日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年10月の特集は今年で50周年を迎えるベルウッド・レコード。
特集にあたり5週間に渡りベルウッド・レコードの創設者・音楽プロデューサーの三浦光紀をゲストに招き50曲を自薦しながら、当時から現在までの話を掘り下げる。パート2ではベルウッド・レコード創立期のはっぴいえんど高田渡の話からニューミュージックという言葉の真意まで三浦光紀に語ってもらった。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは大瀧詠一さんの「ウララカ」。今月の前テーマはこの曲です。


今月2022年10月の特集はベルウッド・レコード50周年。今月はその設立者・創設者三浦光紀さんをお迎えしての5週間です。三浦さんに忘れられないアーティストの知ってほしい曲や残したい曲を選んでいただきました。その曲を5週間にわたってお送りします。「ウララカ」も三浦さんの希望による選曲であります。こんばんは。
よろしくお願いします。

三浦光紀:よろしくお願いします。

田家:50周年でいろいろな企画が進行中なのですが、サブスクの解禁がありました。海外からも簡単に聴くことができたり、誰でも耳にすることができる機会は増えますね。

三浦:それと古いとか新しい関係ないじゃないですか。だからそれはそれでいいことがたくさんありますよね。


田家:そういう中でこの番組で1ヶ月特集を組む時に、何年何月の曲っていうのをどうしようかなと思いながら入れてるんです。つまり、サブスクで聴いている人はそれがいつのものか分からないわけですよね。ちゃんとこれは言った方がいいかなと思って、あえて何年にという話をしています。

三浦:その方がいいと思います。

田家:1972年にベルウッド・レコードが発足するわけです。その前の歴史、キングレコードの社員としてアシスタントディレクターをおやりになっていた。
それがこの年から正式にベルウッド・レコードになるわけですね。先週は小室等さん、はっぴいえんど、高田渡さんがその頃から柱だった話がありました。今日はやはりこの曲から始めたいと思います。1曲目、1972年4月発売、高田渡さんのアルバム『系図』から「鉱夫の祈り」。

三浦:渡さんは現代史の方の詩を引用しながら歌っているんですけど、これは渡さんの詩なんですよね。小室さんも現代史を歌っているんですけど、2人とも自分で詞を書いてもすごいんですよ。
これはもうプロテストソングだと思って選んだんですけど、そういう意味では自分で書いた詩の中で高田さんの代表曲かなと。

田家:ベルウッドは1972年4月に正式に発足しているわけですが、最初に出たアルバムが3枚ありまして六文銭の『キングサーモンのいる島』、高田渡さん『系図』、山平一彦さん『放送禁止歌』。これはもうベルウッドとして始めるときにこれでいこうみたい決めてらっしゃったんですか。

三浦:いや、シングル盤は売れるものを出したいなと思って意識したんですけど、アルバムはたまたまその時に作っていたやつをまず第1号として出しました。あまり意味はないんですけどね。

田家:始まりの話もこの後またお聞きしようと思うのですが、割とすんなり始められたんですか。


三浦:全く問題なく。よく周りの理解のない中でどうのこうのって言われがちなんだけど、そうじゃなくてみんな理解してくれて、反対はなかったです。当時、日本のレコード業界って欧米に比べるとやっぱ10年ぐらい遅れていて、僕が入ったときは2チャンネルですよね。でも当時ビートルズは16チャンネルでやったわけで、全然相手にされてないわけですよ。だから、やっぱり16チャンネルを使って世界と同じぐらいのレベルの音を作りたいじゃないですか。それはクリエイターってみんなそうですよね。だけどレコード会社にいたらできないんですよ。ミュージシャンだってそれは面白くないわけだから。たまたまそういうオリジネーターが出始めの頃ですから、細野さんにしても慶一さんにしても大瀧さんも宅録ですよね。自宅で録音する、それのマニュアルで。だから彼らは録音に関してはめちゃくちゃレベルが高いんです。例えばはっぴいえんどって最初は4チャンネル2台、2枚目が8チャンネル2台、3枚目が16チャンネルと機材の進化に沿ってやっていったわけなんで。先輩たちは2チャンネルで黙ってやってるんだけど、僕はもうそれじゃできないっていうことで、技術的なこと、それから販売方法、宣伝の仕方とか全部変えようと思って。新しいものを作りたいって言ったらやらせてくれた感じです。

