※本稿は、戸高一成『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■「アメリカにもない巨大戦艦」という発注
のちに「大和」と命名される巨大戦艦の建造が、広島県の呉海軍工廠で始まったのは、昭和12年(1937)である。その構想が始まったのは、昭和8年(1933)のことだ。
大正11年(1922)に締結されたワシントン海軍軍縮条約で、日米英仏伊の五カ国は主力艦建造を10年の間休止することとした。それはロンドン海軍軍縮条約で延長され、昭和11年(1936)に失効することとなったが、それを見越して、日本海軍の軍令部は、新戦艦の検討に着手したのだ。
海軍は国防において、伝統的に主力艦隊による決戦を指向していた。そして、アメリカを敵国と想定したとき、「国力で劣るため、互角の艦隊をつくるのは難しいが、個々の海戦で負けないようにすることは可能だ」という結論に至った。要するに、「武力衝突の正面に於いて、絶対に負けない戦艦をもっていれば、国防は全うできる」と考えたのである。
では、負けない戦艦とはどういうものか。
日露戦争の勝利体験に基づく大艦巨砲主義、すなわち大型戦艦を重視する考えから導き出された答えは、「世界最大の大砲を備え、アメリカ海軍にもない巨大戦艦」であった。新戦艦の基礎的な要求は、未来の海軍のあり方や海戦を想定して、軍令部がまとめる。
「巨大戦艦」の構想に携わった軍令部の松田千秋中佐は、「主砲は46センチ砲を8門以上、速力は30ノット以上」という性能を求めた。
この基本計画に基づき、具体的な設計をしたのは、呉海軍工廠で設計主任を務めていた牧野茂造船中佐である。
戦艦から特攻艇の「震洋」まで、多くの海軍艦艇計画、設計に関わった牧野氏は、「軍艦設計の神様」と称された平賀譲の一番弟子とみられていた逸材で、軍令部と艦政本部が掲げた「理想」を、「現実」と擦り合わせながら設計した。
■3代目艦長の「誇りを感じた回答」
こうして建造が始まった戦艦「大和」は、昭和16年(1941)日米開戦直後に竣工。翌年から連合艦隊の旗艦となった。艦政本部のチームには、若手の松本喜太郎造船大尉が加わっていた。
牧野氏から聞いたところによると、それは「将来を考えた人事だ」という。
「次の世代の戦艦を計画するとき、一つ前の戦艦の基本計画で中心となった人は、年齢からいって、現場にいません。ノウハウを継承するために、若い人を入れるのです」
松本氏はその後、大和に関わる仕事はほとんどしていないが、秘蔵していた大和の資料を戦後に上梓し、後世に残した。世界最大の戦艦建造に携わった福田、松本、牧野といった海軍造船官たちは、誇りをもって作業にあたり、大和への思い入れも深かった。
なお、軍令部員として関わった松田千秋氏は、昭和17年(1942)、3代目の大和艦長に就任している。松田氏の自宅にうかがったことがあるが、「自分が計画した戦艦の艦長に着任して、どんな気持ちでしたか」と尋ねると、「気持ちよかったよ」と答えたことが印象に残っている。
■「存在しない砲弾」を防御する性能があった
ワシントン海軍軍縮条約の失効後、戦艦建造が止まっている間に蓄積したノウハウを使って、各国が一斉に戦艦を開発する時代に入った。
だが、その中に、戦艦大和以上の性能をもつ戦艦はない。ただ、大和はオーバースペックだったともいえる。たとえば、主砲は46センチ砲を3連装3基で9門備えていたが、40センチ砲にすれば、4連装3基で12門を装備できただろう。
防御面では、46センチ砲による攻撃を受けると想定していたが、当時世界の戦艦では最大でも40センチ砲だった。それにあわせれば、防御に使う資材の重量を減らすことができ、防御も強化でき、スピードもより速くできたはずだ。
この点について、基本計画のスタッフだった松本喜太郎氏に、直接聞いたことがある。「アメリカは大和が46センチ砲とわかったら、すぐに追いかけて、つくるだろう」と彼は話したが、そうであったとしても、計画から完成まで4、5年はかかる。大和と武蔵を除き、世界中のどこにもない大砲に対する理論優先の防御性能は、現実と擦り合わせるべきだったと思う。
■とにかく大砲さえ機能すればよかった
大和への批判として、航空戦が主流となりつつある中で、航空母艦ではなく戦艦を建造したことを疑問視する向きもある。しかし、建造当時はまだ、世界中の海軍は航空戦力を補助戦力と位置づけていた。
アメリカもイギリスも、空母は船団護衛や潜水艦への哨戒がメインであり、空母の戦力だけで大作戦を行なう発想はまだない。
また、大和の対空兵装が不十分という批判は、視野狭窄(きょうさく)の指摘だと考える。戦艦が、たった一隻で敵のいる海域を航行することはあり得ない。グループとして動く艦隊の中では、大和は「砲戦担当」のポジションであり「対空戦闘担当」となる防空巡洋艦と防空駆逐艦を周囲に配置する前提なのである。
