ビートルズと親しかったベース奏者/芸術家のクラウス・フォアマンの記憶によれば、1970年の5月末のある日、EMIスタジオ(のちのアビーロード・スタジオ)に到着した時、彼はこのあと何が待ち受けているかまったく見当もつかなかった。
その時のセッションが、のちに『オール・シングス・マスト・パス』となるアルバムの発端だった。ビートルズが消滅して数カ月後、ジョージのアーティストとしての独り立ちを確立させた記念すべき3枚組LPだ。ジョージが作曲した楽曲に、リバーブとミュージシャン軍団を多用したプロデューサーのフィル・スペクターの録音手法が合わさって、厳粛かつ壮大ながらも、軽快でメロディアスなアルバムが生まれた(タイトルもそうだし、ジョージがフライアーパークの自宅の庭で、4つの妖精の置物に囲まれているジャケットも、ビートルズの終焉に対する彼なりの物言いと解釈できよう)。CD時代に突入すると、このアルバムは何度かリマスターやリイシューが施された。2000年にリリースされた30周年記念盤では、ジョージ最大のヒット作となった敬虔な「マイ・スウィート・ロード」を本人自らリメイクしている。
昨年11年から始まった50周年記念イヤーにあわせ、『オール・シングス・マスト・パス』はこれまでで一番ゴージャスな扱いを受けることになる。50周年記念スーパー・デラックス・エディションはオリジナル・アルバムのリミックスに加え、未公開音源を収めた3枚のCDがセットになっている。
それらと同じくらい魅力的なのが、『オール・シングス・マスト・パス』のオリジナルサウンドが緻密にリミックスされている点だ。スペクターの魅惑的な重厚かつエコー満載のアレンジを明瞭にしつつ、2001年に死去したジョージの生前の意向を忠実に再現した。「父はリバーブが大嫌いでした」とダニーは言う。「『ああ、またリバーブか!』と言っているのを何百回も聞きました」。フォアマンも、のちにジョージが多重録音について同じようなコメントを言っていたのを覚えている。「彼はよく『やりすぎだ』と言っていたよ」
次世代の耳にフレンドリーな音
最近ではジョン・レノンのボックスセットや、ローリング・ストーンズ『山羊の頭のスープ』デラックス・エディションを手掛けたエンジニア、ポール・ヒックスが陣頭指揮を執った『オール・シングス・マスト・パス』は、これまでのリイシューでは技術的に不可能だった高音質変換を用いて生まれ変わった。「ウルトラ・リマスタリングという技法で、音を最大限に細かく分離できるんです」とダニー。「より低音まではっきり聴こえるんですよ」
リイシューの行程は非常に手間のかかるもので、試行錯誤が繰り返された。ヒックスの話では、最初のうちは「低音が効きすぎた」そうだ。
だが何度か右往左往した末、ダニーのチームは正しいバランスを見つけ出した。新たに手を施されたアルバムではジョージの声がより前面に押し出され、音が積み重った中にも個々の楽器の音がはっきり聞き取れるようになった。「オリジナルは尊重したいじゃないですか」とヒックス。「ダニーと僕は”脱スペクター”という表現が嫌なんです。今回のプロジェクトの目的はそこじゃありませんからね」

「胸に迫るものがありました」父親の名作リイシューに携わったダニー・ハリスン(Photo by Josh Giroux)
ダニーいわく、今回のリミックスにはアルバム50周年を記念する以外に、次世代の耳にもフレンドリーなアルバムにする、という目的があった。「余計な手間をかけるつもりはありません」と彼は言う。「でも、現代の音楽と並べたとき、ヘッドフォンで聞いても際立つものにしなくちゃいけません。
もちろんこの場合、収録されたのは51年前だ。周知のとおり、ジョージは(インスト・サウンドトラック『不思議の壁』と、実験的なシンセサイザー作品『電子音楽の世界』を経て)正式なソロデビューを迎える準備を重ねていた。「スタジオに入ってフィル・スペクターと作業をする前から、父の頭の中では出来上がっていました」。アルバムの完成から8年後に生まれたダニーはこう語る。「父は長いことアイデアを温めていたんです。ビートルズ時代もじっと耐えて、行動に移すべき時が来たときには方向性がはっきりわかっていた。ふらっとスタジオに入って、プロデューサーにやることを指示したわけじゃない。ちゃんと準備ができていたんです」
狂気じみたスペクターのやり方
