今も語り継がれるクイーンのライヴ・エイドでのライブ映像において、スパイク・エドニーが映る場面はほとんどないが、「ハマー・トゥ・フォール」の終盤に差し掛かる12:22で一時停止すると、バックにいる彼の姿を確認できる。キーボードの山の横でギターを弾いているダークヘアの男性、それが彼だ。キーボードとピアノ、コーラス、リズムギターまで担当する彼は、その約1年前にサポートメンバーとしてバンドに迎えられて以来、1992年にウェンブリー・スタジアムで行われたフレディ・マーキュリーの追悼コンサートから、ウェストエンドのミュージカル『ウィー・ウィル・ロック・ユー』、2000年代中盤に発表されたポール・ロジャースとのアルバム制作およびリリースツアー、そして現在も続くアダム・ランバートとのコラボレーションまで、長い道のりをバンドと共に歩み続けてきた。
過去35年間に渡って、エドニーはあらゆる局面で重大な役割を果たしてきたが、彼の名前を知らないバンドのファンは少なくない。大成功を収めているRhapsody北米ツアーの終盤、彼は本誌の電話取材に応じ、ライヴ・エイドでのステージ、『アメリカン・アイドル』でアダム・ランバートを知った時のこと、そしてバンドの未来について語ってくれた。
ーツアーの調子はいかがですか?
絶好調だと言っていいんじゃないかな。その前の2つのツアーで調子が上がってきてはいたけど、この『ボヘミアン・ラプソディ』ツアーで完全に突き抜けたと思う。昨夜の(ニュー・オーリンズ公演での)歓声は過去最大級だったね。誰もが心の底から楽しんでるのが伝わってきたよ。
ーあなた自身のミュージシャンとしての歩みについて教えてください。初めて行ったコンサートは?
僕の12歳の誕生日に、母さんが連れて行ってくれたビートルズのコンサートだね。1963年12月3日で、会場は僕の地元のPortsmouth Guildhallだった。
ーすごいですね。コンサートはいかがでしたか?
12歳の少年が経験する人生初のコンサートとしては、あまりに強烈だった。何より残念だったのは、歓声がすごすぎて演奏をまともに聴けなかったことだね。彼らがどの曲を演奏しているのかを、僕はマイクの前に誰が立っていてどんな風に頭を動かしているかで判断してたんだ。ボディランゲージってやつだよ。多分7曲くらい演ったんじゃないかな、出演者は他にもいたからね。バンドが2時間半くらい演奏して、何もかもをクリアに聞き取れるような今とはまるで状況が違ったんだ。
ーミュージシャンになりたいと思ったのはいくつの時でしたか?
そのコンサートに行った日だよ。
ークイーンを知った時のことについて教えてください。
彼らのことは1970年代初頭に読んだMelody Makerで知った。まず何と言っても、バンド名に呆れたね(笑)王室と関連付けるなんて、大胆にもほどがあるよね。初めて聴いた彼らの曲は「ナウ・アイム・ヒア」だった。
しばらくして生中継されたクイーンのコンサートをラジオで聞いたんだけど、当初は凝ったアレンジが得意なヘヴィなバンドっていうのが好きになれなかった。「ナウ・アイム・ヒア」が気に入ったのは、ソングライティングが独特だったからだ。あの頃誰もが書いてたような、見え透いたポップソングとは一線を画してた。その後「キラー・クイーン」が出て、誰もが彼らの才能を認めるようになったけど、僕はそんなに入れ込んでたわけじゃなかった。興味本位で観察してるって感じだったね。
ー70年代に彼らのライブを観たことはありましたか?
生では観てないけど、ラジオで聴いたよ。アルバムではギターやコーラスを何重にも重ねてたけど、ライブじゃもちろんそれは不可能だ。だからサウンドの面で言えば、正直がっかりさせられたね。
ーあなたは「カモン・アイリーン」を大ヒットさせた直後だったデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのツアーに同行しています。その経緯は?
トロンボーン奏者として金を稼いでた時期があったんだ。1980年代にはデュラン・デュランやデキシーズ、ボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツとかと一緒にやったよ。
ーデキシーズでの活動は楽しかったですか?
