台湾・台南市の烏山頭ダム湖のほとりにある八田紀念園区(記念公園)で1日、同ダムの建設に力を尽くした日本人技師、八田与一(八田與一)氏の妻、外代樹(とよき)さんの像の除幕式が行われた。八田与一を支えた存在として、外代樹のことを追憶してもらうためという。
台湾の中央通信社などが報じた。

 八田与一氏は1886年生まれ。現在の石川県金沢市内の出身。台湾総督府に勤務して水利事業などに従事した。特に、台湾南部の嘉南平野の開発では、烏山頭ダムを初めとして、隧道や細かい水路を建設する大規模な計画を立案。総督府職員の立場を捨て、現地に設立された組合の「嘉南・農田水利会」の技師として、工事を推進した。官民の「身分差」がきわめて大きかった当時としては、異例の“身の振り方”だったという。

 烏山頭ダムの着工は1931年であり、完成までに約10年を要した。ダム設計にあたり、八田氏はコンクリートをほとんど使用しないハイドロリックフィル工法を採用。同工法で作られたダムは湖底に土砂がたまりにくいという特徴があり、同期に作られたダムの多くが土砂のために機能を果たせなくなっている中で、烏山頭ダムは現在もしっかりと機能している。

 八田氏は太平洋戦争中の1942年、陸軍の命令で灌漑調査のためにフィリピンに向かったが、乗船が米海軍の攻撃で撃沈され、死亡した。妻の外代樹さんは日本が敗戦した直後の1945年9月1日、烏山頭ダムの放水口に投身自殺した。
同日は、烏山頭ダムの着工記念日だった。

 台湾では八田氏の功績が、歴史教科書にも取り上げられるなどで、広く知られている。烏山頭ダム建設時に八田氏や日本人部下と家族らが住んだ家4棟も、2011年に整備が終了して開放された八田紀念園区内に保存されている。

 外代樹さんの像は、台湾の財団法人である「紀念八田与一文化芸術基金会」と日本側の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の共同による設立。石川県在住の彫刻家、村井良樹さんが製作した。

 1日の除幕式には、台湾の対日窓口機関である亜東関係協会の李嘉進会長や台南市の頼清徳市長が出席。李会長は、「八田与一氏の烏山頭ダム建設で、嘉南平野は『米蔵』に変わった。八田外代樹さんは八田氏を支えた偉大なる女性だ。台湾人は八田精神を決して忘れない。日本とはずっと友好関係を続け、ともに努力していきたい」と述べた。

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◆解説◆

 技術者としての八田氏は、米国などの工法や建設方式の研究も怠らず、世界的にみても一線級の水準を持っていたとされる。ダムだけなく、巨大水路網を合わせて設計・建設した。
さらに、ダムを建設しても嘉南平野全体で稲作をするには水が不足することを見越し、稲、サトウキビ、畑作とそれぞれの土地で3年周期で植え付けを交代する「3年輪作制」を採用させるなど、利用者である農民の利益を常に考えていたという。

 農業用水の多寡は作物の種類と生産性を決定づける。古来から、使える水の量で各農村地域の格差が生まれ、どこの国でも水を巡る農民の争いは多発した。稲作には大量の水が必要だが、サトウキビは少なくてすみ、畑作は自然降水だけでほぼ足りる。3年輪作制は農民に「譲り合い」を求めたものだったが、八田氏は「給水地域だけ近代農法で豊かになり、残りが封建的な貧しさから脱却できないことは、台湾の将来にとって決してよいことではない」と強硬に主張した。

 農業経済の研究者だった台湾の李登輝元総統も「八田さんの本当に大きな貢献は3年輪作だと思う」との見方を示した。

 台湾で八田氏は、人格者としても高く評価されている。責任感が強く、危険な現場にも率先して駆け付けた。当時は日本人が台湾人を「二等国民」などと見下す風潮があったが、八田氏は日本人と台湾人を差別せず、工事中に事故や病気で死亡した人の慰霊でも、全く同等に扱った。

 仕事の面では自分にも他人にもきわめて厳格だったが、作業員の労働環境の改善には力を尽くした。部下は八田氏を尊敬し、従ったという。

 烏山頭ダムなどの水利施設の建設の際に設立された嘉南農田水利会は現在も存続しており、台湾最大の「農田水利会」としてダムなど水利施設の管理をしている。


 ダム完成後には、八田氏の銅像が作られた。威厳を持たせるような像を嫌った本人の意向を汲んで、台座なしのほぼ等身大の像で、ダム湖を見下ろすように設置された。

 太平洋戦争末期には、国家総動員法にもとづく金属回収令で、敗戦後の蒋介石時代には、日本の残した顕彰碑などの破壊命令があったが、地元の人が像を隠して守った。像は1981年に改めて、現在の位置に設置された。(編集担当:如月隼人)
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