ロンドン時間の2019年4月6日午前10時半、ロバート・フリップが口を開く。「本日お集まりの皆さんの目的は存じ上げないが、今日は私自身の話をしよう」と、ギタリストで長年に渡りキング・クリムゾンを率いるバンドリーダーは単刀直入に切り出した。「私の最大の関心事は、我々のことを知らない人たちにキング・クリムゾンを紹介すること。つまり、キング・クリムゾンのライブを観たことのないオーディエンスだ」
おそらく今彼の前にいる人々の中に、キング・クリムゾンを知らないなどという人間は、まずいないだろう。フリップによるレアな記者会見のため、ロンドンのホルボーンにあるオクトーバー・ギャラリーの上階にあるゆったりとしたスペースに、ヨーロッパ各地や北米から約40人のジャーナリストが詰めかけた。2014年以降のフリップは、メディアのインタビューに数回しか応じていない。同年フリップは事実上の引退から復帰し、メンバーを一新したザ・セブン・ヘディッド・ビースト(the Seven-Headed Beast)と呼ばれる大所帯のラインナップで、キング・クリムゾンのライブ活動を再開した。今回の記者会見は、変化を続けるアヴァンロック・バンドの50周年を記念した1年間に渡るイベントの一環として行われた。記念イベントには、1969年の傑作デビューアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』のデラックスリイシュー、バンドを記録したドキュメンタリー映画、ロック・イン・リオなどの大規模フェスティバル出演を含む世界50カ所以上でのライブが含まれる。フリップは記念イベントを通じて”未知のファン”を魅了したいと願っている。
紺色の縞のスーツに身を包んだフリップはスタイリッシュなメガネと中折れ帽を粋に決め、まるでレトロなGQ誌から飛び出してきたような姿だった。
メディア嫌いを公言するフリップに対し、どのような展開が待っているかわからなかった。しかし「勝手にやらせてもらう」と冒頭で述べた彼だが、驚くことにこの日は饒舌で自発的に話していた。インタビュー好きでない人間と比較すると、彼はものすごいお喋りだった。
何の制限も無いようだった。フリップは何を質問されようがずっと忍耐強く穏やかで、どんな質問に対しても積極的に答えた。現在の編成に3人のドラマーを採用した理由を聞いた質問者に対し、質問者がDrumhead誌から来たことを知ったフリップは、「でも私はギタリストだ」と返す。また最近注目している音楽について聞かれると、フリップは韓国の作曲家チン・ウンスクを挙げ、彼女の音楽は刺激的な方法で「自分の考え方を覆した」と表現した。
そこから、参加していた数少ない女性ライターのひとりが「キング・クリムゾンは”男ばかり”」と言えばフリップは「私もそう思う」と応じ、ラインナップに女性を加える可能性については「私はどのようなアイディアも受け入れる」と述べた。
耳に心地よいイギリス西部訛りで愛想良く丁寧に話すフリップは、ドキュメンタリーの素晴らしいナレーターにもなれそうだ。彼はまた生まれながらの劇作家で、例えば、ある日本のプレスエージェントが彼のことを”プログレッシブ・ロックのヨーダ”と呼んだことを思い返して深い溜息と共に憤りを表現したり、ベーシスト&ヴォーカリストのジョン・ウェットン、ヴァイオリニストのデヴィッド・クロス、ドラマーのビル・ブルーフォードによる1973~1974年の有名なラインナップによるインプロビゼーションについて論じながら大げさに息を吐き出して畏敬の念を起こさせたりした。また、「プログレッシブ・ロックの池に浮かぶ藻が皆をがっかりさせようとしている」という90年代半ばにとあるライターが当時のバンドを表現したフレーズを引用し、なんども繰り返し口にしながら、嬉しそうに目をキラリとさせてニヤリと笑う。フリップはこのフレーズを、皮肉を込めたスローガンとしてよく使っている。おそらく最も印象的だったのは、彼が感情を素直に表したということ。間違いなく参加者の誰も、伝説のミュージシャンが、1981年に経験した”音楽を通じて生まれた、言葉で表せない博愛”について話しながら涙をこらえる姿など想像もしなかっただろう。
つまり今回のイベントは、ただのツアープロモーションではなかったということだ。