そうは言えないな。ホーンセクション数人とベーシストは、僕と同じセッションミュージシャンだった。仲違いしたかやりたくなかったか、何かしらの理由で抜けた穴を埋めるための存在だよ。バンドには独自のエネルギーとリズム感があったけど、基本的にはリードシンガー(ケヴィン・ローランド)のワンマンバンドだった。雇われてそういうバンドに入ると、どんな時も口を閉ざして空気を読みつつ、ただ与えられた仕事をやるしかないんだ。彼は絶対服従を要求したからね、トランプみたいにさ。
ークイーンへの参加についてお聞きします。
僕の記憶が正しければ、最初のキーボーディストはモーガン・フィッシャーだったはずだ。彼はフレッドと喧嘩したんだ。ある日シャンパンのボトルを手にリムジンに乗り込んで、彼はそのまま戻って来なかった。
ー大失敗ですね。
フレッドと揉めるなんて馬鹿だと思うよ。度胸は認めるけどね。その後彼らは、アリス・クーパーと一緒にやってたFred Mandelを雇った。どういう経緯だったかは知らないけど、彼が後任になったんだ。だから僕は彼の後釜ってことになるね。モーガン・フィッシャーが参加する予定だったツアーの残りの行程は、彼が全部こなした。語り草になってる南米ツアーの後、バンドはしばらく休暇をとって、その後ミュンヘンで『ザ・ワークス』を作った。
詳しい事情は知らないけど、彼らは代役を必要としてた。僕に白羽の矢が立ったのは、偶然だったとしか言いようがないね。僕がロンドンのとあるバーで演奏してた時に、10年くらい前に知り合ったクイーンのクルーの一員が来たんだ。「こんなとこで何やってんの?」って感じで、お互いに近況報告し合った。今何をやってるんだって僕が聞くと、彼はこう言った。「ロジャー・テイラーのアシスタントをやってる。実は今、クイーンがキーボーディストを探してるんだ。興味あるかい?」僕はこう返した。「もちろんさ」
言うまでもなく、そんなケースは滅多にない。
「パスポートは持ってるか?」って聞いてきた彼に、僕は持ってると答えた。「世界ツアーに出られるか?」っていう質問に、僕はイエスと答えた。すると彼はこう言った。「よし、じゃあ月曜にミュンヘンに飛んでリハーサルを始めてくれ」僕は驚いてこう答えた。「冗談だろ?彼らが僕のことを気に入らなかったらどうなるんだ?」すると彼はこう言ったんだ。「その時は翌日の飛行機で戻ってくることになる」あれから35年経った今も、こうして一緒にやってるわけだけどさ。
ー当時も現在も、バンドにおけるあなたの最大の役割は、4ピースだった頃よりもライブにおける音源の再現性を高めることだと思います。
そうだね。言うまでもなく、経験を積むごとにクオリティは上がっていった。一緒にやり始めた時、僕は前任のプレイヤーがどういう役割を担っていたのか把握してなかった。でもバッキングヴォーカルについては、ジョン(・ディーコン)は一切歌ってなかったけど、ブライアン(・メイ)は5割くらいはマイクの前に立って歌ってたし、ロジャーの歌唱力はかなりのものだった。要は2人どころか、バンドにはヴォーカリストが3人いたってことだよ。僕は「RADIO GA GA」の音源でも使われてた、ヴォコーダーっていう時代遅れの代物を使うことにした。マイクに向かって歌いながら、手元の鍵盤でそれを加工してやるんだ。そのやり方で音をある程度分厚くすることはできたけど、彼らの甘美なヴォーカルハーモニーを完全に再現できないことが歯痒かった。でも今はステージに6人いて、僕はその中で一番お粗末なシンガーだ。彼らのおかげで、今はそういうパートも再現できる。
ーフレディは血の通った人間というよりも、もはや神格化されてしまっているようにも感じます。普段の彼はどんな人物でしたか?
