日中関係の緊張が続く中、日本社会の実情を間近で見ようと、8月15日の終戦の日を前に、中国江蘇省南京の若手記者数人が特別な取材を企画した。

一行は、日中の近現代史と深く関わるルートをたどり、鹿児島、山口県下関市、東京を相次いで訪問。

歴史的な場所を歩き、文字と映像を通じて、現地で見たもの、感じたことを記録した。

この取材による現場報道は中国のネット上で大きな反響を呼び、中国外交部(外務省)の報道官もSNSのX(旧ツイッター)で紹介した。

終戦の日、南京から日本を訪れた若手記者たちは、一体何を見たのだろうか。

第1の訪問地:鹿児島――「黎明」の裏側にあるもう一つの歴史

鹿児島と中国との歴史的なつながりは、一般の日本人にはあまり知られていないかもしれない。知っていたとしても、多くの人がまず思い浮かべるのは、遣唐使や鑑真和上の渡日など、より古い時代の歴史だろう。

しかし、南京の若手記者たちが鹿児島を訪れたのには、もう一つの理由があった。鹿児島は西郷従道と樺山資紀の出身地でもある。

1874年、日本は「牡丹社事件」を口実に台湾へ出兵した。西郷隆盛の弟である西郷従道は、この台湾出兵に参加し、軍事指揮を担った。この出兵は、日本の近代における対外的な軍事拡張の重要な出発点の一つとされている。また、樺山資紀はその後、日本による台湾の植民地統治下で初代台湾総督を務めた。

鹿児島市の各地で、南京の記者たちは「黎明」という2文字を繰り返し目にした。記者たちは記事の中で、こう記している。

日本の近代化に「黎明」の光をもたらした場所が、同時に、別の長い「夜」の始まりをもつくり出した――。

終戦の日、南京の若手記者たちが日本で見たものとは?
鹿児島

第2の訪問地:下関――春帆楼から振り返る「下関条約」

1895年、日清戦争終結後、日本の首相の伊藤博文、外相の陸奥宗光と、清朝の全権大臣だった李鴻章が、下関の春帆楼で講和交渉を行った。最終的に、清政府は「下関条約(馬関条約)」の締結を余儀なくされた。

清政府は賠償金として銀2億両を支払ったほか、台湾全島とその付属島しょ、澎湖諸島を日本に割譲した。今日の中国人にとって、「下関条約」は近代中国の民族的記憶に深く刻まれた傷の一つとなっている。

南京の若手記者たちは、日清講和記念館で当時の交渉に関する展示を見学した。そこには、清朝の使節が日本側の代表と面会し、屈辱的に礼をする場面を描いた歴史資料も展示されていた。

春帆楼の前に立った記者たちは、現在も多くの船が行き交う関門海峡を見つめた。1895年の講和交渉がここで行われたのは、李鴻章に日本海軍の軍事力を直接目の当たりにさせる意図もあったのではないか――。記者たちはそんな想像を巡らせた。

「李鴻章道」を歩いた若手記者たちの表情は重かった。彼ら自身の言葉を借りれば、激しい怒りというよりも、歴史の傷跡と真正面から向き合ったことによる、さまざまな思いが交錯する感覚だったという。

終戦の日、南京の若手記者たちが日本で見たものとは?
春帆楼

第3の訪問地:東京――靖国神社前で見た、もう一つの日本

8月15日の終戦の日、靖国神社周辺には多くの参拝者が集まった。

一方で、さまざまな政治的立場の団体も現場で活動を行っていた。

その場で、南京の若手記者たちは一つの衝突を目の当たりにした。

中国語のプラカードを持っていた人物が右翼関係者に追いかけられ、取り囲まれた。「シナ人を捕まえろ」といった叫び声が響いた。警察がすぐに介入したことで、衝突は収まった。

この日、記者たちは靖国神社への参拝に反対し、反戦を訴えるデモにも接した。デモの一行は、移動中に右翼関係者から取り囲まれたり、罵声を浴びせられたりした。

南京の若手記者たちが当初抱いていた日本社会のイメージは、表面的には非常に穏やかで、秩序があり、感情を抑制する社会というものだった。しかし、靖国神社という特殊な場所で、彼らは初めて、日本と周辺国との間に存在する靖国神社参拝を巡る対立だけでなく、日本社会の内部でも、この問題を巡ってさまざまな立場が激しくぶつかり合っている現実を間近に見た。

終戦の日、南京の若手記者たちが日本で見たものとは?
8・15反「靖国」デモの様子

一連の取材を通じ、若手記者たちは次第に一つのことを意識するようになった。

戦争の歴史をどう認識するかは、日中関係において避けて通ることのできない核心的な問題であり、両国間で長年続いてきた政治的摩擦の重要な要因の一つでもある。しかし、南京から日本を訪れた若手記者たちが、より強く求めていたのは、一つの答えだった。

これからの日中関係は、どのように向き合っていくべきなのか。

東京滞在中、記者たちは「村山首相談話を継承し発展させる会」を訪れ、藤田高景理事長に話を聞いた。

1995年8月15日、村山富市首相は戦後50周年に当たって談話を発表した。後に「村山談話」と呼ばれるこの文書は、日本政府の首相の名において、日本が過去に行った植民地支配と侵略について明確に認め、「深い反省」と「心からのおわび」を表明したものだ。

藤田理事長は、日本の歴代政権が程度の差こそあれ、歴史への反省や平和国家としての歩みを重視する基本的な立場を引き継いできたと説明した。また、その核心的な内容は、その後の対外関係や関連する二国間文書にも、さまざまな形で反映されてきたと指摘した。

藤田理事長は、日本が中国やアジア各国、さらには世界各国と平和的に共存していくことを望むのであれば、「村山談話」が示した基本的な立場を継承し、さらに発展させていく必要があると考えている。それは過去をどう認識するかという問題だけではない。未来へどう歩んでいくかという問題でもある。

終戦の日、南京の若手記者たちが日本で見たものとは?
藤田高景氏

終戦の日の後も、歴史は続いていく。

8月15日が過ぎた。

靖国神社前の人々は次第に姿を消し、関門海峡では今も船が行き交い、鹿児島の街角では「黎明」という2文字が変わらず目に入る。

南京の若手記者たちも、すでに南京へ戻った。
終戦の日、南京の若手記者たちが日本で見たものとは?

今回の日本取材を通じて、彼らが自分たちなりの納得できる答えを見つけたのかどうかは分からない。しかし、終戦の日が私たちに突き付ける問いは、8月15日が過ぎたからといって終わるものではない。

歴史は今も続いている。日中両国が過去とどう向き合い、未来へどう歩んでいくのか――。そのことを、私たちは今も考え続ける必要がある。(取材/RR)

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