がん治療において一番大切なのは何か。近畿大学病院がんセンター長の中川和彦さんは「進行性の早いがんの場合、診断がついたらなるべく早く治療に移行しなければならない。
しかし、がんになった患者、その家族は動揺してしまい、医師の説明が耳に入らない。だからこそ、システマチックに患者と接することができる『がん相談支援センター』が必要だ」という――。
※本稿は、近畿大学病院がんセンター広報誌『UmeBoshi』Vol.3の一部を再編集したものです。
■「何が患者のためになるか」を問い続ける人生
中川和彦は半生、いや人生の大半を何が患者のためになるか、を問い続けてきたと言ってもいい。
1957年、熊本県鹿本郡鹿本町(現・山鹿市)で生まれた。上に2人の姉がいる。生後50日後に交通事故で父親を失い、母親が養鶏組合で働きながら3人を育てた。
医師を志したのは高校生のときだった。
「明確に医者になりたいという強い願望があったわけではないんですが、人と関わり合いがある職業ということで、学校の先生か医師がいいかなと思ったんです」
77年、熊本大学医学部に入学すると、第一内科を選んだ。幅広く様々な疾患を診ることのできる医者になりたいと考えたからだ。大学卒業後、熊本大学医学部附属病院で最初に担当した患者が中川の人生の方向を決めることになった。
「30代の若い男性で、肺がんのIII期に入っておりリンパ節にまで転移していました。
当時のがん治療は手術しかなく、外科に送ることになりました」
III期とは、がんが肺の中にとどまらず、周囲の組織やリンパ節へ広がっている状態だ。がんになった部分、その周囲の組織を手術で切除したが、すべてを取り切ることはできなかった。
「しばらくして第一内科に戻ってこられたんです。そこでシスプラチンという抗がん剤を使うことにしました」
■脳裏に焼き付いて消えない解剖室でみた光景
シスプラチンは細胞障害性抗悪性腫瘍薬の一つ、がん細胞のDNAを壊す、抗がん剤だ。
「がんの薬物療法はほとんど注目されていなかった時代でした。シスプラチンがようやく日本で使えるようになっていたんですが、第一内科では誰も使ったことがなかったんです。ぼくは研修医でありながら、製薬会社から資料を取り寄せて、投与しました」
目の前の患者を助けたいという一念だった。しかし、しばらくしてその患者は亡くなった。解剖室で小さな女の子の手を握った妻がぼう然と立つ姿は今も中川の脳裏に焼き付いている。
彼女は中川が手を尽くして治療してくれたことを感謝した。嬉しかったと同時に自分の無力を痛感したという。
がんをもっと知りたい、そう考えた中川は東京都中央区築地にある国立がんセンター(現・国立がん研究センター研究所)への国内留学を志願。

国立がんセンターでは、抗がん剤の“耐性克服”の研究に注力した。90年に大阪府羽曳野病院第二内科に移る。研究で得た知見を臨床の現場で生かしたいと思ったのだ。当時の羽曳野病院は「西のがんセンター」と呼ばれ、肺がん患者が集まっていた。
■「がんの告知をしない」という患者への嘘
臨床医として再び患者と向きあうようになった中川は、現場の矛盾にぶつかることになる。がんの告知、である。
「患者さん、ご家族は、がんと告知されると精神的に動揺、恐怖を感じる。和らげるために嘘をついたほうがいいという考えでした」
患者に「がん」という病名を伝えていなかったのだ。肺がんの場合は「肺心筋症」の病名がつけられた。
羽曳野病院では、抗がん剤新薬の治験を行なっていた。治験とは開発中の新薬を使用した臨床試験である。
「何の治療を受けているのか分からないのに抗がん剤治療をやるなんてことはあってはならない、がんの告知をすべきだとぼくは言い出しました」
ところが、他の医師、看護師からの反対があった。

「告知をすれば、患者さんは一時的にショックを受けるかもしれません。ただ、どのような治療を受けるのか、どう生きていくのか考えることができる。嘘をつけば、(医学的な)説明が破綻するんです。
振り返ったときに、あのときなんで本当のことを言ってくれなかったんですか、と患者さんに思わせてはダメ。患者さんに寄り添うという理由であっても嘘はついたらいかんわけですよ。若かったせいもあって、押し通しました」
我々の第一義は、患者さんに対して責任を持つことなんですと語気を強める。
告知を受けた患者にアンケートをとってみると、ほとんどの患者が、告知されて良かったと答えたという。羽曳野病院の試みは全国に広がっていった。
■がんにおいては最初の治療が一番大事
その後、中川はアメリカの国立衛生研究所(NIH)の国立がん研究所(NCI)への留学を経て、97年に近畿大学医学部に入職。2004年、診療科を横断して、がんを扱う腫瘍内科の立ち上げに関わり、2007年に腫瘍内科教授に就任。2009年にがんセンターを立ち上げた。
