「中国西蔵網」は「パンチェン・ラマ」について、「これまで数回、中国の指導者に会った」と説明し、習近平国家主席と会見する写真を掲載した。チベット及びチベット仏教信者では、高位者に会った際には、「ハダ」と呼ばれる長い薄布を捧げる習慣がある。
「中国西蔵網」が掲載した写真では「パンチェン・ラマ」と習主席のハダのやり取りをしている。どちらが「ハダを献呈」したかは不明だが、習主席は直立し「パンチェン・ラマ」は頭を下げている。写真のキャプションは「2015年6月、習近平は第11世パンチェンラマのギェンツェン・ノルブの接見を受け入れた」だ。
記事は、「パンチェン・ラマ」のこれまでの発言や記述を紹介。「護国」については、社会の安定が必要と強調した上で「国境外にいる一部の人は、私が言う社会の発展と安定を理解せず、無駄な話をしている」と主張。さらに「彼らが外国で毎日、扇動して現地を不安定にするわけだ。そこで騒ぎを起こすのか? もし、本当にそうだったら、現地政府も彼らを長期間とどまらせないだろう」と論じた。
名指しこそしないが、ダライ・ラマ14世やチベット亡命政府などに対する批判であることは明らかだ。
「パンチェン・ラマ」は、「護国」とともに大切なこととして「利民」を挙げた。
「精神」よりも「物質」について説いたことも、仏教者としては珍しい部類に属するだろう。
記事は「パンチェン・ラマ」の発言として、「仏教の修行者も国民であり、国民は国家の法律法令を順守せねばならない」、「ある教派が、あるいはひとつの団体が国家の法律とルールを順守せねば、発展は言うに及ばず、(教派や団体の)生き残りも問題になってくる」などと紹介した。
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◆解説◆
パンチェン・ラマは、チベット仏教界で影響力の最も大きなゲルク派で、ダライ・ラマに次ぐ地位が認められている。ただし、ダライ・ラマがチベットの政治指導者でもあったのに対し、パンチェン・ラマは純粋に宗教的権威を持つ存在だった。
歴史的にはパンチェン・ラマは主流派であるダライ・ラマの対抗勢力の側面があったという。1959年に発生したチベットで発生した反中国蜂起でダライ・ラマ14世がインドに亡命した後もパンチェン・ラマ10世は中国にとどまった。中国の圧倒的な力を現実として認めた上で、チベット仏教の保護やチベット民族の利益の維持を継続しようとの考えだったと見られている。
文化大革命時代には10年間も投獄されるなど迫害を受けた。1989年には公の場の演説で当局側が用意した原稿を無視して、「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。2度と繰り返してはならない1つの過ち」と述べた。
現在は中国国内で当局後任の「パンチェン・ラマ11世」が活動している。なお、同「パンチェン・ラマ11世」は最終的に、清代から続く籤で選ばれたが、同儀式に参列した内モンゴル出身の高僧アキャ・リンポチェは後にインドに亡命し、「パンチェン・ラマ11世」を選ぶ籤では中国政府関係者により、ギェンツェン・ノルブ少年が選ばれる細工をしてあったと述べた。
ダライ・ラマはラサのポタラ宮が居住だったが、パンチェン・ラマはチベット第2の都市のシガツェにあるタルシンポ寺に居住している。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C)Tomaz Kunst/123RF.COM。タルシンポ寺遠景)
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