※本稿は、加谷珪一『本気で考えよう! 自分、家族、そして日本の将来』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。
■一生懸命働いているはずなのに、生活が豊かにならない
このところ、世の中がおかしくなっているのではないか、いろいろなことがうまく回らなくなっているのではないか、という感覚を持っている人は少なくないと思います。しかしながら、その感覚はハッキリ見えるようなものではなく、曖昧で漠然としているのではないでしょうか。
多くの日本人は、真面目に一生懸命働いているはずですが、どういうわけか賃金は上がらず、生活は豊かになりません。一方で、物価は上昇するばかりで、年々買えるものが少なくなっている状況です。
ネットの発達によってワンクリックで簡単に買い物ができるようになり、世の中は便利になったはずですが、思ったほど快適さを実感できているわけではなく、むしろ再配達や送料の問題など、逆に振り回されているという印象すら持っているかもしれません。
ネット通販の世界では、様々なポイントが提供されており、安く買い物できるチャンスがたくさん転がっています。しかし、ポイント制度もよく見ないと細かい条件がついていたりしますから、本当に自分にとってトクなのか、調べれば調べるほど分からなくなってきます。
「初回無料」といったキャンペーンも同じようなものではないでしょうか。私たちはどうしても無料という言葉に惹かれ、時間をかけて手続きしてしまいますが、結局のところ、それは実質的に無料ではなかったりすることもたくさんあります。
■社会に何か大きな変化が起きている
コロナ危機で一時、停滞したとはいえ、LCC(格安航空会社)の発達で海外旅行も便利になりました。
機内の手荷物制限も昔は緩やかでしたが、今は厳格になっており、航空会社によって条件が違ったりしますから、追加料金なしで荷物を機内に持ち込めるのか、毎回不安になっている人も数多くいることでしょう。せっかく便利に世界中を旅する機会が増えているにもかかわらず、何か切迫感のようなものを持ちながら旅行しなければならないというのは本末転倒といえるかもしれません。
社会全体を見渡すと、SNSを通じて雇われた若者が、ごくわずかな金額のために住宅に押し入って人を傷つけたり、最悪の場合には殺すといった事件が起こるなど、私たちの基本生活が脅かされているような感覚すらあります。もっとも、統計的に見れば犯罪の件数は減少基調ですから、数字の上では、日本はより安全で住みやすい社会になっています。
しかしながら、今までの常識では考えられなかった犯罪が多発しているということは、やはり何か大きな変化があると考えざるを得ない面があると思います。
■「不安」「イライラ」は経済環境の変化が関係
何かがおかしくなっているといえば、政治はその最たるものかもしれません。日本における政治不信はもはや最高潮に達しているといえますが、政治とカネをめぐる問題ひとつとっても、基本的に、どうごまかそうかというスタンスばかりが目につき、根本的に解決しようという流れにはなっていません。
経済対策も同じです。近年、円安やそれに伴う物価高など、経済環境が激変していることもあり、政府はガソリン代や電気代の補助などを実施していますが、後追いで対策を立てているに過ぎず、抜本的に私たちの生活をどうすべきなのかという議論は行われていない状況です。いつの時代においても、「今はひどい世の中だ」いうのは、私たち人間の常套句であり、同じ光景が繰り返されているとみなすことも可能です。
しかしながら、少なくとも今の日本に当てはめてみると、一連の社会の変化やそれに伴う漠然とした不安感、イライラ感には、やはり経済環境の変化が関係していると考えざるを得ない面があります。
昔から哲学の分野では、人間の精神というのは、精神そのもので決まるのか(唯心論)、外部から物理的な影響を受けて精神も変化していくのか(唯物論)という2つの対立軸があり、どちらが正解なのか結論が出ていません。人間の中に普遍的精神というものがあるのは間違いないでしょうが、一方で人間というのは弱い生き物であり、どうしても外界からの影響を大きく受けてしまいます。
■「現代資本主義システム」が機能不全を起こしている