田家:次は1972年7月にシングルで発売になりました、いとうたかおさんで「あしたはきっと」。

あしたはきっと / いとうたかお

三浦:これは、いとうたかおさんが中津川で歌ってたときに加川良さんが「いい歌だね」って言ってきたみたいで、加川良さんが渡さんにこの歌を教えて渡さんも「これがいいね」ってなってレコーディングに入ったんですよね。これもバックは細野さん、林立夫さん、駒沢さんとかで。今まで聴いた曲のメンバーは、ほとんどこのメンバーですからね。全部細野さん、林さん、茂さんとか。はちみつぱいが入ってくるまでは全部バックははっぴいえんどです。それで、はちみつぱいが入ってきてから、はっぴいえんどとはちみつぱいがバックをやるようになったんですよね。

田家:はっぴいえんどのメンバーはバッグをやりたい思考があったんですか? 三浦さんがやらないかって言ったんですか?

三浦:彼らはまだ無名だから食べていけないじゃないですか。でもめちゃくちゃみんな上手いわけですから、僕としては彼らにお金を渡したいっていうのと。あと、彼ら以外にできる人がいないぐらいにロックのミュージシャンとなると、彼らしかいなかったんですよ。だから彼らを必然的に使いました。

田家:いとうたかおさんはどういうふうに記憶として残ってますか?

三浦:いいアーティストだなと思って。

田家:三浦さんはベルウッドの後にフォノグラムを作られていて、いとうたかおさんはフォノグラムでもお出しになってるんですけど。そういう意味でやっぱり関わっていきたいアーティストだったと。ベルウッドのアルバムの話が出ましたがシングルの第1号というのがこの曲ですね。1972年4月発売、あがた森魚とはちみつぱいで「赤色エレジー」。

田家:さっきシングル盤はちょっと売れるものを意識されたって話がありましたけど、やっぱりそういう選択だと。

三浦:これは1971年の中津川のフォークジャンボリーであがたさんが歌ってて。その時はメインステージと別にフォークとロックのサブステージが2つあって、アマチュアの人たちが出てたんですね。僕はメインステージをレコーディングしていたんで全然知らないんです。あがたさんの今度出る自叙伝にも書いてあることなんですけど、中津川「フォークジャンボリー」で自分が歌ってたらそこにニコニコして寄ってきて「レコードやろう」って言われたって書いてあるんですよ。あがたさんとの出会いは「中津川フォークジャンボリー」が途中で暴動みたいになってレコーディングできなくなっちゃって。前年は、はっぴいえんどと渡さんだったんですけど、その年はめぼしいアーティストもいない。レコーディングも途中で中止になったし、もうこれは駄目だなと思って、一応サブステージの音を聞いてみようかと思ったらこの曲が流れてきたんですよ。これは売れるなと思って。まず、なんてボーカルなんだ! ってびっくりしちゃいました。スタッフに「この人を探してくれ」と言ったら、蒲田の野村証券で黒板書きのアルバイトをしてたあがた森魚さんを見つけて。そこに鈴木慶一さんのお母さんも働いてて、あがたさんが休憩時間によくギターを弾いていたらしいんですね。お母さんがそれを見て、「家にも引きこもりの子がいるからうちの子と会ってくれ」って言って、今度は慶一さんと出会うことになるんですよ。その出会いも慶一さんがフランクザッパのある曲を大音量で流すから、そこが僕の家だって言って。それで訪ねていったらしいんですね。その出会いがあがた森魚とはちみつぱいになる。僕はあがたさんに電話して「来年、新しいレーベルを作って、それの第一弾にするからレコーディングしよう」って言ってやったんです。レコーディングの準備していた時にあがたさんが僕の家に居候してて、友部さんと西岡恭蔵さんを連れてきたんですよ。

田家:この話はまた曲の後にしましょうかね。あがたさんの曲をもう1曲お聴きいただきます。1972年9月発売のアルバム『乙女の儚夢』から「大道芸人」。

三浦:当時僕の同期の北沢さんという方がアイランド担当だったんです。その中にフェアポート・コンヴェンションがあって、しょっちゅう聴いてたんですよ。それがあってこの曲に繋がっていく。完全にフェアポートを意識してやってたやつですね、パクッたっていうかね。

田家:あがたさんもそれはご存知なんですか?

