福沢諭吉の有名な著作に『学問のすゝめ』がある。日本政治史学者の久保田哲さんは「この本には『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という一節がある。
しかし福沢が本当に伝えたかったことは、続きに書かれている。なぜ平等なはずの人間に貧富の差が生まれるのか。その答えが最も大切なメッセージだ」という――。(第1回)
※本稿は、久保田哲『福沢諭吉 敗け続けの偉人』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
■門下生になった元暗殺者
文明化を主張する福沢は、暗殺対象であった。福沢を狙おうとする者が案外近くにいることは、珍しくない。熱心な攘夷論者などが、同郷の開国論者の命を狙うことも考えられる。増田宋太郎(そうたろう)と朝吹英二(あさぶきえいじ)がそうであった。増田にいたっては、福沢の再従弟(はとこ)である。
明治3年(1870年)閏10月、福沢は中津に向けて東京を出発した。かねてより母・順に上京を促しており、ようやく同意した順と姪の一を迎えにいくためであった。翌月に中津に到着すると、増田に動向を偵察された。
いよいよ狙われるとなったその日、福沢は服部五郎兵衛と一晩中酒を酌(く)み交わしていたため、実行に移されなかった。
順らを連れて東京に戻る途中、福沢は大坂に立ち寄った。ここでは、増田の指示を受けた朝吹に狙われたが、たまさか寄席のはね太鼓が鳴ったために難を逃れた。
増田と朝吹はその後、福沢の考えを聞くにつけ考えを改め、慶応義塾に入塾し、福沢とともに暮らすこととなる。増田は中津に戻ると『田舎新聞』を発行して民権論などを説いた。明治10年の西南戦争では中津藩士族を率いて西郷軍に呼応し、鹿児島の城山で戦死した。朝吹は、先に紹介した慶応義塾出版部の主任を務めたほか、三菱会社や鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)会社、三井系諸会社の重役を歴任した。
■福沢諭吉が最期まで主張し続けたこと
さて、中津での福沢は、藩の重役から藩政への意見を求められ、武備の全廃と洋学塾の開設を説いた。そして明治3年11月27日、中津の人びとに向けて「中津留別(りゅうべつ)之書」をしたためた。今日では、一般にほとんど知られていないこの書き物のなかには、福沢が生涯をかけて主張し続けた内容が盛り込まれている。
福沢はまず、徳を修め、知識を求め、積極的に交際することで、「一身の独立」を遂げることが何より重要であるという。そのために必要なものが、「自由」である。
「自由」というと、好き勝手にしていいと誤解されることもあるが、「他人の妨(さまたげ)を為さず」「我心を以て他人の身体を制せず、各(おのおの)其一身の独立を為さしむる」ことをいう。したがって、「貴賤長幼の差別」があってはならない。一身の独立が一家、一国、そして天下の独立に結実するのである。
夫婦関係も見直さなければならない。妾(めかけ)など認めてはならず、夫婦は対等な関係であらねばならない。これが子への教育にもつながっていく。しかし、残念ながら「世の開るに随(したが)ひ、不善の輩(やから)も随がって増し」ていく嫌(きら)いがある。それゆえ政府の役割が重要となるが、「国の政事を取扱ふほど難(かた)きものはな」い。
■欧米列強に抱いた不信感
つまるところ、学問が重要なのである。
外国との交易が始まった今日、従来の「皇学・漢学などを唱え、古風を慕ひ新法を悦ばず、世界の人情世体に通」じていなければ、西洋諸国の「策中に籠絡(ろうらく)せら」れてしまう。「中津の士民も、今より活眼を開て、先づ洋学に従事し、自から労して自から食ひ、人の自由を妨げずして我が自由を達し」てほしい。
西洋を訪れ文明を知り、また外交文書を読むなかで彼らの横暴さも知った福沢による、故郷への訴えである。
この文書の終盤には、次のように記されている。「人誰か故郷を思はざらん、誰か旧人の幸福を祈(いのら)ざる者あらん」(『全集』20)。
明治4年11月、福沢の助言を受けて、中津に洋学校が設立された。中津市学校という。
慶応義塾の塾長も務めた小幡篤次郎が初代校長となり、中上川彦次郎や松山棟庵などが教師として慶応義塾から派遣された。同校は、明治16年1月に廃校が決まったものの、正門は中津市立南部小学校生田(いくた)門として現存している。
■学校教材からベストセラーへ
教育と著作により日本を文明化に導く――福沢によるこのような活動の一つの集大成がある。
今日でもっとも有名な福沢の著作、『学問のすゝめ』である。
そもそも『学問のすゝめ』は、先に紹介した中津市学校の設立を受けて、明治4年12月にそこで学ぶ学生に向けて書いたものである。これが好評で明治5年2月に刊行された。以後、福沢は続編を執筆し、明治9年11月までに17の小冊子が作成された。福沢は、全17編で少なくとも340万部は流布されたとみている。
さらに明治13年7月には、これらが合本されて出版された。
なお、同書初編は福沢と小幡の連名になっている。これは初代校長となる小幡を中津の人びとに知らしめようという配慮であったといわれる。ただし、一部の執筆に小幡が関与していた可能性も指摘されている。
■福沢諭吉が説いた「実学」の重要性
さて、ここではその初編の内容を紹介しておこう。初編は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と始まる。あまりにも有名な一説である。しかし重要なのは、この後に「と云へり」と続くことである。
「万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別」がないとしながらも、世の中を眺めてみれば、「貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もあ」るではないか、と指摘する。福沢は、天賦人権論を主張しつつ、人間社会の現実にも言及する。
それでは、その違いは何に起因するのか。福沢はそれを学問に求めるのである。