当日明かされた事実の中には、単純な告知もあった。例えば2019年のツアーには、フリップの長年のコラボレーターであるビル・リーフリンに代わって一時的にセオ・トラヴィスがキーボードを弾くことや、クリムゾンのマネジャーを務めるデヴィッド・シングルトンが午後のプレゼンで明らかにしたように、バンドのフルアルバムに収録される楽曲が6月にスタートするツアーに合わせてSpotifyをはじめとする各ストリーミングサービスで配信される等。以下に、当日明らかになったより深い15の事実を紹介しよう。
1.フリップはようやくバンドの全レパートリーを違和感なくプレイできるようになった。
当初7人でスタートし、その後8人編成に巨大化した現在のダブルカルテット編成は、2013年以降何人かのメンバー入れ替えがあったものの、バンドの歴史において最長のラインナップとなっている。現ラインナップの目玉は、バンドの各時代の楽曲をプレイしていることだ。これまでは例えば80年代のラインナップは、「21世紀のスキッツォイド・マン」などバンドの代表的なアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』からの楽曲をプレイしなかった。「1981年当時の我々は”プログレッシブ・ロックのダイナソー(恐竜)”だったから、バンド初期の作品をプレイすることはほとんど不可能だった」とフリップは記者会見で説明した。「つまり当時のオーディエンスから見ると、初期の音楽は歴史上の作品であり、時代遅れだったのだ。そして50年が経った今、我々はもう流行から脱却した」という。それでもフリップにとってはタイミングだけの問題ではなく、個人的な問題でもある。
2.おそらく”プリマドンナ”のいない現在のラインナップに畏敬の念を抱いているからだろう。
2017年にメキシコで行った5回のコンサートから製作したライブアルバム『メルトダウン~ライヴ・イン・メキシコ』(2018年)のライナーノーツの中でフリップは、現行のグループを”音楽的、人間的、そしてプロとしてもこれまで関わった中で最高のバンド”と表現している。大胆な意見だが、同ライブアルバムの持つ驚くべき視野の広さを窺わせるものだ。アルバムには、比較的マイナーな1970年代初期の『リザード』や『アイランズ』から新しい作品まで、キング・クリムゾンの全13枚中11枚の楽曲がフィーチャーされている。さらに、8ピースバンドの計り知れないパワーと幅広さが込められているといっても過言でないだろう。
この日のフリップは、現在のラインナップがこれまでと違う点についても掘り下げた。「メンバーの音楽性や経験の幅広さは、私にとって本当に驚異的だ」と彼は言う。さらに彼は、ザ・ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」でサックスのソロを吹いたメル・コリンズ、ヨーコ・オノ、フィル・スペクター、バディ・リッチらとも仕事したベーシストのトニー・レヴィンらメンバーの経歴や、伝説的なアーティストがツアー中に現れたエピソードなども披露した。
フリップはまた、1972年~73年にパーカッションを担当したジェイミー・ミューアが「我々は音楽に奉仕するために集まった」と当時のバンドメンバーだったビル・ブルーフォードに述べた言葉も引用した。
「とても高尚な志だが、それを本当に実現した初めてのバンドだ。誰にも縛りはない。
3.”プログレ”という概念に飽き飽きした彼は、言葉に出すのも嫌になる時がある。
フリップは、過去50年に渡るロック界におけるキング・クリムゾンの立ち位置について振り返った。「音楽の世界では、約7年おきに音楽、ミュージシャン、オーディエンスの大きな世代交代がある」と言う彼は、具体的な交代時期を指摘した。「例えば、ロックンロールが誕生した1956、57年。エルヴィスの前は何があったろう? 1949年頃のマディ・ウォーターズとエレクトリックの時代ではないだろうか。そしてエルヴィス後の主要な世代交代は何だろう? ビートルズの1962、63年か。次は、たぶん…」とここで彼は”pワード”を避けて声を落とし、ため息をつく。そして「アンダーグラウンド・ロックだ!」と満足げな笑顔で言うと、会場は爆笑に包まれた。