三浦:もちろん。あがたさんとか慶一さんたちがやったわけですから。

田家:なるほどね。このアルバムではサーカスの「美しき天然」が流れたりするそうです。その辺はどんなふうにお感じになったんでしょう。

三浦:その頃、アメリカでもいろいろなミュージシャンが出てきて、古きアメリカの曲をベースにしてやっているのがバーバンク・サウンドって言われるじゃないですか。日本の古い曲にそういう新しさを感じるのが、あがたさんと矢野顕子さんだと思うんですよね。だから全くそれと同じ手法だなと思って見てました。まあ、古き良きかどうか分からないけど日本の古い音楽をベースにして新しいものを作っていく。要するにゴダールがアーカイブは未来を語るみたいなことを言っているんですけど、それに近いんじゃないかなと。

田家:なるほどね。いわゆる日本の中の単なるノスタルジーじゃなかったということですね。あがたさんは先日50周年のコンサートを渋谷公会堂で行われました。

三浦:「赤色エレジー」も歌ったんですけど、一番良かったですね。すごいかっこよかった。やっぱりあがたさんも進化してるんですよね。歌も上手くなってるし、音楽もすごく進化してるなと思って見てました。

田家:さっきの三浦さんのお宅に居候してたという話はこの後も何度も出てくると思います。続いて、1972年4月「赤色エレジー」と同時発売になったシングルが2枚ありました。そのうちの1枚がこれです。友部正人の「一本道」 。

田家:友部さんも居候してらっしゃったんですか(笑)。

三浦:「赤色エレジー」のシングル盤をレコーディングしてたんですけど、当時ベルウッドの人たちって、例えば大瀧さんのレコーディングをするときも渡さんとか加川良さんとか遊びに行ってたり、はっぴいえんどの『風街』とかレコーディングにみんな行ってるんですよ。そこにたぶん恭蔵さんと友部さんが来てたんだと思うんですけど。それであがたさんが僕の家に連れてきたんですよね。友部さんがマヤコフスキーの詩の話をし始めて、僕はマヤコフスキーなんか聞いたことないからすごい詩人の本を読んでるんだなと思って、耳をすませて聞いてたんですよね。そしたら段々段々自分の持ち歌を歌うような流れになってきて、あがたさんが「赤色エレジー」を歌って、僕は聞いたことなかったんですけど、恭蔵さんが「プカプカ」を歌ったんですよ。恭蔵さんは「自分の曲は全部大塚まさじさんのために作った曲なんで」という断りを入れながらオリジナルを歌ってくれて、めっちゃくちゃ良かった。そしたら友部さんが「一本道」をまた歌って。だから「赤色エレジー」と「プカプカ」と「一本道」は3人で話してたので、そのままいただきますっていただいただけなんです。

田家:それはお宅で?

三浦:そうそう。友部さんはもうソニーでアルバムが決まってるんです。当時URCの主流派は岡林さんとか赤い風船で、はっぴいえんども渡さんも友部さんも主流じゃないですよね。僕はそんなことは全然知らないでいいと思ったからやったんですけど、URCはベルウッドに行く人とソニーに行く人を分けてたんです。ソニーには僕の1年後輩の前田仁がプロデューサーでいて、彼に友部の「一本道」だけは僕にやらせてくれと頼んで。それで友部さんの了解も得てやらせてもらったんです。だからすごく変則的なんだけど、とにかくこの曲が好きで。しかも渡さんのことを歌ってるわけですから、ベルウッドにも関わりがある。録音する時は細野さんがベースを弾いているんですけど、友部さんがそれをカットしたんですよね。あとで「カットしなきゃ良かったかなぁ」とかって言ってましたけど。

田家:みんな見に来て遊びに来て、気になって、やりたがってという。

三浦:見に来て細野さんとかのプレイを見ると「やっぱりベースは細野さんだな」ってみんな思うじゃないですか。ギターは茂さんだなとか、バイオリンは武川さんとか。もうほとんど同じメンバーでやってるんですよね。

田家:なるほどね。そういうベルウッド・レコード、シングル第一段発売3枚が「赤色エレジー」、「一本道」、もう1枚がこれでした。大瀧詠一さん「空飛ぶくじら」。

三浦:大瀧さんは、はっぴいえんどの中で一番、メロディの分かりやすい、綺麗な曲を書ける人ですよね。はっぴいえんどは言葉が難解だったのと、当時のサウンドも含めてあまり理解されなかったんで、まず大瀧さんをソロで出して、次に細野さんを出して、それで茂さんを出していこうと。まず、大瀧さんの美しいメロディーではっぴいえんどファンを増やしていこうかなと思って声をかけました。それで、大瀧さんが「細野さんと相談します」って言って「OK 出たからやりましょう」ってことで一緒にやることになったんですよね。だから巷では大瀧さんがソロアルバムを作って解散したみたいなことを言われてるんですけど、全然違うんですよ。大瀧さんが出す時にまず、シングル盤を6枚出したいと、それで12曲になりますよね。それで『乗合馬車』ってタイトルのアルバムを出すという形でやってたんです。3枚ぐらい出したんだけど、宣伝部に毎月出されると、もう宣伝できないと言われて断念して。

