リック・オケイセックの急逝後、物凄い速度でSNS上に現れるニュースや追悼コメントを眺めながら考えていた。彼についてよく知らない人たちがこれらの情報を一斉に浴びたら、きっと訳がわからず混乱するのだろうな、と。ある人にとってはUSニューウェイブ・バンド、ザ・カーズのリーダー。ある人にとっては「ユー・マイト・シンク」や「マジック」のMVで目にしたMTV時代のコミカルなアイコン。ある人にとってはスーサイドやバッド・ブレインズを手掛けたプロデューサー。また、ある人にとってはウィーザーの育ての親、などなど。
どれもその通りなのだが、それぞれ彼のキャリアの一側面に過ぎない。”マルチ”という概念が音楽業界に定着する以前からリックは多方面で活躍していたが、かといって自分が全能の人であるかのように自己演出・喧伝するタイプでは決してなかった。なので、限られた側面でしかリックに触れていない人が多くても不思議ではない。彼の死後に初めて、「リックはこんなバンドもプロデュースしていたのか!」と知り、驚いた人も実際少なくないだろう。
すでにカーズのカバー・バージョンやサンプリングされた曲、映画で使われた楽曲などについては他所で様々に検証されているので、ここではそうした”広がり”についてではなく、リック自身の歩みと関わった作品に着目して、長いキャリアを整理していきたい。
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ベンジャミン・オールとの黄金コンビの出発点
リックは1944年生まれ、享年75。
カーズ=ボストンのバンド、というイメージが強いが、リックが生まれ育ったのはメリーランド州ボルチモア。16歳の頃、父の転勤にともなって、オハイオ州クリーヴランドへ移住した。リックの父はNASAの技術者で、現在「グレン研究センター」と呼ばれているクリーヴランドの施設で働き始めたのだ。
クリーヴランドは伝説的なラジオDJ、アラン・フリードが活躍していたことで知られるロックンロールのメッカ。この地で、リックは将来の相棒と出会う。地元のテレビ番組にグラスホッパーズというバンドのシンガー兼ギタリストとしてレギュラー出演していたベンことベンジャミン・オールと知り合い、1965年から交流を持ち始めた。
グラスホッパーズ解散後、ベンはいくつかのバンドを経て、リックとID Nirvanaなるバンドを1968年に結成。これが黄金コンビの出発点となったようだ。オハイオ州周辺で音楽活動を続けるも芽は出ないまま。各地を転々としながら活動を続け、ミシガンやニューヨークで歌っていた時期もあったという。
ザ・カーズとしてデビューするまで
この時代の活動について、2011年にリックから聞いた証言を引用しよう(以下の発言抜粋も、全て同じインタビューから)。
「ベンと僕は、ニューヨークにいた頃は2人でギターの弾き語りをしていた。その後にマサチューセッツのケンブリッジに移ってから組んだバンドは、皆がアコースティック楽器を演奏するフォークっぽいものだったんだ。何故なら、お金がなくてエレキが買えなかったから。そのバンドの名前は”ミルクウッド”だよ」
ミルクウッドはパラマウント・レコードと契約、1973年に唯一のアルバム『Hows The Weather』を残している。
「ニューヨークで知り合ったマネージャーが、ミルクウッドのアルバムを作らないかって提案してきた。僕達は『やった!』って喜んだけど、ミルクウッドはロック・バンドじゃなかったし、とにかく持っているものを出し切ってやってみようということで、あんな作品になったんだ。あのアルバムはあんまり好きじゃないし、曲も良くなかったと思う。でも、あれが最初だったからね」
しかし、パラマウント・レコードと交わした契約が仇となり、彼らは活動を制限されてしまう。
「その後3年間、他のどのレーベルでもアルバムが作れなくなってしまった。
ここで触れねばならないのが、音楽性の大きな変化だ。CSN&Yを思わせるフォーク・ロックを演奏していたミルクウッド時代から一変、ニューヨークやボストンで触れてきた先鋭的なバンドや、同時代のイギリスのモダン・ポップ勢(特にロキシー・ミュージック)の影響が、次第に顕著になっていく。
