1864年8月7日、「太平天国」の指導者の一人である李秀成(り・しゅうせい)が処刑された。

 「太平天国」は、宗教結社「上帝会」の教祖である洪秀全(こう・しゅうぜん)が清末の1851年に広西省桂平県金田村で創建した政権。
上帝会の指導者は客家(はっか)出身の下層読書人や土豪などが中心で、客家の貧農層などの支持を得て勢力を拡大し、湖南、湖北を経由して1853年に南京を占領。「天京」と改名して首都とし、清朝への抵抗を続けた。

 李秀成(1823-1864年)もまた客家の出身。地元の広西省藤県を太平天国軍が通過した際に反乱軍に参加し、1859年に忠王に封ぜられた。翌1860年に江蘇省南部を攻略し、蘇州に忠王府を建てた。

 しかしその後、曽国藩が率いる湘軍などの討伐軍が太平天国軍に対する攻勢を強める。1864年初めから天京は湘軍に包囲され、1864年7月19日ついに陥落。李秀成は洪秀全の長男、洪天貴福を守って脱出したが、22日に清軍に捕らえられる。

 曽国藩は安慶から水路で南京に到着し、自ら李秀成の取調べを行った。この際に李秀成が書いた供述書は『李秀成自述』として知られている。このうちの約3万字が現存しており、主に太平天国革命の盛衰の顛末などが叙述されており、貴重な資料となっている。李秀成は供述書を書き終えた8月7日に処刑された。
(編集担当:梅本可奈子)

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