4.分裂はキング・クリムゾンのDNAに刻み込まれている
フリップはキング・クリムゾンについて、型にはまったバンドとは違い”何かを起こす”バンドだということを度々強調してきた。これまでは半常習的な分裂や、時にはメンバーをほとんど入れ替えたゼロからの再始動もあった。このことについて彼は、一部事前に書かれていたあるクリムゾン論を引用しながら説明した。
フリップは、2010年に行われたエイドリアン・ブリューのインタビューも引用した。ブリューは1981年~2009年までキング・クリムゾンでプレイしたが、現在のラインナップには加わっていない。「エイドリアン・ブリューは、”ロバートが音楽を変えたいと望む場合の選択肢は、参加しているメンバーが音楽を変えるか、ロバートがメンバーを替えるかのどちらかだ”とコメントした。自分としてはそんな風に振る舞ったつもりはないが」とフリップは言う。「しかし遠からず、ということだろう」
5.彼にとって、バンドのスタジオ・アルバムはライブ体験とは決して近くない。
フリップに言わせるとスタジオ・アルバムは”ラヴレター”で、ライブは”ホットなデート”だという。この日の彼は、どちらが好きかをはっきりさせた。「私にとってパフォーマンスは活力の源」と彼は説明する。「キング・クリムゾンは常にホットなデートで、いつでもライブイベントのようだった。アルバムの出来がどんなに良くても、ライブパフォーマンスにおけるバンドのパワーとは比べ物にならない」
6.初期の音楽的影響を受けたのはスコティ・ムーアとデューク・エリントン。
自分の過去を振り返りながらフリップは、彼と姉のパトリシアが小さな頃に一緒に誕生日を祝ったエピソードを語った。姉は4月生まれでフリップは5月だが、「私たちは年に2回プレゼントをもらっていた」という。フリップの11歳を祝う”2度の”誕生日の内の1回で、姉弟はエルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」とトミー・スティールの「Rock With the Caveman」の2枚のシングル盤をプレゼントされた。当時のフリップはギタリストを目指している訳ではなかったが、エルヴィスのレコードが彼をギターへと向かわせた。「エルヴィスのギタリストがスコティ・ムーアだった」とフリップは深く息をついて力説する。「グルーヴからエネルギーが湧き出てくる。強い信念とパワーに、純粋なセクシャリティのようなものを経験した」
また、フリップにとってもうひとつの大きな出来事が、イングランドのボーンマスで1965年2月に行われたデューク・エリントンのコンサートだった。「つい最近考えてみたが、デューク・エリントンに関して明らかな2つの事実がある。ひとつは、18歳の私にとってデュークはとても年上の人間だったこと。もうひとつは彼が黒人であること。そのどちらも私には関係なかった。デュークはあらゆる民族や階級を超越していたし、デュークは若かった。それは驚くべきことだった。キング・クリムゾンをデューク・エリントン&ザ・オーケストラと同じレベルに並べようとは思わないが、若者には、作品の作られた時代と関係なくキング・クリムゾンの音楽を聴きに来てほしいと思っている。私にとってのデュークと同様、彼らにとってひとつのきっかけになってほしい」
7.ジミ・ヘンドリックスと会った夜のことを振り返ると今も興奮する。
フリップは、自らが「マイ・ヘンドリックス・ストーリー」と呼ぶ話を何度も語ってきた。ストーリーのショートバージョンを紹介すると、1969年、キング・クリムゾンがライブを行っていたロンドンのメイフェア地区にあるレヴォリューションクラブに、ジミ・ヘンドリックスが姿を表したということ。最初のセットが終了した後、白いスーツに身を包み右腕を包帯で吊ったヘンドリックスが楽屋に入ってきた。フリップに歩み寄ったヘンドリックスは「左手で握手してくれ。そっちの方が俺のハートに近いから」と言ったという。フリップが当時のエピソードを紹介する際、”彼は光を放っていた””彼は輝いていた”といった多彩な表現を使うが、この日はさらに珍しい事が起こった。”俺のハートに近い”というくだりでフリップは目を突然潤ませ、残りのエピソードを話すあいだ、涙をこらえていたように見えたのだ。