彼のことを誰よりもよく知っているのは、バンドのメンバー3人とジム・ビーチ、それにメアリー・オースティンだよ。彼らはフレディの親友だったし、スーパースターになる前の彼を知る数少ない人々だ。彼がどんな人だったかと問われれば、ディーヴァだったと答えるね。彼は優れたユーモアのセンスの持ち主で、警戒心が強かった。すごくシャイでもあったね。ステージではロックスターとしての資質を存分に発揮しつつ、普段は静かに過ごすことが好きだった。僕の知る限りはね。僕が加わった1984年の時点で、彼が最もワイルドだった時期はもう過ぎていたんだと思う。それに彼は超有名人だったから、気軽に外を出歩くこともできなかった。ごく一部の人間とだけ関わる、隠遁生活のような毎日だったと思うよ。僕も何度か彼の自宅でのパーティーに招かれたよ。ツアー先で彼が出歩けない時は、みんなで彼が泊まってるスイートでTrivial Pursuit(カナダのボードゲーム)をやってた。すごくロックンロールだろ?
ー彼の腕前はどうでしたか?
見事だったよ。彼はボードゲームの達人だった。一番得意なのはScrabbleで、ロジャーとはライバル同士だった。昔は大規模なScrabble大会をやってたよ。ロジャーは今でもやってるね。
ーライヴ・エイド出演の話が出たのはいつだったか覚えていますか?
覚えてるよ。クイーンのサポートを務めるようになった時、僕はボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツのライブにも参加してた。『ワークス』のヨーロッパツアーが終わりに近づいてた1984年のクリスマスに、バンド・エイドが出したシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が大ヒットした。しばらくして僕は、Rock in Rioに出ることになってたクイーンに復帰した。その後またしばらく間が空いて、僕はブームタウン・ラッツのイギリスツアーに同行した。確か1985年の3月か4月で、毎晩ショーの最後にバンド・エイドの曲を演ってた。各会場で募金を募ってたからね。
ツアーバスの車内で、隣に座ってたゲルドフが僕にこう言ったんだ。「あるコンサートを企画してるんだ。出演するのはレッド・ツェッペリン等々…」どうやって実現するつもりなんだって尋ねると、彼はこう言った。「ロンドンとアメリカで同時に開催するのさ」僕はこう言った。「絶対無理だ、いくらなんでも無謀すぎる」絶対に実現させると言って譲らなかった彼は、僕にこう言ったんだ。「クイーンに声をかけてみてくれないか?」ってね。自分でやればいいだろって僕が返すと、彼はこう言ったんだ。「電話をかけてその場で断られたら、俺きっとブチ切れちまうからさ」
結局僕が彼らに伝えることになった。ツアー先のニュージーランドで、僕はディナーの場でその話を持ち出した。「ゲルドフがとんでもないイベントをウェンブリー・スタジアムとアメリカで同時開催しようとしてるんだけど、興味あるかい?」確かジョン・ディーコンだったと思うんだけど、「なんで直接言ってこないんだ?」って訝しんでた。僕はこう返した。「君らの返事を聞けば、その場で改めて打診してくるはずさ」それで出演が決まったんだ。
ーコンサートに向けたリハーサルと、2時間のステージを20分に凝縮するプロセスについて教えてください。
実のところ当時は、それが歴史に刻まれる一大イベントだっていう実感がなかったんだ。あの頃はバンドも勢いづいていて、いつでも演奏できる状態だった。持ち時間が20分だと知って、その間に何ができるかを全員で話し合った。彼らが出した答えは、バンドの代名詞でもあった長尺のメドレーをやることだった。オーディエンスが喜ぶ曲をやろうってことになって、定番の「ボヘミアン・ラプソディ」と、当時のツアーのハイライトになってた「RADIO GA GA」を盛り込むことが決まった。会場に着いて出演時間を確認すると、後はもう流れに身を任せるだけだった。ファンを興奮させるようなことが言えなくて歯痒いけど、大掛かりなプランなんかは特になかったんだ。当たり前のことをやった、そういう感じなんだよ。
他のバンドの面白くもないステージを見ながら、なんでみんなヒット曲を凝縮したセットを組まなかったんだろうって、僕は首を傾げてた。それが求めらていることなんだって、どうしてみんな分からないんだろうってね。僕ら以外、誰もそのことに気づいてないみたいだった。
ー演奏中、すごいことをやっているっていう実感はなかったと?