「僕たちがボストン・ローカルで演奏し始めた頃って、ラジオで色々な曲を聴いていたけれど、買えるアルバムがなかった。だから自分たちが好きな感じの曲を作って、楽しみながらやっていたんだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、モダン・ラヴァーズなんかが大好きだったよ。ボストンって大学の町で、とてもたくさん大学があるから、小さいけど非常にラジカルな音楽シーンがあるんだ。バンドも多かったし、色々と実験的なことをするにはもってこいの環境だったんだよね」
ザ・カーズ、1977年のライブ音源
その後いくつかバンドを経るうちに、シンセサイザーを含む鍵盤楽器全般を操るグレッグ・ホークスと、サウスポーの技巧派ギタリストであるエリオット・イーストン(2人はバークレー音大に通っていた経歴の持ち主)、そして元モダン・ラヴァーズ~DMZのドラマーだったデヴィッド・ロビンソンという強力なミュージシャンたちが集まってきた。ザ・カーズが発足したのは、1976年のこと。デモ・テープが評判となり、エレクトラ・レコードとの契約を獲得する。しかもマネージメントを担当したのは、それまでニール・ヤングやジョニ・ミッチェルを手掛けてきた大物、エリオット・ロバーツ(今年6月、リックより先に他界)。
メジャー・デビューを飾った、鮮烈すぎる初期2作
さて、当時エレクトラと言えば、クイーンのアメリカでの所属レーベル。カーズのデビュー・アルバム『錯乱のドライヴ』(1978年)も、クイーンを手掛けたロイ・トーマス・ベイカーがプロデュースを担当し、ロンドンで録音することになった。分厚いハーモニー、立体的で生々しいギター・サウンドは、まさにロイ印。しかし、そうした名匠のスタンプ以上に強いインパクトを与えたのが、単音弾きのシンセを飛び道具的に使ったシャープなアレンジだ。バディ・ホリー風の唱法やハンド・クラッピングなど、いにしえのアメリカン・ポップスを思い出させるパーツもちりばめたレトロフューチャー的な解釈のロックンロールは、78年当時の”ニューウェイブ”という感覚をわかりやすく体現していた。
カーズのレトロフューチャー的なイメージは、アメリカの産業を象徴する”自動車”をバンド名に選んだこととセットで語られる機会が多いが、実際のところバンド名の決め方は案外ざっくりしていたらしく、リックはこう説明してくれた。
「(ザ・カーズというバンド名は)ドラマーのデヴィッド・ロビンソンが決めたんだ。確か名前の候補がたくさんあって、街中に出てアンケートを取ったんだよ。その中で一番人気がなかった名前を選んだんだ。僕も変な名前だな、クレイジーだな、って思っていたけれど、結局それを採用した。バンドさえ気に入ってもらえれば、名前なんか二の次で、どっちみち気に入ってもらえるだろうと思っていたからね」
70年代後半にデビューしたパンク/ニューウェイブ勢はアメリカの市場においてセールス的な成功をなかなか収められずにいたが、カーズは全米のラジオで受け入れられ、アルバムも順調に売れ続けた。
カーズの登場が鮮烈過ぎたのだろう、彼らより後にメジャー・デビューしたUSバンドには、カーズのシンセ使いをなぞったと思われる例が少なくない(20/20、ブレインズ、ザ・Asなど)。恐らくレーベル側の意向もあって、売れるための要素として”カーズっぽさ”が求められるようになったのだ。
しかし、カーズの2作目『キャンディ・オーに捧ぐ』(1979年)は、そんな状況などどこ吹く風で、”2枚目のジンクス”を打ち破る刺激的なアルバムだった。アルベルト・ヴァーガスの退廃的な薫り漂うイラストを使用したジャケットも秀逸。メインストリームのど真ん中で音・ヴィジュアル共にアート性を打ち出し、独自のポジションを獲得した作品だ。
前作に残っていたハード・ロック/クラシック・ロックの残り香が払拭され、必然的にロイ・トーマス・ベイカーのカラーは後退。むしろデビュー前のデモに戻った感じすらするソリッドな楽曲と、引き続きロキシー・ミュージックなどへの憧れを感じさせるモダンなポップ・ソングとが本作には共存している。
プリンスの「ダーティ・マインド」に影響を及ぼした可能性が高い「レッツ・ゴー」は、ルーターズの同題曲からコーラス部分を堂々と引用。明快なパスティーシュがある一方で、タイトル曲「キャンディ・オーに捧ぐ」ではダークサイドに一歩踏み込み、鋭利なギターとシンセがスリリングにせめぎ合う。
プロデューサー/ソロ・アーティストとしての目覚め