私たちの日常生活は、多くが経済的な部分で成り立っていますから、経済的な環境変化が大きいと、私たちの思考や行動にも相応の変化が及ぶことになります。私たちを取り巻く漠然とした不安感やイライラ感の背景となっているのは、現代資本主義システムがそろそろ限界に近づきつつあり、あちこちで機能不全を起こしているからに他なりません。特に日本の場合、ここ10年の間に急速に貧困化が進み、豊かな先進国から脱落しているという現実があります。
現代資本主義のシステムがうまく機能しなくなってきたところに、日本では経済的な貧しさが加わっており、これが将来不安やイライラなどにつながり、さらに多くのことがうまく回らなくなってきている、そうした状況にあると考えます。
困ったことに日本の場合、資本主義の機能不全のみならず、豊かさからの転落という問題が加わっていますから事態はさらにやっかいです。
かつての日本は世界でもトップクラスの経済力を誇る国でした。1980年代後半には1人当たりGDPが先進国1位となっており、当時の日本人は圧倒的に豊かな生活を享受することができたのです。今の若い人には想像がつかないかもしれませんが、中高年以上の世代の人であれば、日本の経済力が強かったおかげで円も高く推移し、海外旅行に行くとすべてが安かったことを覚えていると思います。
■“経済的な貧しさ”が心理に悪影響を与えている
ところが1990年代以降、日本は世界経済のグローバル化やIT化の波についていけず、企業業績は30年間、ほとんど伸びていないという異常事態が続いています。同じ期間、世界各国はグローバル化とIT化の波に乗り、急ピッチで成長を続け、経済規模を1.5倍から2倍に拡大させました。
皆の給料が変わらず、誰か一人が上がっているという状況であれば、給料が上がった人だけがトクをしているわけですが、今回はそうではありません。日本以外のすべての国の人の給料が上がり、日本人だけが昇給できないという状態です。皆が昇給している中、自分だけが上がっていないということは、事実上、自分だけが賃金が下がっていることと同じになります。
もっと簡単に説明すると、最初は全員が年収300万円だったところが、日本人という一人の社員を除いて全員が600万円になったという話です。経済的に貧しくなるという外部環境の変化は、私たちの心理に相当な悪影響を与えます。多くの人が利用しているiPhoneは、日本円で20万円ぐらいの価格ですが、欧米人の大卒初任給はおおよそ50万円から60万円です。給料の3分の1ということですから、確かに高額ではありますが、買えないことはない水準と言ってよいでしょう。
■インフレは庶民の生活を苦しめる
ところが日本人の大卒初任給はだいたい20万円くらいです。iPhoneを1台買うためには、初任給のほぼ全額を注ぎ込まなければなりません。加えてパソコンなども買わなければならないということになると、仕事や生活をする上での基本的なツールにまるまる2カ月分の給料を投入せざるを得ないのが現実です。
給料2カ月分といえば相当な金額ですから、これは厳しい現実といえるでしょう。
あらゆるモノの値段が継続的に上がっていく現象のことをインフレと呼びますが、日本はまさにインフレの真っ最中ということになります。過去30年、日本はデフレが続いているとされ、物価はほとんど上がりませんでした。
しかし、ここ数年で経済の状況は大きく変わり、物価上昇が顕著となっています。特定商品の価格が上昇するという話と、世の中のあらゆる商品の価格が上昇するという話は、同じ価格の話といってもまるで状況が異なります。インフレは過去何度も世界各地で観察されており、庶民の生活に極めて大きな悪影響を与えることが知られています。
■“元に戻す”のは容易ではない
筆者は5年以上前から、このままの状態を放置すると日本でも確実にインフレが進み、私たちの生活は急激に苦しくなると繰り返し警鐘を鳴らしていました。しかし、当時の日本はデフレの真っ最中ということもあり、インフレになるという筆者の主張はあちこちから批判されました。「加谷珪一は頭がおかしい」「経済理論をまったく理解していない」「バカの典型」などと、ネットを中心に、凄(すさ)まじいまでの誹謗中傷を受けました。
しかしながら、日本では大規模緩和策という、物価を意図的に上げる政策を今でも継続しており、時間差が生じたとしても、政策の影響は必ず経済に反映されます。大規模緩和策を長期にわたって継続した結果、日本でもいよいよインフレが本格化しており、インフレというのはひとたび始まってしまうと、元に戻すのは容易ではありません。