「がんの特徴の1つは転移すること。
1つの臓器で診察、治療が完結しない。内臓ならば消化器外科、肺ならば呼吸器外科、脳に転移したら脳外科。放射線科にも手伝ってもらう必要がある。がんの治療は、様々な分野の専門家が協力して最善の治療をしなければならない」
まだまだがん患者への支援が足りないと、中川は頭を振る。
「進行性の早いがんの場合、診断がついたらなるべく早く治療に移行しなければならない。がんにおいては最初の治療が一番大事。医療者は手順を踏んで、病気の説明、治療選択を説明します。
しかし、がんと告知された患者さんは動揺されて、冷静な判断が難しくなる。さらに医療用語にも馴染みがない。そこで患者さんが納得して治療法を決めるのは難しい。ご家族も同じ。誰にも相談できず閉鎖的になってしまう」
医師だけでは無理、だからこそシステマチックに患者さんと接することのできるがんセンターが必要なんですと言う。
その窓口となるのが、がん相談支援センターである。
■患者が死を受け入れるまでの5段階
社会福祉士の仲川紋子が、近畿大学病院に入職したのは、2018年のことだった。脳神経内科を経て、2023年から、がん相談支援センターに配属された。
「がん相談支援センターの仕事は大きく分けて3つあります。がんと診断されて、仕事、生活をどうしたらいいのかという経済的な相談。どのように過ごすのかという療養的相談。3つ目が、どこで最期を迎えるのか、残された時間をどう過ごすかになります」
スイス生まれの精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、著作の中で、患者が死を受け入れるまでに「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5段階を辿ると書いている。ほとんどの患者は、自分ががんになると「否認」し、「怒り」を感じる。
「私たちは医師や看護師のように医療的処置ができるわけではありません。でも、相談できる場所が身近にあることは知ってほしい。お話を聞き、たくさん語ってもらうことで、その人となりを知ります。そして私たちに何ができるのかを見極めていく」
ある若い女性が乳がんだと診断された。
もう治療は見込めないという。がん相談支援センターの相談室に、彼女の夫がやってきた。
「お仕事が忙しくて、それまで一度もお見えにならなかった。最初は、ぼくはここで何を喋ればいいのですかという感じでした」
■面談は一組あたり30分から1時間程度
一般的に男性は、弱みを見せたくないためか、感情を露わにすることが苦手だ。
「最近のご家庭の様子、お仕事のこと、お子さんとの会話、なんでもいいですよ、と言いました」
しばらくすると一杯喋っていただき、気づいたら私も一緒に泣いていましたと微笑む。
「最後は話したことで、少し整理ができました。一生懸命がんばりますとおっしゃってくれた、一人でがんばりすぎないでほしい、私たちにも気持ちを分けてほしいと私は答えました。みなさん、私よりも人生経験がある方です。
そして、がんと闘い死ときちんと向き合っておられる。お話を聞くたび、私も自分と向き合い、一生懸命生きないといけないって思います」
面談は一組あたり30分から1時間程度。さらに長引く場合もある。がん相談支援センターでは、仲川を含めてソーシャルワーカーが4人、看護師が4人で応対している。
看護師の遠藤美幸もその中の一人である。
遠藤ががんに引き寄せられるきっかけになったのは、2005年のことだった。
「(近畿大学)奈良病院の病棟で働いていたとき、婦人科にがん末期の患者さんが何人かおられたんです。いろんなことをやってあげたいんですけれど、自分にスキルがなかった。どうしていいのか分からず、何もしてあげられなかった」
■がんになっても、その人らしさをどう保つか
その後、別の病院で在宅での緩和ケアに関わるようになった。緩和ケアとは、病気のつらさを和らげ、その人らしい生活を支える医療の意だ。がん治療において、緩和ケアは大きな柱である。
「戦争を経験された90代のおばあちゃんの患者さんがいました。9人ぐらいお子さんがいて、お孫さんも沢山おられる方でした。人に絶対に迷惑をかけないというのが信念だったようです。お亡くなりになる直前、ちょっと吐血された。
動けないのに、パジャマやベッドを絶対に汚したらダメとおっしゃって、なんとか起き上がろうとされるんです。苦労して生きてこられた方ですし、私たちは迷惑だと思わない。もっと頼ってもいいのにって。でもそれが彼女の大事にされていたことなんだと思いました」