なかったね、いつも通りのギグだった。違いといえば日中のショーだってことと、まともなプロダクションがなかったことくらいさ。さっきも言ったけど、僕たちは準備万端だった。映画じゃ2年近く演奏していなかった僕らがステージで浮き足立ってたってことになってるけど、あれは事実じゃない。僕らは過去6ヶ月間ツアーに出ていたし、アンサンブルは完璧だった。違ったのは演奏時間だけで、僕らはそれに見合ったものを組んだ。客を喜ばせる方法を考えた結果、「ボヘミアン・ラプソディ」をギターソロのところまで演って、そのまま「RADIO GA GA」に繋ぐっていう流れを考えついた。ほぼ丸ごと演ったのは「ハマー・トゥ・フォール」だけだね。「愛という名の欲望」では、フレッドの案で僕がステージ前方のグランドピアノを弾いた。カメラには映ってないけどね。
ーあなたがあのステージに立ったことが広く知られていないのは、カメラに映っていないからだと思いますか?
間違いなくね。
ーいくつかの場面で一時停止してみると、部分的に映っているところはありました。
僕が後方のキーボードから前方のグランドピアノに移動するところは、ゼロコンマ何秒か映ってるよ。「愛という名の欲望」は全部僕が弾いてるんだけど、僕の方を向いてるカメラは皆無だった。ロジャー・テイラーに向けられてるやつもなかったけどね。
ー1986年のツアーはいかがでしたか?
ライヴ・エイドの反響を思いっきり反映してたね。バンドの人気に拍車がかかって、さらに映画『ハイランダー 悪魔の戦士』もあの年に公開された。84年のツアーではアリーナを回ったけど、あの年は全部スタジアム公演だった。ウェンブリー・スタジアム公演があっという間に完売したことを受けて、取ってつけたかのようにツアーの最後にネブワース公演が追加されたんだ。知っての通り、あれがフレディの最後のステージになり、オリジナルメンバーのクイーンの最後のライブになった。なのに映像が残っていない。それ以来何もかもが撮影されるようになったよ。
ーネブワース公演で特に印象に残っていることは何ですか?
そうだな…メンバー全員ヘリコプターでの移動が気に入ってたから、ライブが終わるとすぐそれに乗って移動したんだ。僕が会場に残ったのは、バックステージで壮大なツアー打ち上げパーティーがあって、トップレスのモデルがたくさんいたからだ。主役が僕以外に誰もいないもんだから、あちこちから写真攻めにあったよ。その後は僕も帰宅した。当時は独身だったから、多少は羽目を外してもよかったんだよ。
ーあなたは80年代にオリジナルメンバーのクイーンのツアーに2度同行していますが、アメリカには来ないままでした。
それは『ホット・スペース』の評判が良くなかったからだよ。「地獄へ道づれ」の成功を踏まえて、彼らはソウル / ファンク / ディスコに傾倒したわけだけど、思ったような形にはならなかった。今あのアルバムの曲をやると、すごくいい感じなんだけどね。でも当時は評判が良くなかった。バンドのアメリカでの人気は下火になって、「RADIO GA GA」もヒットしなかったし、メンバーが女装した「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」のビデオはMTVで流してもらえなかった。ヨーロッパとは違って、MTVはああいう文化的なジョークが理解できなかったんだ。それはアメリカの他のメディアも一緒で、あのビデオはどこの局でも流してもらえなかった。
勢いを失ってしまったことは残念だったね。だからバンドは、人気が下火のアメリカにわざわざライブしに行くよりも、もっと需要がある他の国に行くべきだって考えたんだよ。
ーあなたは1992年に開催されたフレディーのトリビュートコンサートに深く関わっていますよね。
