伝説の背番号10が綴る“永遠のサッカー小僧”の肖像――。本稿では木村和司氏の初自叙伝『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』の抜粋を通して、時代の寵児として日本サッカー史を大きく変えたレジェンドの栄光と苦悩の人生を振り返る。
(文=木村和司、写真=アフロ)
「モデルチェンジ」と「ハートコンタクト」
1983年、わしは高校時代から慣れ親しんできた右ウイングからゲームメイカーへ、いまでいうトップ下にポジションを変えた。
コンバートは当時、日産自動車(現・横浜F・マリノス)の監督であった加茂周さんの発案であるとか、加茂さんと日本代表監督の森孝慈さんが相談していたとか、さまざまな理由が伝えられている。しかし、実際にはわしから「ゲームメイカーをやりたい」と加茂さんに申し出て、JSL(日本サッカーリーグ)1部リーグの後期になって試合に出場しはじめたルーキーのタカシ(水沼貴史)とポジションを入れ替えた。
自分で言うのもなんだが、わしがゲームメイカーに転向してからの日産自動車のサッカーは劇的に変わった。
自動車会社になぞらえて、わしらは「モデルチェンジ」とよく言っていた。それまでのゲームメイカーで、わしが転向した後には左ウイングに回ったキン坊(金田喜稔)からは、試合後や練習の合間にこんな言葉をよくかけられた。
「カズシは鳥じゃ。鳥の目をもっているんじゃ」
聞けばパスを繰り出すときのわしの視野が、キン坊を含めた普通の選手が平面的なのに対して、ピッチの上空から見ているとしか思えないほど立体的だという。
いまではピッチを俯瞰的に見る能力、となるだろうか。平面的な視野では見えない場所へパスを通す技術と精度、そしてキックの多彩さを何度も称賛され、実はゲームメイカーにもっとも向いている選手だと驚かれた。
1983シーズンの後期からわしに代わって右ウイングでプレーしたタカシは、あうんの呼吸を超えたものがあるとよくこう言われてはわしもうなずいた。
「カズシさんとはお互いの動きを見ていなくても、パッと目を合わせなくても感じられるものがありますよね」
1992年5月から史上初の外国人監督として日本代表の指揮を執った、オランダ出身のハンス・オフト監督が掲げたキーワードのひとつにアイコンタクトがあった。
視線を介してコミュニケーションを取ろうと要求したものだが、当時の日産自動車サッカー部のなかで成立していたコミュニケーションは、アイコンタクトをはるかに超越していた。
ゲームメイカーのわしと左ウイングのキン坊、そして右のタカシとのコミュニケーションを、自信を込めてこう呼んでいた。
「ハートコンタクトや」
企業スポーツが中心だった日本サッカー界に吹いた新たな風
1983シーズンのJSL1部、特に後期で日産自動車は快進撃を演じた。
前期を5勝2分け2敗で折り返した日産自動車は、後期は一転して第4節までに1勝1分け2敗と黒星が先行した。しかし、第5節からマツダ(現・サンフレッチェ広島)、本田技研工業、ヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)、ヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)に4連勝。2位に順位をあげて、古河電工(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)と三ツ沢球技場(現・ニッパツ三ツ沢球技場)で対戦する11月27日の最終節を迎えた。
首位に立つ読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)には勝ち点で2ポイント、得失点差も4ポイント離されていた。当時は勝利で勝ち点2が与えられたため、最終節で日産自動車が3点差以上をつけて勝利し、等々力陸上競技場でフジタ工業(現・湘南ベルマーレ)と戦う読売サッカークラブが負ければ勝ち点25で並び、得失点差で上回る日産自動車の初優勝が決まる状況だった。
最終節の全試合会場が同時刻のキックオフとなるいま現在では考えられないが、当時は三ツ沢球技場の試合が30分早くはじまった。
しかし、緊張感の類いと無縁だった日産自動車は3-0で快勝した。ルーキーのFW柱谷幸一が前半だけで2ゴールをあげ、柱谷の加入とともにボランチへポジションを変えた、後に横浜マリノスの初代監督を務める清水秀彦さんが3点目を決めた。
