■都市の無差別爆撃は事実上の大量虐殺
8月15日に終戦80年を迎えるが、戦争最後の年となった1945(昭和20)年、日本中が米軍機による空爆を受け、67の都市が焼け野原になった。原子爆弾が落とされた広島と長崎を除けば、主に使われたのは焼夷弾だった。これは簡単にいえば、攻撃目標を効率よく焼き払うために、ガソリンなど燃焼力の高い物質を詰め込んだ爆弾だった。
そんな爆弾による都市の無差別爆撃は、計り知れない甚大な被害をもたらした。毎日新聞の調査では、太平洋戦争末期に大規模空襲があった107の自治体が把握しているだけで、原爆を含む空襲の犠牲者は38万7000人におよぶ。一般には60万人ほどが犠牲になったといわれ、原爆による犠牲者が20万人超だとすれば、焼夷弾による犠牲者は40万人ほどということになる。
この非人道的な爆弾による被害は、人的なものだけではなかった。世界遺産級のものも含め、貴重な歴史的、文化的な遺産も数知れぬほど失われた。
焼夷弾による都市の無差別爆撃は、どうひいき目に見ても、事実上の大量虐殺と捉えるほかないが、そんなことがなぜ、堂々と行われることになったのだろうか。
■無防備な都市への空爆は禁止だったが
第1次大戦後のワシントン会議で定められた「空戦規則」では、非戦闘員である一般市民を対象にした空爆は禁止された。それは条約化こそされなかったが、第2次大戦の勃発時には、各国の指針として機能していた。
1938年9月には国際連盟総会が「戦時における空爆からの保護」を決議し、アメリカのルーズベルト大統領も1939年9月、市民や無防備な都市への空爆を行わないように、各国に確認を求めている。
きっかけはドイツ空軍の行動だった。1940年5月にオランダのロッテルダムを100機の爆撃機で襲い、爆弾と焼夷弾で市の中心部を壊滅させた。これに反応したのが対岸のイギリスで、英空軍はドイツ最大の工業地帯、ルール地方を爆撃。その際、軍需産業の攻撃が目標とされながら、都市の爆撃もやむをえないと、暗黙に了解がされていたという。
その後、英独で報復の応酬が重ねられつつ、都市の無差別爆撃が常態化していった。とくに当時の爆撃機は、目標の発見も、目標に正確に爆弾を落とすことも困難だったので、爆撃の精度が問われない「地域爆撃」という名の無差別爆撃に傾注していくことになった。英空軍もチャーチル首相に地域爆撃の強化を進言している。
その後の日本への空爆につながる実践が、1942年5月のケルン爆撃だった。爆弾と焼夷弾で都市を焼き払い、消防や救護活動も無力化しようという試みで、915トンの焼夷弾と840トンの爆弾が落とされた。
■アメリカが「虐殺」を許容した契機
1941年の日本の真珠湾攻撃を機に日独伊に宣戦布告したアメリカは、当初は軍事目標に対する精密爆撃を選択すべきで、焼夷弾による地域爆撃は国策に反すると主張していた。だが、1943年7月、ハンブルクを対象にした英米の最初の合同作戦が、米空軍の「方針」が変わる契機になったようだ。
アメリカは昼間の精密爆撃を行ったが、ごくわずかしか破壊できずに、19機が撃墜された。一方、夜間に行われたイギリスの地域爆撃では、焼夷弾による火災が短時間に人口密集地に広がり、全ブロックを燃え立つ地獄に変えたという。結局、約21平方キロメートルが焦土と化し、死者数は4万2000人に上った。
以後、1943年11月には、アメリカのアーノルド陸軍航空隊司令官は、目標の目視が困難な場合は地域爆撃もよしとした。これを受け、1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸後、ドイツの無防備な都市に大量の高性能爆弾と焼夷弾を投下する作戦を計画。1945年2月のベルリン、ドレスデンへの大規模な空爆につながった。
その流れの延長に、同年3月10日の東京大空襲があるのだが、実は、アメリカはかなり早い時期から、日本を焼夷弾で攻撃する計画を立てていた。
■日本家屋を効率よく焼き払うために
マーシャル参謀本部長はすでに開戦前の1941年11月、日本の都市を焼夷弾攻撃する構想を述べていたし、アーノルド司令官は1943年2月、作戦分析委員会(COA)に、日本を空爆する際の目標を検討するように指示していた。
アーノルドが同年8月にまとめた「日本敗北のための空戦計画」には、日本の都市へ大規模で継続的な焼夷弾攻撃について記されていた。その際、速度、航続距離、爆弾搭載量などが、在来の重爆撃機の比ではないほど向上したB29の使用が前提だった。
また、焼夷弾に関する綿密な実験が重ねられた。日本建築に精通した建築家アントニン・レーモンドが実物大の日本の長屋を、内部の家具や布団、座布団などまで正確に再現し、焼夷弾がどのように効力を発揮するかが試された。