スペクターは気まぐれなことで有名なプロデューサーだったが、ジョージは『レット・イット・ビー』のポストプロダクションでの仕事ぶりを買い、自らのアルバムのプロデューサーにスペクターを起用した。素材もミュージシャンも揃っていた。
スペクターがロサンゼルスから到着すると、収録は本格的に進められた。スペクターには独自のやり方があった。当時20歳でテープ操作を担当していたジョン・レッキーはこう振り返る。「明け方に照明を落として、大音量で音楽を流し、ギンギンにエアコンをかけていましたよ」。可能な限りスタジオを冷やしたい、というスペクターの意向によるものだ。
クラプトンものちに、「スタジオでは何百人のミュージシャンが、みな髪を振り乱して演奏していた」ようなレコーディングだったと述懐している。だが、狂気じみたスペクターのやり方の裏にも彼なりの考えがあった。「酒やドラッグや銃は厳禁でした」とリッキー。「フィルは演奏の指示を出し、そのあとの流れを決めました。
ミュージシャンの顔ぶれは定期的に変わった。フォアマンもドラマーのジム・ゴードンと演奏することもあれば、リンゴ・スターと組むこともあったし、別の機会にはビリー・プレストンとゲリー・ライト(スプーキー・トゥース、のちにソロとして活躍)という2人のキーボード奏者といっぺんに演奏したこともあった。「普通はスタジオでリハーサルをするんだが」とフォアマンは続けた。「そういうのは一切なかった。スタジオにいきなり入るんだ。
フォアマンいわく、初めのころジョージはスペクターの仕事ぶりに若干懸念を抱いていたそうだ。「最初のころ収録した曲に『ワー・ワー』があった。あれをレコーディングしたときは圧倒されたよ」とフォアマン。「こいつはまさにフィルの傑作だ、ガラスのように繊細でありながら、ハードなサウンドだと思ったよ。ただ、ジョージは気に入っていなかった。彼が求めていたアルバムの方向性とは違っていたんだ。でも、だんだん彼も気に入っていったよ」
当時自分らしさを模索していたジョージにとって、レコーディング作業は文字通り、象徴的な意味でも、自信を与えてくれた。ビートルズのために書いた曲が何年も拒絶された後だからなおさらだった。「あのアルバムの制作は本当に最高の経験だった。音楽的に少しナーバスになっていたからね」と、1976年にジョージも語っている。「スタジオに大勢いて迎えて、『ああ、なんて最高な曲ばかりだろう!』と思ったのを覚えている。みんなの前で曲を演奏すると、『ワオ! 傑作だよ』と言ってくれる。それで俺も『本当かい? 本当にいいと思うかい?』 それで納得できたんだ」
「ジョージはご機嫌そうでした。楽しくて、いい雰囲気だったのが伝わってきます」。当時のテープを聞いてヒックスはこう語る。「彼がこれらの楽曲をずっと温めていて、いつか世に出したいと思っていたことはみな知っていました。ようやく吐き出せて、彼も一安心といったところでしょうね」
ダニーが経験した究極の試練
あまり楽しくない瞬間もあった。フォアマンの記憶では、「白い服をきたおかしな男」がEMIに突如現れた。「彼はエルヴィスになりたがり、そのあとクリシュナになりたいと言い出した。とにかくクレイジーだった」と彼は振り返る。「『こいつはここで何してるんだ?』って思ったよ。相手が何者かもわからなかった。ある意味怖かったね。ジョンが撃たれた時みたいだった。そこら中にクレイジーな輩がいたからね」。フォアマンの記憶では、ビートルズが信頼を置いていたマル・エヴァンスが、イカれ男を追い出した。
レコーディングが数カ月に及び、ジョージが山のようなギターやボーカルの多重録音にかかりきりになると、スペクターは退屈して不機嫌になり、酒に溺れるようになった。一度などは転落して、腕にギプスをはめていた姿をフォアマンも覚えている。「やせっぽちの小柄な体に、巨人が眠っているような男だった」とジョージはのちに語っている。「フィルとはたくさん笑ったし、楽しい時もたくさんあった。だが悪い時もたくさんあった。フィルと一緒にやった仕事のうち、約80%は仕事がらみだった。残りの時間は、彼を病院に入れたり、退院させたり。彼は腕を折るとか、他にもいろんなことをしでかしていたよ」
スペクターの離脱は、ジョージの野心的な試みを不本意なフィナーレで飾ることになった。「彼は最後まで制作をやり遂げられなかっただろう。フィル・スペクターらしからぬことだ」とフォアマン。「ある意味残念だよ、初期のテイクでの彼の仕事ぶりは素晴らしかったからね」