そうだね。企画から関わったから、書類にはその他の提唱者と一緒に僕の名前も載ってるはずだよ。僕らは誰にどの曲を歌ってもらうかを考えて、様々なアーティストをリストアップした。全てが実現したわけじゃないけど、大半は僕らの希望通りになったよ。飛行機1台分くらいの大きさがある北ロンドンのリハーサルスペースで目にした光景は忘れられないね。階下にはデヴィッド・ボウイ、アニー・レノックス、エルトン・ジョン、それにロバート・プラントがいて、まるで病院の待合室で自分の名前が呼ばれるのを待ってるみたいだった。笑えるくらい非現実的な光景だったよ。
ーそのコンサートで、あなたはデヴィッド・ボウイとミック・ロンソンと素晴らしいコラボレーションを披露しました。あのショーでは、他にも歴史的瞬間が数多く生まれました。
あのコンサートは誇るに値するね。大成功を収めたし、関われて光栄だったよ。ライヴ・エイドみたいなところもあったけど、出演者たちはライバル心をむき出しにするんじゃなくて、みんなお互いをリスペクトしてた。それはフレディーの追悼式の時も同じだったよ。みんなお互いに敬意を払うことを忘れなかった。
ーフレディー抜きで活動を続けることは困難であり、事実上バンドの終焉を迎えて複雑な気持ちだったと思います。
みんなそう感じてたよ。それに加えて、ロジャーはソロアルバムを出そうとしてたし、ブライアンもそうだった。バンドは終わった、これからはそれぞれソロでやっていくっていうのが共通認識になってた。2004年まではね。今思えば長かったね。
ーあなたは90年代に行われたブライアン・メイのツアーにも同行していますが、いかがでしたか?クイーンでの経験を考えれば、物足りなく感じていたのではと思うのですが。
そう思われるかもしれないけど、僕はクイーン以外でも活動してたからね。スタジオミュージシャンだった僕は、他にもいろんな活動をしてた。ブライアン・メイのショーの規模は大きくはなかったけど、やりがいは十分にあったよ。環境が少し変わったってだけで、素晴らしい曲もプレイできた。新しい仲間もできたし、ブライアンがフロントマンを務めるバンドでのツアーは楽しかったよ。1994年には彼のバンドのメンバーだったCozy Powell、Neil Miurray、Jamie Jonesに声をかけて、僕は自身のバンド(Spikes All Stars)を組んだ。あれから25年経つけど、今でも活動を続けてるんだ。9月にはバンドの25周年記念コンサートが控えていて、12日には僕の地元のポーツマスで、14日にはロンドンのShepherds Bush Empireで開催されるよ。コンサートの利益は全額、Freddie Mercurys Phoenix Trust for HIV/Aidsに寄付されるんだ。
ーあなたは数多くのエピソードをお持ちですが、自伝の出版を考えたことはありますか?
このトピックが持ち上がるとは思わなかったな。いろんなところでこういうエピソードを披露してきたけど、「本を出すべきだ!」って言われることは多いよ。基本的に僕は、ハンモックに横たわって延々とマティーニを飲み続けてるようなのんびり屋なんだ。でも僕も歳をとったし(現在67歳)、そのうちに記憶がぼんやりし始めるかもしれないから、少し前からメモを取り始めたんだ。何かしらのエピソードを披露したり思い出すたびに、ノートに書き記すようにしてるんだよ。あるエピソードが別の話を5つくらい連想させて、それがさらに分岐していくから大変だけどね。でも取っ掛かりはできてて、2020年の秋頃までには完成させたいと思ってる。SASのツアーが終わったら、ヨシュア・ツリーの別荘に缶詰になって作業するつもりだよ。僕の母さんのブレンダがいつも言ってたんだ、「やると決めたらやる」ってね。でもまずいな、自分で締め切りを設けちゃったよ。僕は締め切りに追われるのが大嫌いなんだ!
ージョン・ディーコンは90年代後半にシーンから姿を消しました。最近彼と話しましたか?
彼とはもう何年も会ってないよ。彼はもうすっかり隠者だね。最後に会ったのは2002年で、ロンドンでの『ウィー・ウィル・ロック・ユー』のオープニング公演の時だよ。
ー彼のことを懐かしんだりしますか?