さらにフリップは、同夜のもうひとつのエピソードも再び披露した。フリップはステージ上でスツールに腰掛けてプレイするが、そうするようになったのはレヴォリューションクラブでのライブが最初だった。フリップの考えを耳にした当時のベーシスト兼シンガーのグレッグ・レイクは「座らない方がいい。ステージ上のキノコみたいに見える」と、当時のフリップのふわふわしたヘアスタイルとともに揶揄したという。そのあと、「多くのカルチャーで”キノコ”と言えば男のシンボルだ、ということは黙っていたけどね」と真面目な顔でフリップが言うと、この日2度目の爆笑に包まれた。
8.間もなく公開されるキング・クリムゾンのドキュメンタリーには”プログレッシブ・ロックの修道女”も登場する
フリップによる長い2つのセッションの合間に、監督のトビー・エイミスがドキュメンタリー『Cosmic F*Kc』から数本のビデオクリップを紹介した。同映画は、フリップとシングルトンが管理するバンドの独立レーベルDGMもサポートしている。しかしこの日エイミスは、よくあるお決まりのロックドキュメンタリーにする気は全くなかったことを強調した。同映画には、ライブパフォーマンスやインタビューを惜しみなく収録しているという。この日エイミスが紹介したビデオクリップの中には、同ドキュメンタリーのために特別に行った現在のラインナップによるプライベートコンサートの模様や、エイドリアン・ブリューやビル・ブルーフォードらかつてのメンバーによる裏話などがあった。また、ヨーロッパツアー中に撮影された、夜の閑散とした街を襲った暴風雨の幻想的なシーンも紹介された。
最も魅力的で意外だったプレヴュークリップは、オスロ在住のドミニコ会修道女シスター・ダナ・ベネディクタのインタビューだった。たまたまキング・クリムゾンの大ファンとなった彼女はチャペルの中で、バンドの音楽が彼女に与えた影響の大きさについて語っている。「『レッド』に収録された『スターレス』などの曲を聴いた時、自分の中にある別の一面に気づかされたのです」と彼女は証言する。エイミスはビデオを上映した後で「彼女は”プログレッシブ・ロックの修道女”として有名だ」と解説。さらに彼は、シンガー&ギタリストのジャッコ・ジャクスジクがあるライブ中に、オーディエンスの中にいた彼女の胸に何か白く光るものを見つけたエピソードも紹介した。当初ジャクスジクは十字架かと思ったが、よく見るとそれはバックステージパスだったという。
9.フリップは公の場で自分の頭脳の一部を披露した。
フリップはプレゼンテーションの冒頭の方で、参加者の多くの方が自分よりもキング・クリムゾンについて知っているだろう、と認めている。実際に参加者の中には何人かの熱狂的なファンもいた。中でも突出していたのはジャーナリストとして経験豊かなシド・スミスだった。彼は2001年に本格的なバイオグラフィー『In the Court of King Crimson』を執筆し、2019年には内容を増強・更新した改訂版が予定されている。彼はバンドの各リイシューにも貢献している。フリップ自身も言う通り、彼の頭の中にあるクリムゾンの歴史に関して「詳細を語るのを止める許可を自分に与えた」という。つまり、過去のエピソードにまつわる日付を思い出さねばならない時、例えば、「ウェットン、クロス、ブルーフォードのメンバーによる最後のライブはいつか」とか「ニューヨークのセントラルパークでライブを行った日はいつか」、「ヘンドリックスと会った日は」などの日付について、「シド、いつだっけ?」とフリップはその都度彼に尋ねた。それに対しスミスは、即座に正確な日付を答えていた。
10.フリップはかつて、デヴィッド・ボウイのツアーハットを空港のトイレに忘れたことがある。