その後、近畿大学堺病院に勤務しながら、緩和ケアの認定看護師資格を取得、2024年から、がん相談支援センターに配属された。
遠藤が大切にしているのは、がんになってもその人らしさをどう保つか、である。
「(薬物)治療はしんどい。未成年、10代の患者さんに延命は可能だけれど、日常に戻れないかもしれないと説明しなければならないこともある。すると中には、治療したくないという子もいるんです。一方、親は、生きてほしい、可能性が少しでもあるならば頑張って治療してほしい」
がんは転移、再発の可能性が高い。1つのがんを抑えて延命できたとしても、完治しない場合もある。
「そんなときは彼、彼女がどう考えるのかをまず確認します。そして親御さんとお子さんの間に入って調整役をすることもあります」
私も子どもがいますし、親の気持ちが痛いほど分かる、しんどくなることもありますと、呟いた。
■「がんは特別な疾患ではない」
話を聞く、寄り添うことを強く意識している医師もいる。乳腺外科を専門とする菰池(こもいけ)佳史(よしふみ)だ。
菰池は1962年に兵庫県淡路島で生まれた。地元の高校から大阪大学医学部に進んでいる。大阪大学医学部附属病院、吹田市民病院を経て、大阪国際がんセンターに移った。がんを扱う病院にいましたけど、ぼくは、がんは特別(な疾患)だと思っていないんですよ、と穏やかな口調で言う。
「外科の主流が、がんの手術だったので、がんの患者さんに接することが多くなりました。でも、がんだけ、あるいは特定の臓器だけ診る、というのはダメだと思うんです。おこがましいんですが、患者さんのすべてを診る、ゼネラリストになりたかった」
乳腺外科のがん――乳がんを専門にするようになった経緯も菰池らしい。
「人を助けるという意味で救命救急に興味があった時期もありました。今でも目の前で人がばたっと倒れたら助けたい。しかし、自分を分析してみると、判断が遅いという欠点がある。救命救急の現場で、判断の遅れは許されない。
乳がんの治療は早いにこしたことはないんですが、比較的(進行が)ゆっくりです。そのため、患者さんと話をしながら治療を進めていくことができる」
■診療科の垣根は不要
近大病院の教授となったのは、2012年のことだった。近大病院には臓器、診療科の垣根を跳び越える“腫瘍内科イズム”があった。
「ぼくも診療科の垣根は不要だと思っていました。最終的に何が患者さんのためになるのか。みんなの力を借りてやることが大切なんです」
患者と向き合うときは、何に困っているのか、を聞き出すことを菰池は重視している。
「初診の患者さんは1時間を越えることもありますね。まずは検査、診断して、どのような治療の選択肢があるのか説明します。現状の説明だけならばそんなに時間はかからない。
患者さんは、仕事を辞める必要があるのか、治療を受けながら、子どもさんの世話をやっていけるのか、などその先まで心配されている。逆の立場になったら、そうなりますよね。そういう話を聞くとどうしても長くなる」
がん相談支援センターの相談員が行なった聞き取りもその参考になる。
教授として学生を指導する菰池は、患者、そしてスタッフに敬意を持つよう教えている。
「ぼくの今があるのは患者さん、スタッフのおかげだと思っているんです。患者さんの生き方、考え方が自分に影響を与えてくれた」
■人事権をもった“センター”として独立すべき
近大病院は、2025年3月に地域がん診療連携拠点病院に指定されている。そして2025年11月に、堺市泉ヶ丘の新病院に移転した。
前出の中川は新病院が、がん相談支援センター及びがんセンターを大きく前に進めるきっかけになると信じている。
「これまではがんセンターという名称でしたが、(がんに関わる)部署がばらばらの場所にあった。いわばバーチャルながんセンターでした。それが新病院になってまとまるようになった」
中川の理想はさらに高い。
「アメリカのMDアンダーソンがんセンターのように各診療科と連携した上で、人事権をもった“センター”として独立すべき。これは日本の医療の仕組みとも関係しているので近大だけではできない」
テキサス大学MDアンダーソンがんセンターは、テキサス州ヒューストンのテキサス医療センター内に1941年に設立された、がんの治療、研究、予防を専門とする、世界屈指のがんセンターである。
「腫瘍内科がある近大は、この理想を実現できる可能性がある」
次の世代には、さらに期待しているんですよと、中川は遠くを見た。

(UmeBoshi編集部 撮影=奥田真也 取材・文=田崎健太)
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