カーズでの活動と並行して、リックのプロデューサーとしての活動が盛んになっていくのも1979年頃から。この年に手掛けたスーサイドのシングル「Dream Baby Dream」と、翌1980年のセカンド・アルバム『Suicide』は、彼らがカーズのオープニング・アクトを務めたのをきっかけにして生まれたコラボ作だった。
リックとスーサイドとの関係はこれっきりではなくて、その後もアラン・ヴェガをエレクトラ・レコードに導いてソロ作『Satun Strip』(1983年)、『Just A Million Dreams』(1985年)を続けてプロデュース。さらにスーサイド名義の『A Way Of Life』(1988年)と『Why Be Blue』(1992年)、マーティン・レヴのソロ作『Cheyenne』(1991年)をプロデュースした他、1996年にはアラン・ヴェガ、ジリアン・マッケインのポエトリーをフィーチャーした実験的なコラボ作『Getchertiktz』に取り組むなど、長年にわたって彼らの活動をサポートし続けた。2011年にカーズの再結成アルバム『ムーヴ・ライク・ディス』をリリースした際にも、ベスト・バイ限定盤のボーナス・トラックとして、スーサイドのカバー「Rocket USA」を収録する念の入れようだ。
成功の真っ只中にいながら、カーズは3作目で、ダークでトータル性の高いアルバム、『パノラマ』(1980年)に取り組む。前2作のポップさは極端に抑えられ、ロイ・トーマス・ベイカーの存在感もますます後退。エクスペリメンタルな要素の増加とリズム解釈の大きな変化に、スーサイドから受けた影響を見出すことも可能だろう。本作からは「タッチ・アンド・ゴー」が全米37位を記録した程度でヒット・シングルは出なかったが、過激な内容の割にアルバムは5位まで上昇した。ちょうど本作のツアーで80年秋にジャパン・ツアーが実現したこともあり、日本のファンにとっては特別なアルバムだ。
ザ・カーズとして最初で最後の来日ツアーで開催された、1980年10月30日、東京・中野サンプラザ公演のライブ音源
『パノラマ』で針を振り切った後、カーズは地元のボストンに自身のスタジオ、シンクロ・サウンドを設立し、新作のレコーディングに集中。ロイ・トーマス・ベイカーと組んだ最後のアルバムである『シェイク・イット・アップ』を81年にリリースした。器材の進化にともなって打ち込みの比率が増える一方、ロックンロールのシンプリシティに回帰した感がある本作は、曲のバラエティが豊富で多彩な分、過渡期的な印象を与える。「裏の意味がまったくない、超シンプルな曲」とデヴィッド・ロビンソンが説明するタイトル曲、「シェイク・イット・アップ」は全米シングル・チャートの4位まで駆け上がった。
この頃、ポップ・ソングを再解釈する作業がリックの中で進んでいたようで、1967年にザ・ナイトクローラーズが小ヒットさせた「Little Black Egg」のカーズ・バージョンを録音している。当時はアルバムに収められなかったが、リヴ・タイラーの母として知られるベベ・ビュエルが発表したEP『Covers Girl』(1981年)に同じオケを提供、ベベがヴォーカルを入れ直した。このEPにはイギー・ポップ「Funtime」のカバーでもバンドごと参加しており、カーズ・ファン必携の重要レア・アイテムだ。なお、「Little Black Egg」と「Funtime」のカーズ・バージョンは、後に編集盤『Just What I Needed: The Cars Anthology』(1995年)で日の目を見ている。
プロデュース作で言うと、同じく1981年にロミオ・ヴォイドが発表したシングル「Never Say Never」は、プロデューサー=リック・オケイセックの認知度を高めた1曲。デボラ・アイオールの語りかけるような歌唱、弛緩したギターの響き、サックスのリフが印象的なこの曲は、USダンス・チャートで17位に食い込むスマッシュヒットとなった。音の”間”を活かした構成に、リックの意匠が窺える。
この1982年に、リックはゲフィンとソロ・アーティストとしての契約を結び、アルバム『ビアティチュード』を発表する。当時プロデュースしていたニュー・モデルズのメンバーなど若手と、グレッグ・ホークスやジュールズ・シアーら友人たちが参加したこのアルバムは、若い頃に没頭していたビート文学へのオマージュもタイトルに込めた、パーソナルな内容になっていた。『パノラマ』から地続きのアルバム、という印象でエッジィかつやや暗めではあるが、リックの緻密な音作りとシンガーとしての魅力を存分に味わえる作品。テクノロジーと正面からつき合いながらもパーソナル、という意味では、2020年代に再評価されそうな作品の筆頭と言えそうだ。