質疑応答の時間にフリップは質問者を無作為に指名したが、1985年から開講しているギター教室Guitar Craftのセッションに参加する受講者を選ぶ際も、よく同じ方法を採用しているという。ある年に彼らが使ったハットがどれほど貴重なコレクターズアイテムだったかを振り返った。元々のハットは、フリップのコラボレーターだったデヴィッド・ボウイが1983年に行ったシリアス・ムーンライト・ツアーのドイツ公演時にかぶっていたものだった。Guitar Craftのスタッフのひとりがデヴィッド・ボウイの同ツアーで警備の仕事に就いていた関係で、記念品としてボウイのハットをもらった。その後スタッフはそのハットをフリップに譲り渡した。ただ新たなオーナーは、そう長くハットを持っていられなかった。「イングランドへかぶって帰ったが、ヒースロー空港のトイレで脱いでそのまま置き忘れてしまった」とフリップは明かす。「だから全く知らない誰かがどこかで、eBayなんかで高く売れるアイテムを手にしているんだ」
11.ロバート・フリップなしのキング・クリムゾンはありえない。
この日最も短いやり取りは、最も聴き応えのあるものだった。「キング・クリムゾンはロバート・フリップ抜きでもキング・クリムゾンと言えるでしょうか?」とあるライターの問いに対しフリップは、「ノー」とほとんど躊躇なく否定する。「では、あなたがパフォーマンスを止める時が、バンドとしてのキング・クリムゾンの終わりでしょうか?」には「イエス」と答えた。フリップは、バンドの結末は決まっていないと明確にしたものの、今我々は「彼が止めたらキング・クリムゾンも終わる」ということを理解した。
12.しかし彼はかつて、ジェネシスのスティーヴ・ハケットと交代することも本気で考えた。
1974年、フリップは突然キング・クリムゾンを解散して音楽業界の一線を退き、J・G・ベネットとG・I・グルジェフにスピリチュアルの教えを学んだ。「それまで私が関わっていたプロフェッショナルライフのものすごい恐ろしさや愚かさに、私は参ってしまっていた」とフリップは当時を振り返った。しかし彼は「他のメンバー、ローディーやバンドの音楽に対する責任を感じていた」と続ける。バンドを完全に終わらせることなしに自分が身を引く方法を模索する中でフリップは、結成時の元メンバーでサックス奏者のイアン・マクドナルドに再加入を打診した。「そうすることで初期キング・クリムゾンの血統を継ぎ、バンドの次のステップに権威を持たせられると考えた」とフリップは言う。さらに「別のギタリストを加入させるのが、キング・クリムゾンにとっては比較的自然な流れだろう」と彼は考えた。そうして彼の頭に浮かんだ候補のひとりが、当時ジェネシスでギターをプレイしていたスティーヴ・ハケットだった。しかし、フリップ抜きのキング・クリムゾンが実現することはなかった。フリップが自分のアイディアをマネジメント側へ伝えた時、「我々はロバートなしのキング・クリムゾンに興味はない」と却下されたのだ。
フリップが脱退を考えたのは、これが初めてではなかった。マクドナルドとオリジナルのドラマーだったマイケル・ジャイルズが1969年後半にバンドを抜けた時、フリップは自分が代わりに脱退すると提案した。前出のシド・スミスの著作によると、マクドナルドとジャイルズは、クリムゾンにとって重要なのは「自分たちよりもフリップ」だとして申し出を断ったという。そうしてフリップはバンドの事実上のリーダーとなった。「少なくとも45年以上に渡り、私はキング・クリムゾンを誰か他の人間の手に委ねようとしてきた」と、フリップは明かした。
13.フリップはキング・クリムゾンの美学をとことん守ろうとしている。
キング・クリムゾンは長年の活動の中で、さまざまな分派を生んでいる。新旧メンバーによるフリップ抜きのクリムゾン分家が、違う名前でキング・クリムゾンの楽曲をプレイしてきた。フリップがそれらの活動に協力することも多い。例えばマクドナルド、ジャイルズ、そして後にクリムゾンへ加入するジャクスジクらが結成した21stセンチュリー・スキッツォイド・バンドの名付け親は、フリップだ。しかしフリップが、スティック・メン(現メンバーのトニー・レヴィンとパット・マステロットのバンド)とエイドリアン・ブリュー・パワー・トリオによるCrimson ProjeKCtツアーに対する不快感を露わにしたのは、この日の最も印象的なシーンのひとつだった。フリップは、2014年3月にロンドンのシェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われた彼らのライブを観に行った。「とてもエキサイティングだった」と感じ「『スキッツォイド・マン』を求めてジャンプし叫ぼうとしていた」というが、その気持ちもやがて冷めた。
