最近になり114歳だったベネズエラのフアン・ビセンテ・ペレスモラさんと、112歳だった薗部儀三郎さんが相次いで亡くなったことを受け、英ギネスワールドレコーズは5日、111歳の英国人のジョン・ティニスウッドさんを世界最高齢の男性に認定した。それに“待った”を書けたのが香港メディアの星島網だ。
著名な生物学者の孫が施平さんに感謝
施平さんは1911年11月1日の生まれとされており、昨年11月には112歳の誕生日を祝った。施平さんはかつての学生運動の指導者であり、蒋介石(1887-1975年)と「対決」したこともある。その後は事実上の共産党軍だった新四軍に身を投じ、中華人民共和国成立後には上海市の要職にも就いた。また、18年にわたり迫害されたこともある。著名な構造生物学者の施一公さんは施平さんの孫だ。
施一公さんは米国での研究生活が長く、米国科学アカデミーの外国人会員にもなった。
蒋介石に面と向かって叱責されても後に引かず
日本と中国の全面戦争、すなわち日中戦争は1937年7月の盧溝橋事件がきっかけで勃発した。しかし中国を統治する中国国民党の指導者だった蒋介石は当初、日本との対決に熱意を示さなかった。陝西省延安に拠点を置いた中国共産党が勢力を保っており、蒋介石は共産党を「最大の敵」と考えて盛んに攻撃し、日本軍との戦闘で共産党に振り向けるべき戦力が消耗することを避けようとしたとされる。
そのため、大学生などの間では蒋介石に対する反発が広がった。
施平さんは38年1月に中国共産党に参加し、新四軍に加わった。蒋介石は36年12月に発生した西安事件で身柄を拘束され、詳細については不明な点も多いが、共産党と協力して日本軍と全力で戦うことを条件に解放されたとされる。
自らの命をかけても「ダメなものはダメ」と直言
施平さんは中華人民共和国成立後、中国農業大学副学長に就任するなど教育畑を歩み始めたが、反右派闘争や文化大革命などで攻撃の対象になり、免職、取り調べ、批判、つるし上げ、投獄など、前後18年間も迫害された。
施平さんが迫害された原因には、自らの信念を貫いたことがあった。例えば中国では文化大革命期を中心に、都会にいる大学生などを農村部に送り込み、農作業などの労働に従事させることで「正しい考え方」を得させようとする運動があった(下放農村、労働改造)。また中国では、58年に開始された大躍進政策で、農村部では米や麦などで奇跡的な増産が実現したと宣伝された。施平さんは農作物の大増産について「全くのでたらめ」と言い、学生を農村に送り込むことにも反対した。当時の中国では「命をかけた反抗」だった。
施平さんは文革終了後の78年に華東師範大学の共産党委員会書記に就任し、「党と政府の分離」、「教育による国家統治」などの改革に尽力した。全国に先駆ける動きだったという。施平さんは83年には、上海市人民代表大会常務委員会副主任などにも就任した。
100歳過ぎても「相対性理論」を新たに学びVRも体験
施平さんの長寿の医学的理由ははっきりと解明されているわけではないが、特徴としてはまず、「新しいことへの好奇心」があるという。100歳を超えてから「重力波」の話題が報じられると相対性理論の解説書を読み、ニュースで仮想現実(VR)などが評判になると、息子に施設がある場所に連れていってもらい自ら体験した。
食べるもののこだわりはないが、3食をしっかり取る。酒やたばこはたしなまない。生活は規則的だ。90代までは、毎日のように水泳をしていた。趣味の撮影も、施平さんのような高齢者にとっては適度な運動になり、ベストショットを得ようと頭を使い、また美しい光景に接して芸術的な感興を大いに得ているという。