ジョージの成し遂げた偉業のすごさは、それから45年後、ダニーとヒックスが節目に合わせて18本のテープを聞き直した時にさらに明白になった。各曲にクレジットされたミュージシャンの名前には、漏れがあることもしばしばだった(「まさか50年後、誰かに手書きの文字を見られることになるなんて誰も思わないでしょう」 様々な色のペンでテープの箱に記入した本人、ジョン・レッキーは冗談めいてこう言った)。
だが彼らが発掘したものは、スペクターが帰宅した夜に行われた数時間強のジャムセッションだった。その一部はオリジナル・アルバムの3枚目「Apple Jam」に収録されている。やかましい「マザー・ディヴァイン」や、荒っぽいエレクトリックなソロ「ノーホエア・トゥ・ゴー」など(「ビートル・ジェフと呼ばれるのはうんざり」という歌詞は、彼のニックネームにちなんでいる)お蔵入りになった曲は長らくブートレックとして出回っていたが、もとのバージョンが発掘されて今回アルバムに加えられた。他にも、初期のころにリンゴ・スターとフォアマンを交えて収録された「ゴーイング・ダウン・トゥ・ゴールダーズ・グリーン」は、さながらエルヴィスのロカビリー時代へのオマージュだ。「心のごみ捨て場、言葉の膿みという感じでしたね」。 山のような楽曲についてダニーはこう冗談を言った。「出てくるときは、出てくるものです」
別バージョンのテイクを選別する段階になると、ダニーは意図的に、よく知られているバージョンとは明らかに違うテイクを採用した。「他のボックスセットでやっているように、それぞれの曲のテイクを8つずつ、なんていうことはしたくなかったんです」と彼は言う。「オリジナル・アルバムの流れはそのまま残しました」。そうした審美眼により、ボックスセットには彼が言うところの「まったく違った雰囲気のダウンテンポ・バージョン」がふんだんに盛り込まれている。ピアニストのニッキー・ホプキンスが参加した「イズント・イット・ア・ピティー」や、ツインギターが炸裂する「ラン・オブ・ザ・ミル」のテイク36などだ。「あの曲のギターは、オールマン・ブラザーズの『ジェシカ』を彷彿とさせますね」とダニーは言う。「僕らはギターモニーって呼んでいます」。おふざけを交えつつも軽快な「ゲット・バック」――ジョージはリラックスした感じで歌っている――も収録されている。
去る12月にスペクターはCOVID-19関連の症状で他界したが、ダニーの話ではそれ以前から彼の許可なしで再編作業を進めていたという。「当然でしょう」とダニーはきっぱり言った。「僕らも許可を求めませんでした」。結果的にダニーとヒックスは膨大な楽曲をミックスすることになったため(その数なんと110曲)ダニーはさらなるリリースの可能性もほのめかしている。もっとも、クオリティを厳格に守るというルールは譲らない。「父の音楽をけがすようなことは今まで一度もしてきませんでした」と本人は言う。「これらの楽曲を守り、クオリティの高いものだけが世に出るようにするのが僕の役目です。ガラクタをかき集めるようなことは絶対しません。父が死んだときにそう心に誓いました」
アルバムの成功のためにダニーが経験した究極の試練は、涙の洗礼だった。アルバムのオープニング曲「アイド・ハヴ・ユー・エニタイム」のリミックスを初めて再生したとき、すっかり取り乱したという。「ひたすら泣きました」と彼は言う。「聞きつけた母も泣きました。2人で『仕方がない、これが仕事なんだ』と思いました。僕のような人間は、父の音楽を何度も聴いているので何も感じなくなっています。仕事の場でも耳にしなきゃいけないし、そのたびに涙を流してはいられません。でもあの時は抑えられなかった。胸に迫るものがありました」
だが時にダニーは、嬉々としてプロジェクトについて語ってくれた。再販される『オール・シングス・マスト・パス』Uber Deluxe Editionには、96ページのスクラップブックの他(写真やジョージの日記などが収められている)、アルバムジャケットを飾るキャラクターとジョージのミニチュアフィギュアもついてくる。「妖精を再現したんです」とダニーは得意げに言った。「ぶっとんでるでしょう」
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From Rolling Stone US.

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