肝心の等々力陸上競技場の試合はどうなっているのか。テレビ中継などない時代とあって、まったくわからない。
しかし、追いつめられた読売サッカークラブが底力を見せる。
ラモスの連続ゴールで瞬く間に逆転。最後は右サイドバックの松木安太郎さんがダメ押しゴールを決めて、1969年の創部以来の悲願だった初優勝を達成するとともに、企業スポーツが中心だった日本サッカー界に新たな風を吹かせた。
「わしらは変わる」天皇杯でも続いた快進撃
得点王は10ゴールをあげたラモスが4シーズンぶりに獲得し、日産自動車からは7ゴールの柱谷が2位タイに、5ゴールのわしとアデマール・ペレイラ・マリーニョが8位タイに名を連ねた。
初めてJSL1部に挑んだ1982シーズンは無得点だったわしは、三菱重工(現・浦和レッズ)との前期第2節で待望の初ゴールをマーク。後期の第5節以降で5連勝をマークした間も、マツダ戦とヤマハ発動機戦でゴールを決めて勝利に貢献していた。
JSLではタイトルのひとつとして定められていたアシスト王には、ラモスと名コンビを組んだサンパウロ州出身の日系ブラジル二世で、同じく後に日本に帰化する与那城ジョージさんが10アシストで獲得。わしは8アシストで2位に入っている。
何よりも驚いたのがベストイレブンの顔ぶれだ。
ゴールキーパーの田口光久さん(三菱重工)を除いて、フィールドプレーヤーの10人を読売サッカークラブと日産自動車で独占した。日産自動車からはDF越田、新人王も獲得した柱谷に加えて、キン坊とわしが選出されている。
シーズンを通して、加茂さんはこんな指示を飛ばしていた。
「1点や2点は取られてもいい。それ以上にゴールを奪えばいい」
加茂さんのもとで標榜(ひょうぼう)し続けてきた攻撃的なサッカーが開花しつつあった証しとして、攻撃陣から3人がベストイレブンに名を連ねた。先発に定着するのがもう少し早ければ、間違いなくタカシも選出されていたはずだ。
全国のサッカー担当記者による投票で、プロやアマチュア、そして男女を問わず、シーズンを通じてもっとも活躍する選手が対象となる「日本年間最優秀選手賞」に、日産自動車から初めて選出されたわしは、あらためてこんな思いを抱いている。
「これでわしらは変わっていくはずや」
2位でJSL1部優勝を逃した悔しさはすぐに自信へと変わり、12月中旬に開幕した天皇杯全日本サッカー選手権大会で日産自動車を力強く後押ししていく。
1回戦でJSL2部の田辺製薬に7-1で圧勝すると、2回戦では同じく2部の帝人に4
-1で快勝。三菱重工を想定していた準々決勝の相手は番狂わせを起こした2部の富士通(現・川崎フロンターレ)となり、しかも前半開始早々に相手のセンターバックが退場となる試合展開の末に6-0で圧勝。
わしも帝人戦と富士通戦で連続ゴールを決めた。
組み合わせ表を見た瞬間から、準決勝の相手はリーグ戦で1分け1敗だった読売サッカークラブになると信じて疑わなかった。
しかし、JSL1部の雪辱を期すと誓っていた読売サッカークラブは、クリスマスに行われたフジタ工業との準々決勝で、0-0のまま決着がつかずにもつれ込んだPK戦を2-4で落としていた。
迎えた30日の準決勝。日産自動車の快進撃は止まらなかった。
「ダメかもしれない」弱気をはね返した初戴冠
天皇杯を勝ち進みながら年を越して、大勢のお客さんがスタンドを埋める元日の国立競技場で戦うのは、サッカー選手の夢のひとつになっていた。
日産自動車は大晦日の前日練習を終えると、獅子ヶ谷グラウンドから東京都内へ移動した。
目指したのは銀座のど真ん中。老朽化もあって2001 年に閉鎖された銀座東急ホテルに泊まり、チームに関わる全員で夕食にステーキを食べて精力をつけ、それぞれの部屋でNHKの紅白歌合戦を見てリラックスし、除夜の鐘を聞きながら就寝する。
元日の朝は静まりかえった銀座の街をわしらが独り占めする形で散歩しながら、午後に待つ天皇杯決勝へのキックオフへ向けて、選手各々がモチベーションを高めていく。銀座東急ホテルへの前泊を提案したのは言うまでもなく加茂さんであり、その後も日産自動車が天皇杯決勝へ進出したときのルーティンになった。
天皇杯初優勝だけでなく、クラブ創設以来の初タイトルをかけた決勝の相手は、釜本邦茂さんが選手兼監督を務めるヤンマーディーゼルだった。
