長嶋監督の第2次政権下でサブマネジャーなどを務めた所憲佐(けんすけ)さん(73)。監督時代から闘病中まで、ミスターを黒子として支え続けた。
今月8日、所さんは長嶋さんの告別式に参列した。そこで、ソフトバンクの王貞治球団会長と再会する。「おい、所、大丈夫か。長嶋さんがいなくなって寂しいけど、お前もしっかりしなくちゃダメだぞ」。そう声をかけられたという。
「1993年の第2次政権から長嶋さんの監督付をやってきたんだけど、監督が自宅に帰った時以外はほぼ一緒だった。サウナも風呂に入る時も、いつも一緒だから、いわば裸の付き合いだよね。王さんはそんな付き合いも全て知ってるから、本人もつらいはずなのに、私を気遣ってくれた。2人は国民的なスターであると同時に、本当に心優しい人なんだよ」
ミスターが亡くなって数日間は「何もする気持ちになれなかった」というくらい落胆した。そんな中で王さんと再会。肩を優しくポンとたたかれ「いつまでも泣いてたら監督に怒られちゃうな」と泣くのをやめた。
「監督との日々は本当に、毎日が楽しかった。でもやっぱり、1993年の春季キャンプ(宮崎)は印象深いな」
当時、所さんはブルペン捕手とサブマネジャーの仕事をこなしていた。
「監督はいつも部屋で一人で夕飯を食べていた。なんで一人かって? カッコつけてたんだと思うよ。誰も話しかけられないくらい王様だからね。俺はお前らとは違うぞって(笑)。そんな時だったか。『おい、所。
その日を境に、監督付も兼務するようになる。
「練習が終わるとユニホームが部屋の風呂場までの道のりに乱暴に脱ぎ捨ててあって、それを拾ってクリーニングに出す。朝は6時から散歩。遠征先では毎日だった。早朝からわざわざファンの方に向かって歩いて『おはよ、どこから来たの?』と握手する。マスコミも必ずいたし、カメラも回ってた。いつも私も隣で映ってたでしょ? いつのまにか何も気にならなくなったよ」
常に長嶋さんの動向を観察し、目の合図で動く。宮崎キャンプ中は特に、バッグの中にはミスターの着替えを何枚も備えた。
「監督はね、人一倍寒がりなんだ。パッチを履いてユニホームを着て、薄いジャンパーの上に厚いジャンパーも着る。それでいてビッショリ汗をかくからね。
常にファンを意識してるから身なりは整える。香水は付けなかったが、ある時、所さんが愛用する「シーブリーズ」に興味を示す。汗やにおいをケアするちょっと刺激的な薬用ローションだ。
「監督に『おい、それ貸してみろ』と言われて貸したら『おー、ヒリヒリするな。気持ちいいぞ』って。あごや上半身に塗って、股間付近も汗でビッショリだから『ここも塗ってみよう』と。
周囲は大爆笑だった。
「飾らない人だから、いつも周りを笑顔にしてくれる。毎日が楽しくて仕方なかった」
快感のミスターは跳びはねて、はしゃいでいた。
「選手のアップ中はやることがないから、ほぼ毎日走りに行った。私が運転する車に乗って運動公園内の陸上競技場とかに行くんだけど、ある時、女子選手が輪になってミーティングしてて。監督はちゅうちょなく入っていくのよ。『どーもー長嶋です』って。選手は『キャー、キャー』と大騒ぎ。その後、400メートルトラックを5周も走るメニューにユニホーム姿で参加して、2周でバテてた。選手はずっとハイペースだもん。そりゃ、さすがのミスターでも勝てないよね」
悲しみを乗り越えた所さんは、逸話をまるで自分のことのように、楽しそうに語った。
◆所 憲佐(ところ・けんすけ)1951年7月11日、兵庫県生まれ。73歳。市川高から69年ドラフト13位で巨人入り。75年シーズンから選手登録したままブルペン捕手に。80年に現役引退。翌年から1軍サブマネジャー兼用具係に就任。その後、02年からスカウト、ファンサービス部員を経て、球団総務人事部長嶋終身名誉監督付秘書。