そうだね。彼とはウマが合ったし、同い年なんだ。僕の方が数ヶ月だけ若いけどね。最初のツアーでは、いつも彼とつるんでたよ。音楽の趣味も似てた。彼もソウルが好きで、お互いに意気投合したんだ。彼は出歩くのが好きで、初めてのワールドツアーで観光に繰り出す僕に付き合ってくれた。彼に会いたくなる時もあるけど、彼はああいう道を自分で選んだんだよ。
ークイーン+ポール・ロジャースの起源について教えてください。
当時ポール・ロジャースはFreeのヴォーカルで、クイーンの2人はバンドのファンだった。僕も好きだったよ。ワイト島フェスティバルで何度かFreeのライブを観て以来、ポール・ロジャースのファンになったんだ。きっかけはテレビ中継される胡散臭いアワードだった。有名人を壇上に上がらせるために新しい賞を作るような、中身空っぽのやつだよ。当時ポールはソロで、クイーンにはシンガーがいなかったから、「『All Right Now』と『ウィー・ウィル・ロック・ユー』を一緒に演奏するっていうのはどう?」ってプロデューサーが提案したんだ。実際にはいろいろと複雑なやりとりがあったんだろうけど、基本的にはそういう形で始まった。2人は彼のファンだったから、「彼がその気なら大歓迎さ」って感じだった。それで一緒に音合わせしたんだけど、彼の歌はバッチリだった。その番組企画の後もコラボレーションは継続して、僕らはツアーにも出た。すごくいい出来だったと思うよ。
個人的に、僕はポール・ロジャースの声が大好きなんだ。必要とあればどんな曲だって歌いこなすけど、彼が本当に好きなのはブルースとソウルなんだ。彼のことを好きじゃない人もいるけど、僕は肯定派だね。コラボレーションは成功だったと思ってるし、僕は今でも彼のファンだよ。
ーロジャーはポール・ロジャースの歌唱力は認めつつも、クイーンの曲を歌うには少しブルージー過ぎると話していました。
曲によっては確かにそうだろうね。彼の声にマッチしていない曲もあったと思う。でもハマってるやつは本当に見事だった。下手をすれば思いっきり裏目に出かねないことに、彼は果敢に挑戦したんだよ。彼は深い敬意をもって臨むことで評価を得たと思うし、僕はそんな彼のことをすごくリスペクトしてるよ。
ーそのツアーの終わりがクイーンの終焉になると考えていましたか?
これが最後だろうっていつも思ってるよ。あの時も他に選択肢はないだろうと思ってた。続けていく方法も理由もなかったからね。
ーYoutubeでMarc Martelの動画を観た時はフレディそのもので驚きましたが、あなた方はそっくりさんを欲しているわけではなかったと。
そうだね。それをやっちゃうとトリビュートバンドになってしまうからね。「フレディそっくりだけど、フレディじゃない」なんて言われるのはごめんだよ。アダム(・ランバート)の声はフレディとは全く似ていないけど、彼が素晴らしいシンガーだってことはみんな認めてる。「声も見た目もフレディとはまるで似ていないけど、彼はフレディじゃないし、彼は彼で素晴らしい」そうあるべきなんだよ。
ー彼の歌を初めて聴いた時のことを教えてください。
僕の妻が教えてくれたんだ。僕らはヨシュア・ツリーにいて、僕がお気に入りの小さなキャビンの外でくつろいでると、妻が「テレビで面白いのやってるわよ」って声をかけてきた。何を観てるんだって訊くと『アメリカン・アイドル』だっていうから、遠慮しとくって言ったんだ。ああいうのは僕の趣味じゃないからね。でも彼女は「観たほうがいいわよ」って念を押してきた。
マティーニのおかわりを作るつもりで小屋の中に戻った僕は、彼が歌う「胸いっぱいの愛を」を耳にした。終盤に差し掛かったときに、僕はこう思った。「ここが肝なんだ」ってね。彼は最後のカデンツを見事に、いとも簡単に乗り切ってみせた。あれだけ自信たっぷりにあの曲を歌いこなすなんて、只者じゃないと思った。Googleで検索してみると、彼がオーディションの場で「ボヘミアン・ラプソディ」をアカペラで歌う動画を見つけた。僕はすぐさまメールを送った、こう書き添えてね。「新しいシンガーが見つかった」
ーそのメールは誰に送ったんですか?
ロジャーだよ。僕が番組を観たのが何週目だったのかわからないけど、アダムと名前も思い出せないような誰か(Kris Allen)が決勝戦に進出した頃、クイーンに番組で2人と共演してほしいっていうオファーが来たんだ。2人はその場で承諾した。僕がロジャーにメールを送って以来、2人とも彼に注目してたからね。会ってみるとアダムはものすごくチャーミングだったし、何より問答無用の歌唱力の持ち主だった。まさに運命の出会いだね。
ー彼の若さなど、不安に感じる要素はありませんでしたか?
