※本稿は、井上裕『稲盛和夫と二宮尊徳 稀代の経営者は「努力の天才」から何を学んだか』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■KDDIの最高顧問、京セラでも名誉会長に退いていた
KDDIの最高顧問に就き、京セラでも名誉会長に退いていた稲盛に日本航空(JAL)の再建話が持ち込まれたのは、JALが会社更生法の適用を申請する2010年1月の少し前、2009年秋頃のことだった。
この頃、日本の政局は大転換のさなかにあった。自民党は麻生太郎内閣で臨んだ解散総選挙で歴史的敗北を喫する。自民党は300あった議席を181減らして119議席に激減。鳩山由紀夫率いる民主党(当時)は逆に193人増えて自民の解散議席を上回る308議席を獲得した。1955年の結党以来、自民党が初めて第一党の座を失う大逆転での政権交代だった。
麻生内閣は1年しかもたなかった短命政権だ。ともに政権投げ出しと批判された第1次安倍晋三内閣と、それに続く福田康夫内閣の後を受けて発足し、もともと選挙管理内閣の色合いが強かった。国会は衆参両院でねじれており、麻生を内閣総理大臣に選ぶ首班指名選挙で参院が指名したのは民主党代表の小沢一郎だった。
日本では公設秘書の逮捕を受け、小沢が民主党代表を辞任。内紛が表面化した民主党は総選挙の3カ月前にようやく鳩山を新代表に選出するどたばたぶりを見せていた。稲盛が破綻状態にあったJAL再建を引き受けたのは、こうした政治、経済とも極めて不安定な状況下だった。
■当初は再建の申し出に二の足を踏んだが…
稲盛にJAL再建を依頼したのは鳩山内閣で国土交通相に就任した前原誠司(現・日本維新の会共同代表)だ。前原は京都生まれの京都育ち。京都大学を卒業後、松下幸之助が晩年開いたリーダー育成のための私塾、松下政経塾に入り、政治家を目指した。
前原は国交相に就任するや、国交省が麻生政権末期になんとかまとめたJAL再建策をいきなり白紙に戻す。当時の民主党は内部はガタガタなのに選挙の圧勝に浮かれ、前政権がやったことは全部ぶち壊すといった勢いだった。さすがの稲盛も、政治にぐちゃぐちゃに揉まれ、明日をもわからなくなっていたJAL再建に二の足を踏み、当初は前原の申し出を固辞した。
しかし、稲盛は年が明けた2010年1月、再建を引き受けると前原に伝えた。
JALが東京地裁から更生手続きの開始決定を受けた時のグループの負債総額は2兆3200億円。
■国内線・国際線での営業を続けながらの立て直しが前提
稲盛はこの瀕死の巨大企業の再建請負人をなぜ引き受けたのか。それを巡っては様々な理由が挙げられている。
まずは前原、民主党との関係である。経営者として松下幸之助を師と仰いでいた稲盛は、京都が選挙区の前原をかねて支援していた。自民嫌いと言うより、政権交代が可能な政治が国づくりには必要と考え、以前から小沢とも親交を保っていた。いかに民主党がよちよち歩きの政党だとしても、ここは民主を支えるためにもJALを再生せねばならない。
だが、経営を預かる以上は成算がなくてはならない。
JALが法的整理に踏み切り、企業再生支援機構と日本政策投資銀行から、事業継続に必要な資金を確保するための融資枠が設定されたことが大きかった。金融機関の債権放棄と公的資金の投入。
■どこまでも競争主義者らしい行動だった
JALに代表取締役会長として乗り込む前、稲盛は自身が率いる再建チームにこう明かしている。
「これならいける。あとは京セラフィロソフィーとアメーバ経営を徹底的にJALに浸透させる。それだけだ」
国際線という営業の現場がなくなれば、アメーバ経営を導入する再生機会そのものが縮小し、ナショナルフラッグは全日本空輸(全日空)の1社独占にならないとも限らない。それでは競争原理が働かず、日本のためにならない。通信自由化の旗を振った、どこまでも競争主義者らしい稲盛の行動だった。
稲盛自身は航空業界で門外漢だった自分が再生を引き受けた理由について、自著『燃える闘魂』(毎日新聞出版刊、2013年)でこうも語っている。
「日本航空が再建できず、二次破綻でもすれば、日本経済に多大な影響を与えるだけでなく、日本国民もさらに自信を失ってしまうのではないかと危惧した」
■「日本人の心の再生」が動機に
日本経済はバブル崩壊後の失われた20年のさなかにあり、リーマンショックがそれに拍車をかけていた。逆に、再建が実現できれば、日本経済再生の自信が国民の間に生まれるはずだ。
いつもの「動機善なりや」の自問で、日本人の心の再生というこれまでの稲盛の人生にはなかった動機にたどり着いた。
稲盛がJAL再建に着手した時、会社更生法適用を受けた再建策ですでに1万2000人の人員削減が決まっていた。それまでの企業買収で1人の人員削減もしなかった稲盛にとって、断腸の思いだったことは想像に難くない。
こうして稲盛のJAL再建は始まるが、この時、稲盛は78歳になっていた。普通は受けない話だったのだろう。過去に大病もしていた。私にはここまで挙げてきた理由のほかに稲盛にはもう1つ、本能にも似たやる気が芽生えたのではないかと思う。
稲盛は松風工業でニューセラミックスの開発を任された時から、何事もど真剣にやらないと気が済まない性(さが)が身についていた。京セラも第二電電も企業買収もすべてがそうだった。前述したように、ど真剣とは狂おしいほどにそのことに打ち込む、朝から晩まで1つのことを考える究極の精神の集中を指す。ど真剣を稲盛は「潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を持つこと」と定義したこともある。
■「ど真剣」に取り組む最後の仕事
JAL再建という不可能にも思われた巨大なテーマが目の前に現れた時、稲盛の魂は打ち震えたのではないか。
稲盛はJALにかかわる6年前の2004年、それまでの哲学、思想をまとめた名著『生き方』を上梓している。2年後の2006年には『アメーバ経営』(日本経済新聞社刊)を発刊。自身の経営メソッドをすべて注ぎ込んだ書籍を世に送り出した。
こうした著作と講演で思いを伝え、社会貢献の盛和塾と京都賞を発展させれば、残りの余生は家族とともに――。そう考えていたであろう稲盛に、時代はそれを許さなかった。
取り組むことが困難で達成が難しいほどそれを意気に感じる。しかも、ど真剣にやる。生きがい。稲盛は最後までそういう人だったと思う。
JALは2年後の2012年3月期に破綻前を含めて過去最高の2049億円の営業利益を叩き出す。同年9月には上場廃止からわずか2年8カ月での再上場を果たした。
----------
井上 裕(いのうえ・ゆたか)
ジャーナリスト
1957年東京生まれ。82年早稲田大学第一文学部卒、日本経済新聞社入社。東京社会部、長野県松本支局、産業部、欧州総局(ロンドン)特派員などを経て、2005年『日経ビジネス』編集長。その後、産業部長、証券部長、電波本部長などを歴任し、2013年制作担当としてBSジャパン(現・BSテレビ東京)取締役に就任。テレビ東京メディアネット代表取締役社長、テレビ東京顧問などを歴任。新聞記者時代から稲盛和夫氏を長く取材してきた。
----------
(ジャーナリスト 井上 裕)