正式には発表されていなかったが、天皇杯決勝をもって、当時39歳だった釜本さんが選手として引退するのが決まっていた。キックオフ直前のミーティングで、ヤンマーディーゼル出身でもある加茂さんが神妙な口調で語った。
「今日をもって、日本が世界に誇る選手が引退する。彼に敬意を表してほしい。
釜本さんはベンチスタートだった。もっとも、ピッチに立つ前のわしはこんな言葉を口にしている。
「今回もダメかもしれない」
それまでのサッカー人生のなかで、わしは日本一になった経験がなかった。
県工(県立広島工業)2年で出場した全国高校サッカー選手権のベスト4が最高位だった。明治大学を関東大学サッカーリーグ2部から上げられないまま卒業した。対照的に日産自動車のチームメイトたちを見わたせば、ほとんどが中学や高校、あるいは大学で日本一になっている。
ヤンマーディーゼルのコーチ時代に、JSL1部と天皇杯で優勝している加茂さんから「いつも通りにプレーすればいい」と言われても、浦和市立高3年のときに全国高校サッカー選手権で優勝している清水さんから「心配するな。オレに任せろ」と言われても、わしの心のなかで頭をもたげてきた弱気な一面はなかなか消えなかった。
そのときに2つ年下のタカシの姿を見た。
中学、高校、大学のすべてで日本一を経験していたタカシは緊張するどころか、キックオフを待ち望んでいるかのように映った。負けていられるか、と思ったわしは平常心を取り戻して決勝に臨んだ。
先制点は味方同士のパスがずれ、右タッチライン際に転がっていたボールをわしが猛然と追いつき、すかさず放ったクロスを相手キーパーがファンブル。こぼれたボールを柱谷が押し込んだものだった。
追加点も右サイドでわしが送った縦パスをキン坊が頭で巧みにトラップし、そのままドリブルで相手キーパーをもかわして無人のゴールに流し込んだ。
釜本さんは2点のビハインドを背負った後半途中から出場したが、日産自動車の守備陣が最後まで何もさせなかった。引退に関して何も言及しないまま国立競技場を後にしているが、後になって日産自動車に対する気配りだったと聞かされた。
日産自動車が初タイトルを獲得したニュースを、メキシコ五輪で大会得点王を獲得したストライカーの引退表明が打ち消してはいけないと考えていたという。時間をおいて事実を知らされ、思わず胸を打たれたのをいまでも覚えている。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』から一部転載)
【連載第1回】「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
【連載第2回】読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
【連載第4回】“永遠のサッカー小僧”が見た1993年5月15日――木村和司が明かす「J開幕戦」熱狂の記憶
<了>
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[PROFILE]
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ、広島県出身。地元・大河小学校で小学4年生のときにサッカーと出会う。広島県立広島工業高等学校から明治大学を経て、1981年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に加入。1986年には日本人初のプロサッカー選手(スペシャル・ライセンス・プレーヤー)として契約を結 ぶ。クラブでは日本サッカーリーグ優勝2回、天皇杯優勝6回など、黄金期を支える中心選手として活躍した。日本代表としては、大学時代から選出され、特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会最終予選・韓国戦でのフリーキックによるゴールは、今なお語り継がれている。また、国際Aマッチ6試合連続得点という日本代表記録も保持する。日本初のプロサッカーリーグが1993 年に開幕するが、翌1994 年シーズンをもって現役を引退。プロサッカー黎明期を支えた象徴的存在だった。引退後は指導者としても活躍し、2001 年にフットサル日本代表の監督を務め、2010 年から2011 年には横浜F・マリノスの監督に就任。そのほかにも、サッカー解説者やサッカースクールの運営など、多方面で活動を続けた。2020 年には日本サッカー殿堂入りを果たし、その功績が称えられている。