会社化されて、ブランドも消されて終わりだ」
長政がそう判断したとしても、まったく不思議ではない。
■「合理的な判断」だったが、運は味方せず
さて、長政に残された選択肢は2つだけだった。
【選択肢1:信長に従って緩やかに死ぬ】
緩やかな死。朝倉を見捨て、信長の軍門に降る。波風は立てない。しかし結末は見えている。越前・若狭を平定した信長の領土に四方を囲まれた北近江は、いずれ自然に飲み込まれる。抵抗する口実もなく、戦う理由も作れないまま、じわじわと織田家の一部門として吸収されていく。かつての久政が六角氏のもとで経験したのと同じ運命、名前だけ残って実質は消える。ゆっくりと、しかし確実に死ぬ道である。
【選択肢2:朝倉について一発逆転に賭ける】
リスクは高い。しかし1570年時点の情勢を冷静に見れば、これは無謀な賭けではなかった。武田信玄は着々と西進の構えを見せ、本願寺は信長の矢銭要求に怒り、延暦寺は比叡山焼き討ちの噂に戦々恐々とし、将軍・足利義昭は信長に実権を奪われて内心穏やかではない。どれか一つでも本気で動けば、信長は詰む……長政にはそう見えた。賭けに勝てば独立を保てる。死ぬかもしれないが、勝てば生き残れる。
こうしてみると、長政の「裏切り」は極めて合理的な経営判断だったことがわかる。しかし、決断は正しかったのに、運がまったく味方しなかった。
金ヶ崎では、なぜか信長は10人の供廻りだけで脱出に成功。その後3年後には包囲網の要・武田信玄は出陣直後に急死。これまで共に戦っていた近江の国人連中も、次々と調略されて寝返っていく。結果的に武田・本願寺・延暦寺・足利義昭……鉄壁に見えた包囲網の歯車が、ひとつ、またひとつと外れていった。「そんなバカな」みたいなことが次々と起きてしまったのだ。
■長政、あの世で笑っているか
スタートアップ界隈でよく言われる言葉がある。「優れた戦略も、タイミングと運には勝てない」。長政の戦略は間違っていなかった。ただ、対戦相手が悪すぎた。
かつて、劉邦と天下を争った項羽は垓下の戦いで「此天之亡我、非戦之罪也(これ天の我を亡ぼすなり、戦いの罪にあらず)」すなわち「これは天が私を見捨てたのであって、弱かったり、戦い方が悪かったのではない」と言い切って死んだ。長政も同じようなものである。
もっとも戦いには敗れたが、娘三姉妹を通じて、その家系は徳川将軍家から皇族にまで続いたのだから「数百年かけて勝ったのはこっちだ‼」とあの世で笑っているかもしれない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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