現在は世界的なブランドでも、元は日本の片隅で生まれた小さなブランドに過ぎなかった。「日本の養殖真珠は偽物」という逆風に負けず、御木本幸吉は、いかにして「世界のMIKIMOTO」を育てていったのか――。

※本稿は、中野香織『「イノベーター」で読む アパレル全史【増補改訂版】』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
■セールスマンの資質に恵まれた御木本幸吉
真珠といえば「MIKIMOTO」、それほど世界に名声がとどろいている。錚々たるジュエラーが並ぶパリのヴァンドーム広場にも店を構える「世界のMIKIMOTO」の地位は揺るぎない。その創業者の物語は、現代に生きる私たちを鼓舞するエピソードに満ちている。
御木本幸吉は1858年、現在の三重県鳥羽市でうどんの製造・販売を営む家に生まれた。幼い頃から、うどんで富を成すのは無理と悟り、14歳ですでに青物の行商を始めている。足芸(足の指に扇子を挟んだり、足の平で傘を回したり)を披露して客を呼び、イギリスの軍艦に商品を売り込んだ。当時からセールスマンとしての資質は抜群に高かったようだ。
20歳で家督を相続。同年、天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの貿易商品になると見込み、海産物商人へと転身する。海産物の一つがほかならぬ真珠であった。世界の市場では、天然真珠が高額で取引されており、全国のアコヤ貝は乱獲によって絶滅寸前だった。
この事態を憂慮し、幸吉はアコヤ貝の保護と増殖、真珠の養殖を決意する。1890年に神明浦と相島(現在のミキモト真珠島)の2カ所で実験を開始した。
■世界で初めて半円真珠の養殖に成功
1893年、世界初の半円真珠の養殖に成功した。相次ぐ赤潮の被害や資金難を乗り越えての成功だった。まだ半円ではあったが、人為的に真珠をつくり出せるようになった。
1896年、真珠素質被着法の特許権取得。この半円真珠の特許の取得により、幸吉は他の事業を整理して、真珠事業に専念する。
1899年には銀座に日本で初めての真珠専門店「御木本真珠店」を開く。これが日本における近代宝飾産業の礎となった。
1905年、真円真珠の養殖に成功、1916年に真円真珠の特許を取得する。半円真珠の成功から実に干支一回り分、経過していた。ほかならぬこの粘り強さこそ、幸吉の成功の鍵である。
2カ所に養殖場を作ったのは、どちらかが赤潮でだめになったときのバックアップである。楽天家で知られた幸吉だったが、そうした慎重さも兼ね備えていた。
■MIKIMOTOのグローバル展開
1905年に明治天皇に拝謁したとき、「世界中の女性の首を真珠で締めてごらんにいれます」と豪語した幸吉は、その「法螺」を「ウソ」にしないために、世界戦略を積極的に進めていった。
1893年、シカゴでのコロンブス万国博覧会に出展したことをはじめ、1937年のパリ万国博では「矢車」を、1939年のニューヨーク万国博では「自由の鐘」を披露している。後者は真珠を1万2250個、ダイヤモンドを366個使って作られた壮麗な作品である。
世界展開のための「ミキモトスタイル」には特徴がある。ヨーロッパのデザインを、「金工」をはじめとした日本の伝統的な技によって形にするのである。洋の美と和のテクニックの絶妙な融合。素材調達、デザイン、製造、販売まで一貫体制を持つ、世界でも数少ないジュエリーブランドだからこそ、なしえたことでもあった。
また、ビジネスにおいては1913年、ロンドン支店開設を皮切りにニューヨーク、パリなど国際的に事業を展開し、世界中にミキモトパールを供給し、養殖真珠の代名詞として、日本の文化として、その名を浸透させていくのである。
■優れた社交センスで「日本人」のイメージを変えた
有名人を利用した売り込みも巧い。1927年、幸吉は欧米視察の際に、発明王エディソンにミキモトパールを贈っている。
エディソンから幸吉への手紙には次のように書かれている。
「これこそ、真の真珠です。私の研究所で作れなかったものが2つあります。1つはダイヤモンド、もう1つは真珠。あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明し完成されたことは、世界の脅威です」
幸吉の社交センスも欧米でのビジネスを後押しした。たとえば、次のようなエピソードが残る。欧米視察の際、「真珠は霊薬と聞くが、本当か?」という質問を受けた。それに対し、幸吉は、「そうでしょう。特にご婦人の病気なら真珠の首飾りでたちどころに治ります。ヒステリーには一等の妙薬と存じます」と答えて喝采を浴びている。いまなら問題発言になりかねないが……。
また、誤って真珠を飲んでしまったご婦人に「心配ご無用。
きっと、男の子をさずかるでしょう」と声をかける。後年、夫妻が男の子を連れて幸吉を再訪すると、幸吉はその子を「パール!」と呼んだという(※1)。
こうした数々のユーモアにより、生真面目だと思い込まれていた日本人のイメージを大きく変えた。

