■マッチョな姿からは想像できない幼少期
岡村青は『三島由紀夫と森田必勝』(光人社NF文庫)で、虚弱だった三島の幼年期を次のように書いている。
「いささか病的でヒステリックな祖母は実母から三島を奪いとり、自分の手元から離さなかった。それは可愛い孫というよりペット、愛玩としての接し方のようであった。よほどのことでもないかぎり外出も許さなかった。それぐらいだから遊びといえば家の中でやれるもの以外認められず、しかもそれはオハジキとかママゴト、折り紙といったおよそ男児らしからぬ遊びに限定された。男の子と遊ぶのは危険、外出は体に悪い、という理由で祖母は遊び相手も年上の少女を選んだ」
後年の肉体強化、武力信仰はその激烈なまでの反動ではなかったか。
三島は徴兵検査で第二乙種となっている。辛くも合格とはいえ、ほとんど徴兵されることはないと思われたが、戦局の逼迫と共に入隊検査を受けることになった。
しかし、風邪を引いて高熱だったために、肺浸潤と診断され、即日帰郷を命ぜられる。
その後の様子を、付き添って行った父親の平岡梓が『伜・三島由紀夫』(文春文庫)にこう書いている。
■父が書き残したあまりにも情けない姿
「門を一歩踏み出るや伜の手を取るようにして一目散に駈け出しました。早いこと早いこと、実によく駈けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後から兵隊さんが追い駈けて来て、『さっきのは間違いだった、取消しだ、立派な合格お目出度う』とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったからです。『遁げ遁げ家康天下を取る』で、あのときの逃げ足の早さはテレビの脱獄囚にもひけをとらなかったと思います」
西部邁と『映画芸術』の2017年夏号で対談した時、西部はこの件について、
「お父さんが裏で手を回したという説もあります」
とまで言った。
■抱いていたコンプレックス
西部と私の共著『難局の思想』(角川oneテーマ21)所収の三島論で私が、「三島が好きな人というと、たとえば沢木耕太郎とか、猪瀬直樹とかが『三島、三島』というので、私はちょっと苦手な傾向があります」
と切り出すと、西部は、
「僕は、三島は嫌いっていうか、苦手なんですね。三島由紀夫を比較的好きな人がいまもまわりに多く、冗談で言えば不幸な人生ですけど(笑)、そういう人たちとはすごく気をつけて付き合っています。実は学生運動をやっていたときも、三島由紀夫を好きな運動家とか指導者が多かった。そういう人たちともずっと意見が合わないということもあって、なるべく小説も評論も読みたくないと思っていた。だから、いい読者ではなかった」
と述懐した。
いわゆる右翼を西部は単細胞な反左翼として遠ざけていたが、しかし、取り巻く人には三島好きが多かったのだろう。
三島は市ヶ谷の自衛隊のバルコニーに立って、
「人の命以上に尊いものはないのか」
と隊員をアジったが、徴兵検査の一件を知ると、そのコンプレックスから三島は派手派手しい愛国運動に奔(はし)ったのではないか、とさえ思えてくる。
■戦争を経験しなかった三島
過酷な軍隊体験をした城山三郎は、
「戦争はすべてを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」
と繰り返し語ったが、それを体験しなかった三島は憲法を批判し、自衛隊員に決起を呼びかけて無視され、自決した。
その三島を韓国の抵抗詩人、金芝河(キム・ジハ)は「アジュッカリ神風」(渋谷仙太郎訳)という詩で、次のように断罪した。
どうってこたあねぇよ
朝鮮野郎の血を吸って咲く菊の花さ
かっぱらっていった鉄の器を溶かして鍛えあげた日本刀さ
前掲の『難局の思想』で私は三島を「形式に生き、形式に死んだ男」と規定し、「惑溺からは逆に遠い人」と指摘した。遠かったのに自らも惑溺し、他の人をも惑溺に巻き込もうとしたのである。
■「全部、与えられた人生だった」
三島の受け身性については、美輪明宏から聞いた話が忘れられない。
『サンサーラ』の1996年11月号で対談した時、三島と親交の深かった美輪は私にこう言ったのである。