代表作『ハートビート・シティ』、ライブバンドとしてのザ・カーズ
そして1983年、久々にカーズの新作『ハートビート・シティ』のレコーディングがロンドンでスタートするが、これは彼らの代表作となると同時に、バンドとしてのレコーディングが事実上崩壊した、異色のアルバムでもあった。
当時のインタビューで、デヴィッド・ロビンソンはサンプル・ソースとしてドラムを叩く以外に”演奏”をする機会がなくなり、レコーディングでの出番がなくなってしまったとこぼしている。本作でフェアライトによるサンプリングと、プログラムされたビートを大々的に導入することになった背景には、新しいプロデューサー、ロバート・ジョン”マット”ランジからの影響があった。ランジはフォリナーやAC/DC、デフ・レパードとヒット・レコードを続けて生みだしており、最新のテクノロジーを駆使して編集を重ねたサウンドの構築に没頭している時期だったのだ。リックいわく、「常になりゆきに任せてきた」カーズにとっては、避けて通れない変化のタイミングだった。
誰もが最新のデジタル・サウンドをどう消化していくか、というテーマと格闘していた時代に、カーズは従来のバンド・サウンドを潔く放棄してこれをクリア。強化されたビートにヒップホップ的なニュアンスも加えて新生し、同時にコミカルなプロモーション・ビデオがMTVでウケて、若いオーディエンスを獲得することにも成功した。
かつてはリックにとって憧れの対象であったアンディ・ウォーホルが「ハロー・アゲイン」のMVを監督するという、思わぬ余禄までついてきた。それぐらい、”1984年のカーズ”は時代の突端に躍り出ていたのだ。
本作からのMVがどれも評判になったおかげで、リックはその飄々としたキャラクターを面白がられるようになる。後に映画『メイド・イン・ヘブン』(1987年)や『ヘアスプレー』(1988年)にカメオ出演することになったのも、全ては『ハートビート・シティ』の成功があったからだ。
そして1985年、カーズは「ライヴ・エイド」への出演を果たすわけだが。少し前にアップされたアンディ・グリーンによるリックの追悼記事で、ライブバンドとしてのザ・カーズが随分低めに評価されていて驚いた。
「ユー・マイト・シンク」や「ドライヴ」の演奏中にフィル・コリンズが乗ったコンコルドの映像がインサートされたのは事実だが、当時の大スターが海を渡ってきたタイミングに、たまたま運悪くカーズが当たっただけの話だ。そこにライブバンドとしての評判云々を絡めて書いてしまう意図がよくわからないし、リックの訃報が流れた直後にわざわざ書くことでもないだろう。この日の演奏が特別しょぼかったとも思わない。
今ではカーズのライブ映像は数種のDVDに収められており、VHS時代よりも追体験するのが容易だ。そもそも高度な演奏力を持つメンバーが揃っており、生だと弱いということは決してない。これから彼らのライブ映像を観るなら、打ち込みを併用する以前のテレビ用ライブを収めた『ライヴ・イン・ブレーメン 1979』や、ライブ映像集『アンロックト:ライヴ・コレクション 1978-1987』といった公式作品から観ることをおすすめしたい。バンドとしてのダイナミズムがはっきりと確認できるはずだから。
ザ・カーズ解散、ソロ活動の本格化
メンバー各自が個人活動モードに入っていた1985年、カーズは10月に初めてのベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』を発表。ここからの先行シングルとして用意された新曲「トゥナイト・シー・カムズ」は従来のバンド・サウンドに回帰しており、全米7位まで上昇、カーズにとって最後のトップ10入りシングルとなった。
翌1986年9月に、リックは2枚目のソロ・アルバム、『ディス・サイド・オブ・パラダイス』をリリース。テレヴィジョンのトム・ヴァーレインや、ティアーズ・フォー・フィアーズのローランド・オザーバルら豪華ゲストの参加が話題になった本作には、カーズからベン、グレッグ、エリオットも参加した。サイド・プロジェクトっぽかったソロ1stとは対照的に、ここに並んだポップな楽曲はカーズそのもので、バンドとしての今後に不安を感じたのも確かだ。