インフレというのは、単純に生活必需品の価格が上がるだけの現象にとどまらないことがほとんどです。こうしたインフレのやっかいさを象徴している出来事のひとつがマンション価格の激しい上昇でしょう。物価が上昇すると、当然のことながらマンション価格もそれにつられて上がっていくことになります。しかも、マンションの価格上昇は生活必需品の比ではありません。
■23区は“億ションばかり”という異常事態
実際、東京都内の新築マンション平均販売価格はすでに8000万円前後となっており、20年前と比較すると約2倍となっています。しかしながら、この数字はあくまで平均値であって現実のマンション販売の現場では、もっと凄まじいことが起こっています。東京23区に限定した場合、数千万円台という価格帯のマンションはほとんど消滅しており、ほぼすべてが億ションという異常事態になっているのです。
確かに不動産価格は上がっていますが、販売されるマンションのほとんどが億ションというのは、通常の感覚ではあり得ません。一体、何が起こっているのか理解に苦しむ人も多いのではないでしょうか。
この動きは東京にとどまるものではなく、地方の中核都市にも及んでおり、やはり億ションの数が急激に増えています。経済が絶好調で、多くの人の給料が上がり、高額所得者も潤っているという状況であれば、億ションがバンバン売れるのも分かります。しかし、これだけ不景気が続いている中、なぜ不動産価格が異常なまでの高騰を示しているのでしょうか。
不動産価格が上昇すると、購入を検討していた人の一部は賃貸に切り替えてしまうので、マンション購入者の絶対数が減ります。デベロッパーは一定期間に一定の利益を確保できないと事業を継続できません。
■“利幅の薄い事業”はやりたがらない
こうした状況下では、販売件数の減少を補うため、一棟あたりの利益が大きい高級物件にシフトせざるを得ないのです。例えば、6000万円のマンションで20%の粗利益しか得られないとすると、一戸あたりの利益は1200万円となり、ここからデベロッパーは宣伝費や自社の人件費などを捻出する必要が出てきます。しかし1億2000万円の高級物件であれば、もっと高い利益率(例えば25%)を設定でき、この場合の一戸あたりの利益は3000万円となり、6000万円のマンションを2戸売るよりも利益が大きくなります。
つまり、お手頃価格のマンションを販売することが物理的に可能であっても、事業者も商売なので、利幅の薄い事業をやりたがらないというのが現実なのです。
こうした状況からデベロッパーの多くは、不動産価格の上昇を超えて高額物件を販売することになり、価格が上がると、値上がりを見越してさらに買う人が出てくるという流れにシフトしていきます。
高額物件を持っている人は、資産価値が上昇することでさらに裕福になり、そうでない人は家を持つことすら困難になるという状況が発生します。つまりインフレというのは、社会を分断し、所得を二極分化するという悪影響をもたらすのです。
■“中間層向け”が消滅する可能性
不動産は価格に対してもっとも敏感な業界ですから、こうした現象が真っ先に現れていますが、私たちが日常的に購入する食品や各種サービスにおいても、今後、同じような傾向が顕著となってくるでしょう。つまり、物価上昇で販売の鈍化が見込まれる以上、事業者は、価格が高くサービスのレベルも高い高級品か、逆に品質が悪く、圧倒的に価格が安い商品のどちらかにシフトするしかありません。
そうなると、社会全体で見た場合、価格はそこそこで、品質もそれなりという、いわゆる中間層の人たちにとって魅力的な商品が消滅する可能性が出てくるのです。
このままインフレが続けば、所得や消費、社会階層の二極分化が進んでいくという嫌な世の中になっていく可能性が高いでしょう。おそらくですが、多くの国民がこうした社会構造の変化を薄々感じ取っており、それが多くのイライラにつながっているのではないかと思います。
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加谷 珪一(かや・けいいち)
経済評論家
1969年宮城県生まれ。東北大学工学部卒業後、日経BP社に記者として入社。野村証券グループの投資ファンド運用会社に転じ、企業評価や投資業務を担当。その後独立。中央省庁や政府系金融機関などに対するコンサルティング業務に従事。現在は経済、金融、ビジネス、ITなど多方面の分野で執筆活動を行うほか、テレビやラジオで解説者やコメンテーターを務める。
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(経済評論家 加谷 珪一)