戦艦としての本質からいえば、大和は大砲だけでかまわなかったのである。航空主兵論者だった源田実は、万里の長城、ピラミッドになぞらえ、大和を「無用の長物」と見なしたが、万里の長城もピラミッドも、現在は世界遺産である。
それらと同様ならば、大和も世界遺産になる資格があるのかもしれない。
■一流が作っても、三流が使うのなら意味がない
日本海軍は、太平洋戦争後半の昭和19年(1944)の段階でも、日本海海戦のような艦隊決戦があると考えていた。
真珠湾攻撃もマレー沖海戦も、その露払いにすぎず、アメリカの戦艦部隊が決戦を挑んできたときが「真打ち登場」であり、それまでは「強い艦を温存する」というのが基本的な戦略であった。そのため戦艦大和は、海戦に投入されず、待機させられたことが多い。
しかし、真珠湾攻撃とマレー沖海戦によって航空機が主力となるとわかった時点で、大和を個々の作戦で使うべきだった。
日本は、つくる能力が世界で一流に近いレベルにあり、それを実際に用いる現場の人にも、使う能力が十分にあった。だが、それを「戦略的にどう使うか」を決める戦略的指導の能力が劣っていたとしかいえない。
日本海軍は、ソロモン海戦で金剛、霧島といった古い戦艦を出したが、大和、武蔵を投入していたら、金剛や霧島のように沈むわけがなく、相応の戦果を期待できた。竣工までの大和は、合格点。使い方に関しては、残念ながら落第点といっていいだろう。
■海軍のあり方を歪めてまで実施した“異例の作戦”
「戦艦同士の決戦」を考えていた軍令部と連合艦隊は、昭和20年(1945)4月、温存してきた戦艦大和を、沖縄への特攻作戦に投入することを決める。
これに異を唱えたのは、第二艦隊司令長官の伊藤整一だった。連合艦隊が実戦部隊に与える命令は、本来、目的を示すものであり、戦術的な手段の選択は現場の艦隊が決める。つまり、制度上は「こういう作戦でやれ」とか「特攻しろ」とは、上から指示はしない、各艦隊にも幕僚が居て、作戦を計画するからだ。
そのため、連合艦隊は草鹿龍之介参謀長を大和に派遣し、直接、伊藤を説得するという異例の対応を取った。
しかしながら、この作戦が決定された経緯は、いまだにはっきりしない。及川古志郎軍令部総長が航空特攻を奏上したときに、昭和天皇から「航空部隊だけか」あるいは「艦艇はもうないのか」というようなことを聞かれ、これを過度に忖度し、残っている軍艦を出すことに決定したというのが通説だ。
ただ、きちんとした記録はなく、今後、さらなる検証が必要である。とはいえ、決定したのが軍令部と連合艦隊だったことは明らかだ。
■「海軍>国家」という異常な発想
当時の連合艦隊司令長官・豊田副武の回想録からは、あまり乗り気ではない様子がうかがえる。参謀長の草鹿にいたっては、九州に出張中で「知らなかった」「決まっていると電話があり、心外だった」と書いているから、軍令部が主導したようにも見える。
だが、連合艦隊側に問題がなかったわけではない。大和の出撃に向けた連合艦隊の訓示には、「光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆(後世)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ」、そして「皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ」とある。これは順序が逆だ。海軍の栄光よりも「国のため」が先にこなければいけない。
戦後、日本海軍を「海軍あって国家なし」と批判する声があったが、誠にその通りで、これは日本海軍の「最後の汚点」である。
第二艦隊司令長官の伊藤整一は、「戦艦大和の沖縄特攻は、戦術的に効果がない」とわかって出撃した。そのため、彼が、「特攻作戦であるからには、ここが死に場所だ」と考えていたことは間違いない。同時に、「死ぬにしても、何らかの成果を残して死にたい」という思いがあったはずだ。
■なぜ「真昼間の特攻」を選んだのか
明文化された計画書が残っていない上に、戦闘詳報(作戦後の報告書)にも記述はないが、「日本海軍の最後の戦いを見せつけるために、真っ昼間、伊藤はアメリカ軍の攻撃圏に入った」と、私は推測している。
できるだけ多くの艦船を沖縄に送り込むのであれば、アメリカ軍の攻撃圏に入るのは、日没以降が適切だ。日没後に米軍の攻撃圏に入れば、沖縄近海まで到達できる明け方までの間、アメリカの潜水艦や魚雷艇の攻撃は避けられないにしても、夜間の航空攻撃は相手も難しく、無理矢理、航空機を出したところで、大編隊とはいかない。
