長嶋監督の第2次政権下でサブマネジャーと監督付を務めた所憲佐(けんすけ)さん(73)。全3回のラストは、巨人を愛する長嶋さんが取った驚くべき行動や、2000年の「ON対決」を制した舞台裏を披露。

風呂場には勝利に酔う美声が響き渡った。(取材・構成=水井 基博)

 ナゴヤドームでのあるナイトゲーム。長嶋巨人は中日に3時間にも満たず完封負け。打線は下降期にあり、4番・松井秀喜も絶不調。当時の指揮官は「きょうは練習でもゲームでも悪かったね。球をきっちりと捉えていないよ」とコメントしている。チームバスに乗り込んでも怒りは収まらない。サブマネジャー兼監督付の所さんが恐る恐る隣に座った。

 「もう、イライラしているのが表情を見れば分かったね。で、監督が何を言うのかと思ったら『おい、所、帰るぞ』って。『え、今からですか?』と聞き返したんだ。試合終了が午後8時半くらいだったのもあったと思うけど、あまりにも突然すぎて」

 バスが選手宿舎に着くなり、長嶋監督は一目散にホテルに入り、3つ並んだ真ん中のエレベーターに乗り込んだ。

すぐ後ろにコーチや選手が歩いていたが、エレベーターの扉は一人だけを乗せて閉まった。

 「すぐに隣のエレベーターに乗って追いかけたら、たしか5階だったな。監督の部屋までユニホームが道を作って脱ぎ捨てられていた。ストッキングやアンダーシャツからすべて拾って、監督の部屋に行くともう帰りの準備が始まってた。俺も急いで身支度して駅に向かったのを思い出すよ」

 新幹線の切符は帰京予定の翌日のもの。お構いなしに新幹線に乗り込んだ。

 「グリーン車に座ってしばらくすると車掌さんがやってきて、『あっ、長嶋さんだ』って気づいてくれた。そこで切符を交換してもらった。改札は駅員さんがいる通路から『電車の中で切符換えますんで』とだけ言って乗り込んだ。無賃乗車ではないよ(笑)。そこで、専属運転手の伊藤さんに電話して『監督が今から帰ります』って電話したら『えっ、さっきまで試合してましたよね。テレビで見てましたよ。

もう帰ってくるんですか?』と当然のように驚いてた」

 負けると悔しさから眠れない夜もあったという。

 「朝散歩してると監督が『昨日は頭にきて、まったく寝られなかったよ』と言うのが何度かあった。僕らは悔しくてもお酒を飲んで忘れちゃうけど、監督はほとんど飲めない。球場について『所、ミーティングまで寝たいから30分前になったら起こしてくれ』というのもあった。起きるとスッキリして『さあ今日は昨日の分までやり返すぞ』って試合に臨んでた」

 長嶋監督にとって最後の優勝は2000年。巨人のV9を支えた王貞治監督率いるダイエーとの「ONシリーズ」を4勝2敗で制した。20世紀最後のシーズンを日本一で締めくくり、所さんは「あの時は本当にうれしそうだった。王さんとは親友であって最大のライバル。負けてたらそれこそ大変だった」と回顧する。

 「祝勝会のビールかけで選手やコーチたちにたくさんかけられて、樽(たる)ごと全身に浴びた後はさすがに酔っ払ってたよ。とにかく王さんに勝って、飲めないけど大はしゃぎして。皮膚からアルコールが入って酔っ払ったんだろうね。

その後、シャワー浴びながら気持ちよさそうに歌ってたもん。そういう時は決まって『野球小僧』だよ。灰田勝彦さんが歌う野球小僧が長嶋さんは大好きでね。よく聞かされたよ」

 所さんはよほど懐かしかったのか「野球小僧に逢ったかい♪」と歌い出した。

 「前にも言ったけど、とにかく長嶋さんと一緒にいると楽しかった。毎日が楽しかったよ」

 93年の第2次政権からサブマネジャー兼監督付として仕え、現場を離れてからも常に行動を共にしてきた所さん。寂しさは拭いきれずも、必死に前を向こうとする姿が印象的だった。

 「今後? 近所でやってる野球でも見ながらのんびりするよ」

 最後に、こう頭を下げた。

 「長嶋さんには感謝しかない。人生そのものだった。この場をお借りして、本当にありがとうございました」

 ◆「野球小僧」 楽曲を歌う灰田勝彦さん(1982年死去、享年71)が主演した1951年公開の映画「歌う野球小僧」の主題歌。「泣くな野球の神様も たまにゃ三振エラーもする ゲーム捨てるな頑張ろう」と野球に打ち込む少年にエールを送る歌詞でヒット。

灰田さんは長嶋さんにとって立大の先輩でもあった。

編集部おすすめ