日本の木造家屋を効率よく焼き払うために開発された焼夷弾で、断面が六角形で長さが50センチほどの鋼鉄製の筒に、超高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた布袋を詰められていた。これをいくつも束ねた状態で、約1000メートルの高度から投下する実験が重ねられ、M69が日本の家屋にきわめて有効なことが実証された。
■「地獄をひきおこせ」
この実験結果が記されたのが、1943年10月15日付の『焼夷弾攻撃資料』で、そこではドイツより日本のほうが焼夷弾攻撃に適するとされ、理由が次のように書かれていた。「日本の住宅の構造が非常に燃えやすいこと、都市の建造物の稠密度がきわめて高いこと、日本では工場と軍事目標が住居地区に隣接していること、少数の都市に軍需産業が集中していることである」(荒井信一『空爆の歴史』岩波新書)。
そして、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸という6都市が焼夷弾攻撃の対象として選ばれ、翌月に作戦分析委員会(COA)が報告書を出した。そこには、日本の住宅が戦争資材の供給に貢献している仕事場だから、攻撃対象になりうる旨が記され、それをアーノルド司令官は受け入れた。
そのころは前述のように「軍事目標に対する精密爆撃を選択すべき」というアメリカの「国策」が、ヨーロッパ戦線を通して形骸化していた。COAは翌年10月の追加報告書で、日本の本土空襲作戦において都市工業地域は、航空機産業に続く第2目標だと定めた。
報告書が出される前月のCOAの会議では、「6都市の住民58万人を殺したときの完全な混乱状態」について論じられ、ウィリアム・マックガヴァン戦略情報局長は、都市の焼夷弾攻撃を支持して、「地獄をひきおこせ、東京をやっつけろ。そして国中の日本人に参ったと言わせろ」と発言している。
■2時間半で死者数10万人以上
さて、小規模な空襲が重ねられたのち、1945年3月10日の東京大空襲へと至った。
2時間半にわたる攻撃で、焼失した家屋は27万戸余りで、推定死者数は10万人以上、負傷者40万人以上。さすがにアメリカにも、人道的な観点から問題視する意見が、とくに文官の最高指導者のあいだには強かったようだ。
しかし、M69焼夷弾の開発に深く関わった科学研究開発局顧問のR.H.イーウェル博士は、ヴァニーバー・ブッシュ科学研究開発局長官に「日本の都市を焼夷弾攻撃することが、日本の降伏を早めるために重要だ」という覚書を渡し、ブッシュがそれをアーノルド司令官に送り、アーノルドは攻撃を促した。
そして、アーノルドの部下であるカーチス・ルメイ少将がB29の出撃を命じた。ルメイは、原爆の開発費を上回る約30億ドルを投じてB29を開発させた当事者だった。それだけに結果を出さなければならないルメイは、B29の侵入高度を、テスト時の8500~9500メートルから1500~3000メートルに下げた。
そのほうがエンジンの負荷がなく燃料が少なくて済み、爆弾もより多く搭載できるし、正確に命中させやすい。だが、迎撃される危険も増すので、昼間の予定を夜間攻撃に切り替えたのである。
■「焼夷弾攻撃に意味はない」という真実
その後、ほかの都市の空爆もルメイの発案にのっとって、基本的に夜間に行われた。
アーノルドは5月24日の第2次東京大空襲が無差別爆撃だった理由を、スティムソン陸軍長官から尋ねられ、次のように答えたという「日本はドイツと違って工場が集中しておらず反対に分散して小さく、しかも従業員の居住地域とくっついている。
要するに、工場のマンパワーを削ぐために、工場労働者もその家族も近隣の住人も、みな家屋ごと焼き尽くす必要がある、という主張である。
1940年6月の時点で米戦略爆撃調査団は、日本の戦争遂行能力を奪うのに一番効果的なのは輸送施設への爆撃で、都市の焼夷弾攻撃にはあまり意味がないと主張していた。そのとおりであったことは、戦後、調査団として東京に滞在したトーマス・ビッソンが証言し、本土爆撃よりも輸送の破壊にこそ効果があったことは、「分析にあたった者たちがほぼ一致した点」だったと述べている。
だが、ルメイは焼夷弾攻撃の成果を強調し、さらなる都市の空爆を計画し、上司のアーノルドはそれを認め、日本中の都市が焦土と化していった。
戦争を止めなかった日本の軍部が愚かだったのは、いうまでもない。だからといって、非人道的な爆弾による民間人の大量虐殺が許されてよかったわけがない。しかも、米軍内の意地の張り合いで、「効果がない」虐殺が行われたのだとしたら――。80年を過ぎてなお、悔しくて仕方がない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)