なかったね。大事なのは歌えるかどうかってことだし、テレビに映った彼はエルヴィスみたいだった。「彼しかいない。クイーンの曲を歌いこなすゲイのエルヴィスだぜ?リスク?そんなものはない」って感じだった。
ーアダムとの最初のリハーサルはどうでしたか?
スムーズそのものだったね。初めて人前で一緒にプレイしたのは、ベルファストで行われたMTV Europe Awardsだった。短い持ち時間の中でできるだけ多くの曲を披露できるよう、当日も僕らはメドレーを組んでた。その後はラスベガスでiHeartRadioのフェスティバルでもプレイしたよ。その2つのパフォーマンスで、彼は歌い方とステージでの存在感を確立したんだ。
クイーンの2人はスピーディーな作業を好むんだ。ダラダラしたり、無意味なことに時間を割くのを嫌うんだよ。何かを試してみて、ダメだと分かったら即破棄する。幸いなことに、アダムは準備万端だった。僕らが何かを提案するたびに、彼は見事に対処してみせた。要するに、彼がバンドに馴染むまでにそう時間はかからなかったってことだよ。彼は舵をとるのも得意だ。その上で僕が役立ちそうだと思ったらしく、何かと目で合図を送ってきてた。僕が頷いたり眉を上げると、そこから曲が展開していくんだ。ステージに立つ時、僕らはお互いをすごく信頼してる。今じゃ阿吽の呼吸ってやつで、そういう合図もなしに意思の疎通ができるようになったよ。
ーウクライナでのショーはどうでしたか?彼と組んで以来初の本格的なコンサートでしたが、ヒヤっとするような瞬間もあったのでは?
サウンドチェックがまともにできなかったことにはイラついたね。エルトン・ジョンは後に予定があるとかで、僕らより先に出演したんだ。彼の後に続くのは容易じゃない。オーディエンスの数も半端じゃなかったしね。具体的な数は知らないけど、街の広場から人が溢れ出して、両側の道もスクリーンを観てる客で埋め尽くされてた。緊張するなっていう方が無理な状況だったけど、彼は見事に乗り切ってみせた。みんなパフォーマンスの出来に満足してたよ。
ー彼と組んで以来初のアメリカツアーは集客に苦戦しました。バンドは1982年以来本格的なアメリカツアーを開催していなかったため、プロモーターも手探り状態だったのでしょうか。
僕らのモチベーションは申し分なかったけど、批判的に受け止めたオーディエンスが多かったんだ。「あれはフレディじゃない。一体どういうつもりなんだ?」とか「フレディのいないクイーンなんて観る価値がない」っていう意見が多かった。今のラインナップで行なった初のアメリカツアーでは、バンドの昔からのファンの大半はそういう反応を示してた。でもアダムのステージでの存在感と、彼が曲に新たな命を吹き込むさまを目の当たりにして、そういうファンも態度を改めるようになった。今のツアーの成功ぶりは、そのことを物語ってるね。
ーオーディエンスの中には、クイーンのことをほとんど知らないアダムのファンもいると思います。
当初は腕を組んでステージを睨んでるようなクイーンの古いファンは「何だこりゃ?」って感じだっただろうし、アダムのファンたちは「彼の後ろにいるおっさんバンドは何?」って訝しんでたと思う。その一方で、両親がクイーンのファンでいつも曲を聴いてたっていう若いファンもいたよ。でも状況は大きく変わった。僕らのライブに来る客の9割以上は、フレディー・マーキュリーがいた頃のクイーンのライブを観たことがない。でも彼らはフレディの映像や、テレビのコマーシャルやスポーツ番組やら何やらで、無意識のうちに彼らの曲に慣れ親しんでる。たとえそれがクイーンの曲だと知らなかったとしてもね。
「ファット・ボトムド・ガールズ」を聴いて、感動のあまり涙を流してるティーンエイジャーを目にすることもあるよ。かと思えば、「俺は1975年にやつらのライブを観た」なんて自慢してる年配の客もいる。今じゃ彼らみんな、声をひとつにして大合唱を聞かせてくれるんだ。ジャンルや世代のギャップを飛び越えるっていうのは、昔からクイーンが実践してきたことだからね。流行りに便乗しなかった彼らの音楽は、決して風化しないんだ。
ーロジャーとブライアンは演奏を楽しんでいるのがよく分かりました。長く封印されていた自分たちの曲を、ファンの前で演奏できるようになったことが嬉しくて仕方がないのでしょうね。自分たちが作り上げたものの大きさを、改めて実感しているのだと思います。
その通りだね。彼らにとって、音楽は何より大切なものだからね。だからこそ彼らはステージに立ち続けるわけだけど、マディソン・スクエア・ガーデンを満員にしたり、今でも世界中を駆け巡ってることに、すごくやり甲斐を感じていると思うよ。来年には日程をもう少し追加することを考えてるんだ。素晴らしいことだよ。彼らはどっちも70代で、僕ももうすぐその仲間入りだ。ああいう規模のライブをやると、当然身体にも負担がかかる。今回の日程はもうすぐ終わりだけど、その後は全員がしばらくオフを取るんじゃないかな。9月に(Global Citizen Fest出演のため)ニューヨークに戻ってくることは、今から楽しみにしてるけどね。
ークイーンの伝記映画のアイディアを初めて聞かされた時、どう思いましたか?