学問といっても、漢学や国学ではなく、実学である。具体的には、地理学や窮理学、歴史学、経済学、修身学などを指す。今日の感覚からすると、歴史学や修身学は意外に感じるが、前者は「万国古今の有様」を学ぶ点が有意義であり、後者は「天然の道理」を知るためのものである。福沢は、これら実学を誰もが学ばなければならないと述べた。
■『学問のすゝめ』で本当に伝えたかったこと
それでは、学問をするうえで必要なものは何か。それは、自由や権利について知ることである。人は生まれながらにして自由であるが、勝手気ままに振る舞っていいわけではない。他人の妨げにならない範囲で自由に振る舞うことが重要である。これは、国家にも当てはまる。日本も、西洋諸国も、その他の国も、同等に付き合っていくべきである。「天理人道」を貫く国を尊重し、こちらに道理があればたとえ西洋諸国に対してでも毅然と主張すべきである。
徳川の時代は、「政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯(ひきょう)なる仕方にて、実なき虚威」が横行していたが、明治政府になって政治は改まり、「外は万国の公法を以て外国に交り、内は人民に自由独立の趣旨を示し」ている。
だからこそ私たちは、政府が道理から外れれば毅然と批判し、堂々と議論すればいい。
この道理を知るためには、学問が不可欠である。「愚民の上に苛(から)き政府あれば、良民の上には良き政府」がある。人びとが学問を志し、「物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法も尚又寛仁(なおまたかんじん)」なものとなろう。つまり、「一身の行ひを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知」ることが、「全国の大平」につながるのである(『全集』三)。
江戸から明治に時代が移り、世襲身分制度が崩壊した。これにより、かつての武士のなかには、路頭に迷う者もいた。何のために生きればいいのか、目的を持てなかった者もいた。福沢の『学問のすゝめ』は、旧身分を問わず、彼らに生きる指標を与えた。学問は個人の、そして国家の幸福につながるのである、と。

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久保田 哲(くぼた・さとし)

日本政治史学者

1982年東京都生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。慶応義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専攻は近現代日本政治史。立正大学教授。著書に『元老院の研究』(慶応義塾大学出版会)、『帝国議会』(中公新書)、『明治十四年の政変』(インターナショナル新書)、『図説 明治政府』(戎光祥出版)、共著に『なぜ日本型統治システムは疲弊したのか』(ミネルヴァ書房)などがある。NHK連続テレビ小説「風、薫る」で時代考証を担当。

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(日本政治史学者 久保田 哲)
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