「スティック・メンとエイドリアン・ブリュー・パワー・トリオの素晴らしいメンバーがプレイするキング・クリムゾンの楽曲は、音符の羅列であり、音楽ではなかった」とフリップは言う。「言い換えれば、キング・クリムゾンは建物を離れなかったということ。キング・クリムゾンは建物に入りすらしていなかった。私は怒りを感じた」と彼は、全く笑えない状況に対する怒りに歯ぎしりし、繰り返す。「私は怒った」
「そして私は、キング・クリムゾンの曲は二度とプレイしたくないと思いながらシェパーズ・ブッシュ・エンパイアを出た。酷かった。2組のトリオは素晴らしかったがキング・クリムゾンとは何の繋がりもなかった」と彼は証言する。もちろん彼はその後、クリムゾンを再び始めることになる。しかし「厳しい選択だった。なぜなら私は本当に打ちのめされたから」という。
14.フリップとレスター・バングスの素直でウィットに富んだやり取り。
フリップによる”素直な耳”キャンペーンと併せ、彼は2019年を、バンドに対する”誤解された見方”を蹴散らし訂正するチャンスと捉えている。ここで前出の「プログレッシブ・ロックの池に浮かぶ藻が皆をがっかりさせようとしている」のフレーズが飛び出す。この日フリップは、メディアによる容赦ないさまざまな描写を分類した。彼は、1971年のアルバム『アイランズ』に対するCreem誌に掲載されたレスター・バングスによるレヴューを引き合いに出す。フリップによると、バングスはインストゥルメンタル室内音楽「かもめの歌」について「ヴァギナ用消臭剤のコマーシャル曲のようだ」と評価したという。当然、会場は爆笑した。「私はそれに対して個人的に不快感を示したことはない」と彼は言う。「いつ聞いても面白い。他の人にも彼のコメントを楽しんでほしい」
フリップはまた、ブライアン・イーノがプロデュースし、フリップがゲスト参加したトーキング・ヘッズのアルバム『フィア・オブ・ミュージック』のセッション中にバングスと会った時のことも話した。バングスはコントロールルームの外でフリップにコメントを求めた。バングスはフリップに「私はあなたの作品をとても気に入っているが、キング・クリムゾンでの作品は全く好きになれなかった」と言ったという。フリップはバングスを”尊敬できる人”と表現し、「その批評家に対し悪意は抱いていない」と再度強調した。フリップには後日、皮肉をこめて反撃するチャンスがあったという。「その後ほどなくしてレスターのバンドで歌う機会があり、彼と実際に会った。本当に酷かった。その後彼と少し話したが、彼も気づいていたと思う」
15.完璧主義者だと評判のフリップは、ミスも大好き。
キング・クリムゾンの根幹をなす特徴である、「正確さと自然さという一見相反するものをどのようにバランス取るか」という質問が投げかけられた。フリップは、キング・クリムゾンに関する限り「正確さは”相対的な言葉”だ」と指摘する。彼はジャクスジクがバンドに加わった時のことを例に挙げた。彼はよくミスをしていると思う一方で、フリップ曰く「ロバートは負けた」という。「個人的に、私は優れたミュージシャンがミスしても気にならない。むしろ大好きだ」と彼は続けた。「なぜなら、例えば2000人のオーディエンスの前でミスをした時に対応するミュージシャンの本質を見ているのだから。おそらくオーディエンスの大半は、ミュージシャン本人よりも楽曲をよく知っている。」
実際の例として彼は、2017年に行ったニュージャージーでのライブを挙げた。曲のある箇所でベースのトニー・レヴィンが2拍早く入ってしまった。プレイしていたのは2000年の壮大な曲「ザ・コンストラクション・オブ・ライト」で、各メンバーが違うタイミングでプレイしていたという致命的なミスだった。同ライブの録音を聴き返したフリップは、この時のパフォーマンスは、これはこれで不思議な魅力があると感じた。「時折発生するメンバー同士のリエンゲージメントのようなもの。『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』の学ぶところの多いバージョンは、無料で視聴できるようにした」