「三島さんは、学習院時代に“ヘチマ”だの“うらなり”だのと言われていたくらい、ひ弱だった。あの人は親孝行な人だったから、お母様とおばあ様が上流社会志向のために、自分の希望しない学習院に入れられたんです。次にお父様に『帝大に行け』と言われて、帝大に入り、『大蔵省に行け』と言われて、大蔵省に入った。
あの方が自分で選んだものは、物を書くことだけだった。でも、その物を書くことにしても、時代のせいもありますが、『物書きや芸人なんてとんでもない』と、お父様に禁止されていたんです。そうしたら、お母様が隠れて原稿用紙と万年筆をそろえてくださっていた」
着る物もすべて母親の見立てだった。
美輪が初めて三島と会ったのは16歳の時で三島は26歳だった。美輪が続ける。
「私は、思い切った格好をしていて、思い切った人生を生きていましてね。彼は、それが羨ましかったわけですよ。私は、自分の生き方も、暮らしも、生計をたてるのも、着る物も、食べる物も、全部自分で決めて自分の人生を生きていたんです」
自前の人生である。三島は違った。
■ジーンズをはきたい、革ジャンを着たい
お行儀がいいから、頭髪は七・三に分けてポマードをつけ、背広にネクタイ姿だった。それで美輪の服装を“田舎モダン”だとか目茶苦茶に言う。
「あなただってお召しになりたいものがあるでしょう。なさりたい格好がおありでしょうよ。どういう格好なさりたいの、本音は。いつまでも背広にネクタイばかりじゃないでしょう」
すると、素直になって、ジーンズをはきたい、と言う。
それで一緒にアメ横に行って、ジーンズを買い、革ジャンを着たい、と言うので、革ジャンも求めた。
それから、剣道をやりたいとか、スターの気分を味わいたいとか、ありとあらゆることをやり始めた、と美輪は指摘する。
「生まれることから、生活から、なにもかも与えられた人生から、今度は逆に自分が選ぶ能動的な人生に変わっていったんです。そして、『死さえも与えられてはかなわない』と思ったんですね」
なるほどとストンと腑に落ちる美輪の三島論だった。
「生は与えられたものだけれど、死こそは自分が選んでやる」と、受け身の人生から能動的な人生に変わった、と美輪は言う。
■300本のバラ
美輪によれば、三島は「特に文壇には友だちはいない」と言っていたのに、亡くなったら、雨後の竹の子のように“心の友”が出てきた。有名になったら突然現れる親戚のようなものである。
美輪が日劇で公演中に、三島は300本のバラを抱えて現れた。最後の別れだったのだろう。それとは知らずに美輪は言った。
「なんなの。こんなにたくさん」
それに三島は返した。
「もう、きみの楽屋には来ないからね。いろいろとありがとう。感謝している」
美輪の演じた『黒蜥蜴』への感謝だと美輪は思ったのだった。
これから先の分もあった300本のバラに美輪はあわてて、付き人にバケツを借りに行かせ、2杯のバケツにそれを入れた。
「ご冗談ばっかりで、ほんとうにかわいらしい人でしたよ」
そう結論づける美輪は、ノーベル賞をもらいたがった三島に、こんなタンカも投げつけている。
「あんなノーベル賞なんて、何だとお思いになってるの。あれは爆弾つくった人の、罪ほろぼしの賞ですよ。
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佐高 信(さたか・まこと)
評論家・作家
1945年山形県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。高校教師、経済誌編集長を経て執筆活動に入る。著書に『逆命利君』『城山三郎の昭和』『田中角栄伝説』『石原莞爾 その虚飾』『玉木、立花、斎藤、石丸の正体』、共著に『安倍「壊憲」を撃つ』『自民党という病』『官僚と国家』『日本の闇と怪物たち 黒幕、政商、フィクサー』『この国の危機の正体』『お笑い維新劇場』など多数。
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(評論家・作家 佐高 信)

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