シングル「エモーション・イン・モーション」はビデオにも随分力が入っており、本気モードのソロ活動であることを実感させられた。全米シングル・チャートで15位まで上昇、ソロでは最もヒットした曲だ。
同じ年の10月、まるでリックと競うように、ベンジャミン・オールがソロ・アルバム『The Lace』を発表。シングル「Stay The Night」が全米24位まで上昇している。グループとしての活動再開が危ぶまれる中、しかしカーズは再び集合、次作のレコーディングに取り掛かった。
リック・オケイセックがプロデュースしたカーズ6枚目のアルバム、『ドア・トゥ・ドア』(1987年)は、初期の未発表曲「リーヴ・オア・ステイ」「タ・タ・ウェイヨ・ウェイヨ」や、1981年にデモを録音していた「カミング・アップ・ユー」など、ストックを引っ張り出してきたこともあり、タイプの異なる曲が混在、アルバムとしてはやや散漫な仕上がりになった。だが1曲ずつ見ると粒揃いで、サブスクリプション時代の今なら違った感覚で楽しめるアルバムかもしれない。『ハートビート・シティ』とは対照的に打ち込みが減少、キーボードの出番もかなり減り、ギター中心のロック・バンド然とした作品になっている。フォーク・ロック的な清涼感がある先行シングル、「ユー・アー・ザ・ガール」は全米17位まで上昇した。
『ドア・トゥ・ドア』のツアー中、ミーティングでリックが解散を提案し、これを他のメンバーも了承する形で、特に公式発表をしないままカーズの歴史は一旦終わった。直接的な解散の原因は今もよくわからないが、メンバーの発言から察するに、『ドア・トゥ・ドア』のレコーディング中、メンバー間の関係が難しい状態になったのは確かなようだ。ツアーの動員が芳しくなかったことも、そろそろ潮時、と判断する材料になったのだろう。これによって、予定されていた二度目のジャパン・ツアーは残念ながら幻に終わってしまった。
カーズ解散後、しばらく目立った活動をしていなかったリックは、リプリーズと契約して1991年に3枚目のソロ・アルバム『Fireball Zone』をリリース。共同プロデュースにシックのナイル・ロジャースを迎えた本作は、何故かナイルの色がほとんど出ておらず、カーズの後期以上に重厚なロック・アルバムに仕上がった。カーズのデビュー以来、初めて全米チャート入りを逃す低調なセールスに終わったが、ドラムスの派手なゲートリバーブさえ気にしなければ、リックらしい佳曲が揃っているアルバムだ。シングル「Rockaway」のMVには、スーサイドのマーティン・レヴがチラッと友情出演している。
#ripricocasek We had a lot of fun making the album #FireballZone. This was one of my fav songs #TouchdownEasy. Though it was the 90s wed not gotten the memo. Its super 80s but cool. https://t.co/ptSdrIHqBA pic.twitter.com/vGL1odM0TL— Nile Rodgers (@nilerodgers) September 16, 2019
続く4枚目のソロ作『Negative Theater』(1993年)は詩集と連動したプロジェクトになる予定だったが、リプリーズから「商業的でない」と内容にケチがつき、そのままの曲目ではヨーロッパでしか発売されなかった。結果、同作の収録曲から7曲だけ残し、新たにマイク・シップリーのプロデュースで7曲録音して追加、変則的な内容で世に出たアルバムが『Quick Change The World』(1993年)だ。追加されたポップな楽曲では「Dont Let Go」が際立っていたが、『Negative Theater』でしか聴けないダークな楽曲もクオリティ的には遜色のないもの。陰と陽をなす両アルバムの全曲を網羅した”完全盤”の登場に期待したい。
ウィーザーを手がけて花開いた”職人”としての素顔
ここで遂にソロ契約を失ったリックだったが、絶妙なタイミングで無名の新人、ウィーザーのデビュー・アルバムをプロデュースすることに。楽曲の魅力に着目し、バンドのポテンシャルを最大限引き出した通称『ザ・ブルー・アルバム』(1994年)が大反響を呼び、プロデュースしたリックも久々にスポットライトを浴びることとなった。本作でのリックの金星は、収録候補から外されかけていた「バディ・ホリー」をアルバムに入れるよう、作者のリヴァース・クオモを執拗に説得したことだろう。この名曲は危うく闇に消えてしまうところだったのだ。