話はまた横道にそれるんですけど、当時はベルウッドにキャロルのデモテープも来てた。それで井岸さんという名古屋のセールスマンで、ロックンロール好きな人がいて。すごく良いプロデューサーになるなと思って、会社の制作部に引っ張ったんです。そしたらその人は運悪く、ディレクターで演歌班に行っちゃったんですよ。それで僕のところに来て「三浦ちゃん、俺今デモテープを2つ持ってるんだけど」って言って聴かせてくれたのが一つはキャロル。もう一つはフィンガー5なんですよ。「演歌班の俺はできないから、三浦ちゃんやってくれないか」って言うんだけど、ベルウッドにはちょっと合わないなと思って。でも、2つとも売れると思いました。だから井岸さんに「これだったらもう会社辞めて、他でやったら絶対売れるよ」って言ったの。そしたらフィリップスに行って、ドーンとヒットしちゃって。そういうのも含めて、大瀧さんはいろいろなアイデアを持っていて、これもその中の一つだったんです。

田家:大瀧さんと矢沢さんが並んだ、この話がすごいですね。三浦さんじゃなかったらこういう話は絶対に出てこないなと思います。大瀧さんの1stアルバムからこの曲をお聴きいただきます。「あつさのせい」。

田家:「ウララカ」にしても「空飛ぶクジラ」にしても「あつさのせい」にしてもはっぴいえんどとは全然違いますよね。

三浦:そうですよね。このときはたまたま林さんと茂さんが来てくれて、ベースが細野さんだったんですね。これが後のキャラメルママになって『HOSONO HOUSE』、南正人さんに繋がっていくことになるんですけど、渡さんの「自転車に乗って」のときはあまり気が付かなかったけど、このドラムもすごいエッジが効いてるなと思って。松本さんと違う意味でいいなと思ったので、これで僕は林さんを見直したというか、すごいなと思いました。

田家:でもこういうポップス、ロックンロールについて、グリー・クラブ出身の三浦さんはどんなふうに思ってらしたんですか。

三浦:いや、僕は他の音楽を知らなかったから、たまたまグリー・クラブに行っただけで。ただコーラスというか、中学時代もトーケンズの「ライオンは寝ている」とか、ああいうのもコーラスが好きで聴いていて。だから、コーラスもシンガーズ・スリーを連れて来たのも僕だし、ジャンルはなんでもいいものはいいと思ってました。ロックンロールももちろん好きだったんですけどね。

田家:さっきのドラムは林立夫さんでこれは松本さん?

三浦:そうですね。詩も松本さんですね。

田家:やっぱりこうやって聴くと違いますね。この曲を選ばれたのは?

三浦:曲そのものも名曲なんですけど、吉野さんのストリングスアレンジがすごいなと思って。日本のエンジニアと言うと、当時は理工学部出身の技術者イメージなんですよ。でも、アメリカを見てると、ほとんどミュージシャン出身で、日本の中でミュージシャン出身のエンジニアって当時は僕が知る限り吉野さんぐらいしかいなくて。東芝にいらしたんですけど。だから、もうミュージシャンの感覚でやってくれる。技術者だと「この音はあんまり入っちゃ駄目だ」とかそういう感じでやるんだけど、ミュージシャン出身だと、そのへんもミュージシャンのマインドになってるから全然違うんですよね。しかも吉野さんはピアノも上手いしストリングスアレンジもできるし。西岡恭蔵さんのソロアルバムのときもファンキーなピアノを弾いてもらってるし、何でもできる人なんですよ。吉野さんに対しての思いもあって曲を選びました。

