シダックスの創業者で社長、会長、最高顧問を務めた志太勤(しだ・つとむ)さんが9日午後11時13分、うっ血性心不全のため死去した。90歳だった。

葬儀・告別式は近親者のみで行った。同社主催で後日、お別れの会を開く。

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 志太さんが野球界に残した功績は大きい。少年野球における「Kボール」の普及なども見逃せないが、大ホームランは2002年オフ、野村克也さんのシダックスGM兼監督への招聘だろう。

 元々、志太さんは静岡・韮山高で投手として甲子園を目指した高校球児だった。けがで断念し、野球への未練を断ち切るように若き日からビジネスへと没頭し、成功を収めた。

 日本リトルシニア協会の副会長を務めたことから、「港東ムース」のオーナーだった野村沙知代さんを通じて、野村克也さんとの縁ができた。

 本業の躍進とともに、志太さんの野球熱は加速していった。1991年にはシダックス軟式野球部を設立。2年後の1993年には硬式野球部になった。親交の深かった日本野球連盟の山本英一郎さんに「どうしても勝ちたいんです」と相談すると「キューバの選手を獲るか」と即答された。山本さんとキューバに渡り、政府と話し合いの末、1994年にはキューバの選手が調布にやってきた。

 ここから新鋭・シダックスは都市対抗の常連チームになっていく。1999年には日本選手権で初優勝。だが2001、2002年と都市対抗、日本選手権の出場切符を逃した。

 志太さんは巻き返しの切り札として、親友の野村さんに監督就任を直談判した。野村さんは阪神監督として3年連続最下位に加え、沙知代さんの脱税事件もあって、2001年限りで退任を余儀なくされていた。「もうノムさんは終わりだ」「トシだし、二度とプロの監督はできないだろう」と言われていた頃の話だ。

 野村さんは2003年から赤い「SHIDAX」のユニホームに身を包み、その夏の都市対抗では準優勝の快進撃を見せた。指揮官としてのみならず、翌2004年の球界再編騒動では、球界のご意見番として見事に再生した。2006年からは新興球団・楽天に請われ、監督としてプロ野球の世界に復帰を遂げた。

 野村さんは再びユニホームを着る機会を与えてくれた志太さんに、並々ならぬ恩義を感じていた。2005年12月19日に行われた志太さんの主催による送別会では、こう言って脇目も振らずに涙を流した。

 「人生は山あり谷あり。

谷のところで仕事をもらったのに、志太さんに恩返しできなかった。志太さんには本当に申し訳ない…」

 恩返しの方法はただ一つ。都市対抗で日本一になること。それができなかったことを、人生の最後の最後まで悔いていた。

 野村シダックスは多くの「人」を育てた。野村さんが監督だった3年間、中伊豆キャンプで「ノムラの考え」をたたき込まれた男たちは今、中学生や高校生、大学生の選手たちに「人間的成長なくして技術的進歩なし」といったその教えを伝えている。

 数年前、志太さんにインタビューした際、野村さんがシダックス監督を受諾した理由に「男の友情だろうね」と答えてくれた。二人の友情によって「野村シダックス」は生まれ、多くの野球人が巣立った。

 今頃、天国で野村さんと再会を果たしているだろうか。2003年の都市対抗決勝・三菱ふそう川崎戦の継投ミスを話題に、大好きなワインをたしなんでいるかもしれない。(元野村番、編集委員・加藤弘士)

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