※1 出典:『真珠王からのメッセージ 御木本幸吉語録』(御木本真珠島)、2005年
■真珠裁判で苦境に
とはいえ、世界でのビジネスは順風満帆だったわけではない。それどころか養殖真珠は世界中の宝飾業界から大バッシングを受けるのだ。それはそうだろう。無尽蔵に作り続けることができる安価な養殖真珠によって、天然真珠のビジネスは苦境に立たされることになったのだから。
1921年、ヨーロッパでは御木本の養殖真珠は「ニセモノ」扱いされる。ロンドン商工会議所の宝石業セクションが公式声明を出す。「日本の『養殖(cultured)』真珠を真珠として故意に販売した人物は、虚偽記載の罪で起訴されることになる」と。フランスでも、激しい排斥運動が起きる。パリ商工会議所は、「養殖真珠の発明を放棄するなら報酬を出す」とまでいう。

アメリカでは、「日本の真珠をつけると皮膚病になる」というデマまで流れる。
こうした逆境にも負けず、粘り強く闘うのが御木本幸吉である。御木本のパリ代理店は屈せず、フランスの行政官庁に輸入禁止の不当を訴え、裁判で訴訟合戦を繰り返した(1927年まで排斥運動は続く)。
最終的に、科学者が擁護した。オクスフォード大学のリスター・ジェイムソン教授、ボルドー大学のルイ・ブータン教授が、「日本の養殖真珠は本物」であると是認した。
■日本の養殖真珠の復権
ミキモトは真珠裁判に勝利したものの、ヨーロッパの真珠商からは依然として嫌われる。1929年のウォール街の株価大暴落を受けて1930年に「パールクラッシュ」が起き、天然真珠の価格が85%下落したのだ。欧米の天然真珠市場は壊滅する。欧米の宝石店が養殖真珠に嫌悪感を示したのも無理はない。
ティファニーやカルティエが日本の養殖真珠を扱うのは、1955年以降である。映画『ティファニーで朝食を』では主演のオードリー・ヘップバーンが、リトル・ブラック・ドレスにふんだんに真珠を使ったネックレスをつけている。50年代の女優はポートレートに真珠とともに写っている。
マリリン・モンローはメジャーリーガーのジョー・ディマジオとの新婚旅行で日本を訪れ、ミキモトで真珠を購入していった。
■「真寿」を残してこの世を去る
第二次世界大戦中、「贅沢は敵だ」のスローガンのもと、真珠の輸出は禁止され、国内販売も禁止される。そのような厳しい状況のなかでも、幸吉は軍に一切の協力をしなかった。「戦争になりました。真珠は平和産業だから禁止されます。しかし、私は真珠でやってきたからこれを変えない。軍需産業はしません」と宣言し、赤紙(召集令状)が来た従業員に対しては、「戦争をしているのは人間や。貝は戦争をしていない。元気で帰って来いよ」と勇気づけた。苛酷な時を耐えぬいた戦後、幸吉は国際親善のため、以前にもまして精力的に活動した。
そして1954年、御木本幸吉、96歳で大往生を遂げる。「真寿」という直筆の毛筆が残っているが、真珠に生涯を捧げた一生を表すのに実にふさわしい二文字である。
その後もミキモトは「ブライダルには真珠」という新しい「常識」を作ったことをはじめとし、斬新なマーケティング戦略を続け、国内外で躍進を続ける。創業者の不屈のチャレンジ精神は、現在のミキモトにも脈々と生きている。
2012年、世界ラグジュアリー協会が発表する「世界で最も価値のあるラグジュアリーブランド トップ100」において、日本から唯一、ミキモトが選ばれた。
メンズパールの先駆者として2020年代のジュエリートレンドを牽引したのも、ミキモトである。コム デ ギャルソンとの協業を通じてパールのジェンダーレス化に成功したのだ。さらに、パリ・オートクチュールと連動する形で発表するハイジュエリーは、伝統技術に現代的感性を融合させた表現力で世界の注目を集めている。
老舗でありながら、時代の先をゆく先進性が、今日のミキモトを唯一無二の存在たらしめている。

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中野 香織(なかの・かおり)

作家、Kaori Nakano 代表取締役

イギリス文化、ダンディズム、ファッション史、モード、英王室、ラグジュアリー領域に関し研究、著述、講演。企業の顧問。東京大学文学部・教養学部教養学科(イギリス科)卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学国際日本学部特任教授、昭和女子大学客員教授を歴任。

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(作家、Kaori Nakano 代表取締役 中野 香織)
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