それにもかかわらず、第二艦隊はアメリカが攻撃を仕掛けやすい時間帯の正午前後に、アメリカ軍の攻撃圏に入った。当時の軍人の胸中を慮ると、「日本海軍の最後の戦いだから、大和を暗闇の中で沈ませたくない。アメリカ軍に、大和の戦いをしっかりと見せたい」という気持ちがあったのではないだろうか。
大和はアメリカ軍の航空攻撃を受け、2時間強で沈むが、艦が50度ほどまで傾くと、伊藤は作戦中止を命じた。第二艦隊を沖縄に送る目的の一つは、「大和の大砲で敵艦を撃つ」ことであり、大和が沈没すれば、それを果たすことはできない。だが、作戦を中止しなければ、沖縄に着く前に第二艦隊の全艦が沈むことになる。
■大和の「効果的な使い道」はあったのか
「これ以降は無駄死にとなる」という、ごく普通の判断を、伊藤は下したのだろう。残念なのは、「特攻作戦」を命じながら、海軍が戦死者を特攻扱いしなかったことだ。特攻の戦死は、2階級特進以上である。ところが、この坊ノ岬沖海戦での戦死を理由に2階級特進した者はいない。
「伊藤が作戦中止を命令したから、特攻ではなくなった」との理屈かもしれないが、中止前に戦死した人間も特攻として扱っていない。それまでの特攻戦死は、一度の出撃につき数人から数十人単位だったが、坊ノ岬沖海戦は数千人単位にまで増えた。
あくまで憶測ではあるが、物資も資金も底をつきかけていた海軍が、数千人の戦死者と遺族へ、特攻戦死者としての対応に躊躇したのではないか。
戦艦大和の特攻に対して、第二艦隊の伊藤長官や幹部など、現場の人間は「もう少し考えるべきではないか」等々、理不尽と捉えていた。第五航空艦隊司令長官として沖縄航空特攻作戦を指揮した宇垣纒にしても、日記に「意味がない」と書いている。
では、大和はどう使えばよかったのか。
昭和19年の段階ではすでに遅いが、使い道があるとすれば、竣工した時点で大和の能力を公表し、アピールし、抑止力として活用するべきだったろう。
■「戦艦による決戦」にとらわれすぎてしまった
軍備の本質的な意味は、戦争をすることではなく、戦争の抑止力にある。
太平洋戦争以前は、戦艦が主力というのが世界の海軍の常識であり、主砲の性能に大きな差があることを、アメリカは無視できなかったはずだ。「孫子の兵法」では、「戦わずして勝つのが最良」とするが、古くからの戦争の定石に従い、「大和と武蔵を有する日本艦隊と武力衝突しても、よいことはない。話し合いで解決しましょう」と、外交ツールに用いるのが「最良の使い方」だったと思う。
ところが、建造当時は「製造能力のあるアメリカは十年ぐらいで追いつく」という危機感から、防諜にはかなり力を入れていた。よくも悪くも、それが功を奏し、日本が巨大戦艦をつくっていることをアメリカはほとんど知らなかった。何らプレッシャーをかけることなく、開戦に至るのである。
なお、「戦艦同士の決戦で勝敗が決する」との常識は太平洋戦争で崩れたが、戦艦の存在意義が失われたわけではない。戦争中、アメリカが戦艦を陸上砲撃に使ったことは、その好例である。島嶼を攻めるとき、戦艦が海上から砲撃し、航空機が爆弾を落としてから、兵が上陸するという戦術を、アメリカは採った。
日本軍の場合、航空機が落とす爆弾は主に250キロ爆弾と500キロ爆弾だが、戦艦は1隻がだいたい1トンの主砲弾を1000発ほど積んでいる。それは戦艦が、1トン爆弾を積んだ千機ほどの爆撃機と、同等の破壊力をもつことを意味する。アメリカは、戦艦同士の砲戦の見込みがなくなった時に、では、どうすれば戦艦の能力を生かせるかを考えたのだ。
「戦艦による決戦」にとらわれた日本は、「戦艦をどのように使ったら有効か」という研究に乏しかったのだ。
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戸高 一成(とだか・かずしげ)
日本海軍史研究者
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学美術学部卒業。「戸高」の「高」は、正式には「はしごだか」。財団法人史料調査会の司書として、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年に同会理事。99年より厚生省(現・厚生労働省)所管「昭和館」図書情報部長。2005年より現職。19年、『「証言録」海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績により第67回菊池寛賞を受賞。著書に『日本海軍戦史』(角川新書)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)、編書に『特攻知られざる内幕』(PHP新書)など多数がある。
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(日本海軍史研究者 戸高 一成)