田家:なるほどね。冒頭で音の問題、ベルウッドのやりたいことの中に音があったって。もう大瀧さんのこの3曲でそういうのが出てますもんね。

三浦:大学4年の時に卒論でベトナム戦争について書いたんです、まだ戦争の決着はついてなかったんですけど。なぜそれを書いたかというと、ディスコによく前田仁とか牧村くんを連れて行っていて、踊りがうまい黒人の方に話しかけていろいろ話してたら、その人が実は米軍の脱走兵だったんですね。それで今卒論を書いてるからって言ってベトナム戦争の話を聞いたんです。実際の戦争の話を聞いたら、とにかく怖いわけですよ。ゲリラ戦だから誰が敵か味方か分からないんですって。しかも夜にやるじゃないですか。だから行く時はコカインをやっていくんだと。それで帰ってくると、今度は眠れないからマリファナをやるんだって。普段はLSDをやっているんだっていう話を聞いて、68年ですから、それが何がなんだかよく分からなくて。「それは何なのか」って聞いたら、僕にLSDをくれたんですよ。その時、日本ではLSDは禁止されてなかった。何も知らないから、ポンッと口の中に放り込んだら今まで聴こえてこなかったバックの音が聴こえてくるんです。ドラムの動きとかベースが全部分かる。こんな世界があるんだと思ってびっくりして、その印象でレコード会社に入ってレコード会社の新譜を聴いたら音がちゃっちい。これじゃ駄目だと。LSDによって音楽の聴き方が全部変わっちゃったんですよ。でも、よく見るとそうやってLSDを買ってる人が世界中にたくさんいる。たぶんそれでベルウッド・サウンドっていうのを意識するようになったんだと思います。レーベル作った時にはサウンドがそのレーベルの文化だと思ったんですよね。

田家:LSDが開いてくれた世界への道。

三浦:扉を開いてくれた。

田家:なるほどね。ベルウッドの企画書の中にニューミュージックって言葉を使われたのは?

三浦:それは営業の方に「三浦さんのやっている音楽はフォークなのかロックなの何なの」って言われて「どうしたんですか?」って聞いたら、仕切り板というのが昔のレコードにはあったんですよね。そこにフォークのジャンル、ロックのジャンルがあって。当時フォークは、森山良子さんとかマイク眞木さんのイメージを抱いていたし、ロックっていうと僕の中では洋楽ですよね。一度裕也さんたちが英語で歌ったからそっち系だなと。

その2つともベルウッドとは全然違くて、そしたらたまたま机の上に『ニューミュージック』があったんです。当時は『ニューミュージックマガジン』だったんですね。それを見てから、とっさに「ニューミュージック」って言っちゃったんですよ。後でニューミュージックの意味を調べたら、1962年にボブ・ディランとビートルズがデビューして、それをニューミュージックってポール・ウィリアムズさんが呼んだんですね。やっぱり中村とうようさんは分かってて『ニューミュージックマガジン』にして、僕は当時、対抗文化的な意味でニューミュージックって言葉を使ったんですよね。前田仁からたまたま電話がかかってきて「三浦さん、ニューミュージックの商標登録してんの?」って言うから社内だけで使おうと思った言葉だから全然してないって言ったら「それを使わせてくれ」って言うから「どうぞ」って言ったら、ソニーが五輪真弓さんとかをベースにして、ちょっとおしゃれなフォークとかロックをニューミュージックって言うように広げていったんですね。

田家:なるほどね。来週もこの話の続きをよろしくお願いします。ありがとうございました。

田家:FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」 ベルウッド・レコード50周年。日本の新しい音楽の土台を作り上げたベルウッド・レコードの50周年を記念した特集です。ベルウッド・レコードの創設者・音楽プロデューサーの三浦光紀をゲストにお迎えしております。今週はパート2。流れてるのはこの番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

ニューミュージックという言葉は、70年代の半ばから80年代にかけて頻繁に使われ、新しい音楽の総称になりました。いつから使われるようになったのか、一時議論のマトになったんです。最初は1969年に『ニューミュージックマガジン』というタイトルの雑誌が創刊されて、これがたぶん世の中に出た最初だと思います。創刊号にはビートルズやボブ・ディランに影響されて生まれた新しい音楽というようなことが書いておりました。ポール・ウィリアムスという海外の評論家の方が60年代の初めに使っていた。70年代に入ってもっと広い意味の新しい日本語のポップミュージックというような使われ方になったんですね。その中にはオフコース、ユーミン、チューリップといったポップ系の人たちも含まれるようになった。

でも、『ニューミュージックマガジン』の後に何度か使われてるんです。例えば、シュガーベイブの最初のアルバム『SONGS』の帯にもニューミュージックという言葉が使われてました。「ニューミュージックの進むべき道がここに見えた」だったかな。1973年の中野サンプラザのお披露目のコンサートが「ニューミュージック」というシリーズコンサートだった。これには五輪真弓さんがいて、五輪さんがニューミュージックという言葉を使っていたので、そういうふうになった。でもベルウッド・レコードの企画書で使われたのは音楽業界の中で一番古いものになるんでしょう。三浦さんがそういう企画書を作った、そんな話が今週明らかになりました。新しい音楽がここから始まった、そんな1ヶ月であります。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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