1840年6月28日、英国の東洋艦隊遠征軍が広東沖に到着した(アヘン戦争)。

 英国では18世紀以降、喫茶の習慣が広がって清国から茶葉の輸入が急増したが、それに見合う清国への輸出品がなく、極端な貿易赤字に陥った。
そこで英国は植民地インドで産出するアヘンに目をつけ、清に輸出するようになった。

 清朝政府は18世紀末にアヘンの輸入を禁止したが効果はなく、密輸が急増。今度は清が極端な輸入超過に陥り、銀が国内から流出し、銀の価格が高騰した。当時の通貨制度は「銀本位制」であり、納税額は銀の重さで示されていたが、実際の税金は銅銭で納めるため、銀価格の高騰は実質的な増税となり庶民を苦しめた。また、国の財政難も深刻なものになった。

 1839年、道光帝はアヘン撲滅論者の林則徐を欽差大臣に起用し、諸外国との通商向けに唯一開港されている広州に派遣した。英国の在華商務監督、チャールズ・エリオットがアヘン引渡しを拒絶すると、林則徐はイギリス商館を封鎖するという強硬な手段で約2万袋分のアヘンを没収して処分し、アヘン禁絶を宣言した。

 これに対し英国は1840年2月、清国への派兵を決定。東洋艦隊の遠征軍は6月、広東沖に到着。広東は守備が堅固であるため、そのまま北上して浙江定海を占領し、さらに首都北京に近い天津に迫った。これに動揺した清朝政府は林則徐を罷免し、広東で条約締結に向けた交渉を行うこととなった。

 しかし英側が突きつけた数々の条件を清朝が拒否すると、連合艦隊は再び攻撃を開始し、1841年に厦門(アモイ)、寧波を占領、翌年には上海、鎮江を陥落させた。
1842年8月、清国は英国と「南京条約」を締結し、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開放、香港島の割譲、林則徐が没収したアヘンの原価の補償などを認めた。(編集担当:梅本可奈子)

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