うーん、懐疑的だったね。正直にいうと…ラミ・マレックの演技は本当に素晴らしかったし、オスカー受賞は然るべきだと思う。でも事実を捻じ曲げてまで、ストーリーをドラマチックにするハリウッドのやり方は疑問だね。だからあれは、真実を少し脚色した物語ってことでいいんじゃないかな。
ー「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が80年代に生まれたことになっていたり、ライヴ・エイドの前にバンドが解散したとされていたり、ファンとしては首を傾げたくなる箇所もあります。
まさにそういう部分のことだよ。モダンなエンターテインメントって、きっとそういうものなんだろうね。テレビに映った途端、それが事実になってしまうんだ。
ー自身が経験した出来事が脚色して描かれることに、違和感を覚えたと思います。
言いたいことがあったのは事実だけど、大衆向けのエンターテインメントはそういうものなんだって割り切ってるよ。インチキをして作られた曲や、まともに歌えないシンガーの曲がヒットする時代なんだからさ。映画の場合、事実云々は作り手の意向次第ってわけさ。
ー 一方で、多くの人があの映画を観てクイーンのファンになりました。以前は1日のみだったマディソン・スクエア・ガーデンでの公演も、現在では2デイズとなっています。
確かに!人気の向上ぶりは前回のツアーの時から感じてたよ。「あのヴォーカルやるじゃん」みたいな感じでアダムが評価されるにつれて、話題性も集客も伸び続けてた。そんな時にあの映画が公開されて、一気に火が点いたんだ。その気になれば、死ぬまでツアーを続けることも可能だろうね。僕はごめんだけどさ。映画で使われた曲になると大合唱が起きるのに、そうじゃない曲を演ると客がポカーンとしてるのは面白いね。
ーアダムと組んでからの9年間で、彼はシンガーとパフォーマーとしてどう進化しましたか?
ステージでの彼は自信に満ちてるよ。フレディーのことやバンドの歴史を意識しながらも、彼は自分自身でいる術を身につけたんだ。誰かの真似をする必要はないってことを、彼はよく理解してる。彼はアダム・ランバートであり、クイーンのヴォーカリストだ。彼の歌唱力やステージでの存在感は常に申し分なかったけど、今じゃライブを楽しんでるよ。
ー今後の活動についてはいかがですか?ロジャーとブライアンが引退したとして、アダムとクイーンを続けていくつもりはありますか?
ワオ!そんなこと考えたこともなかったよ。うーん、どうだろうね。あり得ないとは言わないよ。その音楽を生で聴きたいっていう需要がある限り、コンサートの開催は可能だからね。どういう形になるかは、僕にはわからないけどね。彼らはまだ現役バリバリだからさ。ストーンズが今もやってるってことには、きっと刺激されてるんじゃないかな。老いる前に死にたいなんて考える人も昔はいたけど、今は誰もそんなこと言わないだろ?何をするでもなく家でボーッとするか、世界中をツアーで回って素晴らしい時間を過ごすか。僕の答えは決まってるけどね。
ー最後の質問です。これまでの人生で「ボヘミアン・ラプソディ」を聴いた回数はどれくらいになると思いますか?
飽きるほどだってことは確かだよ(笑)想像もつかないね!