The weezer family is devastated by the loss of our friend and mentor Ric Ocasek, who passed away Sunday. We will miss him forever, & will forever cherish the precious times we got to work and hang out with him. Rest in Peace & rock on Ric, we love you. #RIPRicOcasek #karlscorner pic.twitter.com/JcTXevr6V8— weezer (@Weezer) September 16, 2019
この頃、リックはマドンナが立ち上げたマヴェリック・レコードでA&R兼プロデューサーとして仕事をしていた。1983年に『Rock For Right』を手掛けたことがあるバッド・ブレインズを、ここぞとばかりにマヴェリックへ引っ張って来て、自身のプロデュースで『God Of Love』(1995年)をリリースさせている。アーティストとプロデューサーというのは一期一会の関係になりがちだが、リックは一度関わったアーティストと密な関係を築くタイプだった。
ナダ・サーフのフロントマン、マシュー・カーズは、リックの死を悼んでNPRでエッセイを公開。まったく無名だった頃にバンドをデビューへと導いてくれたリックとの個人的なエピソードを語っている。
ここでマシューが回想している、「ライブ会場でリックにデモ・テープを渡したら、ちゃんと聴いてから連絡をくれた」「これをきちんと録り直してリリースしたいなら少額のギャラでプロデュースしてあげよう、と申し出てくれた」という話は、自分もマシューに取材した際、本人から詳しく聞いたことがある。マシューは何も、亡くなったリックを美化しようとして、大袈裟に盛って話しているわけではないのだ。リックは彼らが契約先を選ぶ際にも、すぐにエレクトラに決めないで他社と接触するようアドバイス、オーディションのお膳立てまでしている。
金になる/ならない、という打算で動く人がほとんどの音楽業界で、まったく無名のニュー・カマーに対してここまで献身的に接したのは、リック自身も若い頃に辛酸を舐めた経験があるからだろう。それと同時に、優れたアーティストを見逃さないリックの”目利き”を、その後のナダ・サーフの活動が証明している、とも思うのだ。
そのナダ・サーフのデビュー・アルバム『High / Low』(1996年)も例外ではないが、リックにプロデュースを依頼するバンドのほとんどは、ウィーザーとの仕事が念頭にあったはず。バッド・レリジョン史上最もパワー・ポップ寄りに振り切って物議を醸した『The Gray Race』(1996年)にせよ、ガイデッド・バイ・ヴォイセズの『Do The Collapse』(1999年)やワナダイズの『Yeah』(1999年)にせよ、モーション・シティ・サウンドトラックがポップ化を進めた『Even If It Kills Me』(2007年)にせよ、リックに求めた”効果”はほぼ同じだろう。生々しいバンド・サウンドとキャッチーなメロディの両立を実現させる職人として、リックは期待にきっちり応え続けた。ウィーザーが『ザ・グリーン・アルバム』(2001年)、『エヴリシング・ウィル・ビー・オールライト・イン・ジ・エンド』(2014年)でもリックにプロデュースを依頼したポイントはそこにあるだろうし、ザ・クリブスが2015年に『フォー・オール・マイ・シスターズ』でリックと組んだ際も、この組み合わせから期待できる通りの焦点が絞れたサウンドをものにしている。
リックの視界には、いつも”Next”しかなかった
ソロ・アーティストとしてのリックは、その後もプロデュースワークの合い間を縫うようにして、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンと共同プロデュースした『Troublizing』(1997年)、セルフ・プロデュースに戻った『Nexterday』(2005年)を発表。前者にはバッド・レリジョンのブライアン・ベイカー、ナダ・サーフのアイラ・エリオットが、後者にはバッド・ブレインズのダリル・ジェニファーが客演した。過去に手掛けたアーティストたちが、いざというときに馳せ参じる……これぞリックの人徳が成せる業だ。これら2作ではオルタナティヴ以降のサウンドにアップデートしつつ、カーズ初期から一貫したリック節を堪能できる。年相応に枯れた風情のアルバムを作るという発想が、リックにはまったくなかった。彼の視界には、いつも”Next”しかなかったのだ。
『Nexterday』(2005年)に収められた「Silver」は、2000年に他界したベンジャミン・オールに感謝の想いを切々と語りかける、決して忘れられない曲だ。
その後、元カーズ組から再結成ツアーへの参加を乞われるも固辞したリックだったが、2010年に新作のレコーディングを前提とした正式な再結成がいよいよ実現する。それにしても、どうしてこのタイミングで再びカーズをやる気になったのか。その理由を訊くと、リックはこんな風に説明してくれた。
「何年も経過して、面倒くさいことを色々忘れてしまったんだと思う。曲を書きながら、自分が思っているようにできるようなミュージシャンを探していたら、じゃあ僕の音楽を一番良く知っているカーズでやればいいんじゃないか、って思ったんだ。『過去を水に流してどうなるかやってみよう』、そう思って再開することにした」
「カーズをやらずにいた23年は……コーヒー・ブレイクみたいな期間だったかな(笑)。アルバムをやることに決まり、皆がニューヨークに集まって練習することになったんだけれど、最初に音を出したら、まるで2週間振りに演奏しているような感覚に陥った。時間が少しも経っていないかのようでさ。みんな調子もよくて、とてもスムーズだったよ。唯一の違いは、5人じゃなくって4人で、あれ、ベンは?って感じだけだった。それ以外はすぐに馴染んだし、どこかでそうなるだろうっていうのは予感していたんだよ。昔と全然変わらなかった」
そうやって完成した新作『ムーヴ・ライク・ディス』(2011年)が、ナツメロ的な空気と一線を画し、『パノラマ』の頃の前衛的な空気を湛えたアルバムになったことも、長年のファンとしてはうれしかった。
「このアルバムはトピックがあるというか、他のカーズのアルバムと比較するとそうなるよね。歌詞も今自分の国で起こっていること、メディアに露出して注目を浴びている人のことだとか、そんな内容の曲が多いかな。『ドア・トゥ・ドア』には古い曲もいくつか入っていたけれど、今回は全て新しい曲で、去年書いたものだよ」
リックにソロ作とカーズの作品との差異を訊いてみると、実に面白い答えが返ってきた。
「ソロとザ・カーズのアルバムの間には全く差がないんだ。自分では分けてやるわけではないし、ソロ・アルバムでもザ・カーズのアルバムでも同じだよ。ただ、やはりバンドの他のメンバーにはそれぞれミュージシャンとして演奏スタイルがあるし、自分なりのやり方もあるから、結局あのメンバーで演奏するとザ・カーズ・スタイルになっちゃうんだよね。多分違うミュージシャンとやったら、全然違うものになっていただろう。それについては、やはり他のメンバーは賞賛に値すると思う。何年もかけて確立してきたサウンドなんだよね、これは」
バンドは2011年5月に全米~カナダを回るツアーを敢行。ベンがいない穴をグレッグが主に埋め、かつてベンがヴォーカルを取った曲はリックが歌った。
2018年にはファンの念願が叶い、カーズがロックの殿堂入りを果たした。セレモニーではウィーザーのベーシスト、スコット・シュライナーが加わって4曲を披露。これがバンドとして最後のパフォーマンスだ。
そして2019年9月15日、リックはニューヨークのマンハッタンにある自宅で、亡くなっているところを発見された。心臓病を患っていたそうで、術後の回復途中にあったことが明らかになっている。妻のポーリーナ・ポリツィコヴァが彼を起こしに行った際、息を引き取っていることに気付いたそうで、安らかな最期だったことを願うばかりだ。
彼の死後、ウィーザーをはじめ、どれほど多くのアーティストがリックの死を悼むコメントを出したか、検索してその内容を是非読んでみて欲しい。ミュージシャンの立場を理解し、彼らをサポートする姿勢を保ち続けたリックの心意気を、彼と触れた人々がきっと継承してくれるはず。彼が残した独創的なアートだけでなく、アートを生み出す者としてのマインドも、未来に語り継がれていくことだろう。