左腕から繰り出す速球を武器に1978年に新人王を獲得した角盈男(三男)さん(69)。しかしその栄光よりもクローズアップされたのは、不名誉な四球連発で監督の長嶋茂雄さん(享年89)を困らせたことだった。
1977年オフに巨人に入団した角に、最初に与えられた背番号は「11」だった。しかし翌78年の3月下旬、大洋からジョン・シピンがトレードで移籍してきた。
「長嶋監督に多摩川のクラブハウスに呼ばれたんです。『シピンは大洋で11だった。11を彼にやってくれないか』って。ノーなんて言えませんからね、ハイとしか答えはありませんでした。『空いてるのは45しかない。まあ、いい番号だ。4と5、足して(花札のおいちょかぶの)カブだから』とも言われたなあ。1対1で面と向かって話をしたのは、これが最初。背番号のことより印象に残っているのは監督の顔。
背番号45を背に臨んだルーキーイヤー。角は60試合に登板する(当時は全130試合)。しかも先発が6回、完了(試合の最後のマウンドにいること)が19回。先発に抑えに大車輪の働きだった。
「新浦さん(63試合に登板)と俺は、(野手同様)レギュラーかと言われてましたね。ただ、当時は言ってみれば、それが当たり前の時代。セーブと言っても今の1イニングではなくて、4イニングなんてのもありましたよ」
1年間のイニング数は112回2/3。規定投球回に届く勢いだった。左腕のオーバースローから投げ下ろす速球を武器に、5勝7敗7セーブ、防御率2・87で新人王に輝いた。ところが、その栄光よりも、この年の角の評価や印象は別のところにフォーカスされた。それは制球難だった。
「忘れたくても忘れられないのは1イニング10四球を与えてしまった7月の札幌の広島戦【注】。浅野(啓司)さんが4つ出して、俺が押し出し2つを含む3つ。ベンチに戻ると、先輩のV9戦士たちが白い目で見るんだよね。顔を上げられないでいたら、続いて田村(勲)がまた3つ押し出し。『(高校時代、投手だった王貞治や柴田勲に)ワンちゃん、どうだ? 柴田、行けるか?』という監督の甲高い声が聞こえてきましたね。ホリ(堀内恒夫)さんが『俺が行く』と言ってたけど、さすがにそういうわけにもいかなくて…」
2―12の惨敗に外出禁止令が出された。年に1度の札幌遠征。北海道のおいしい食事なども楽しみにしていただけに、チームのショックは倍増だ。
「監督や先輩に申し訳なくてね。走らなくても、横に歩いていたら点が入るから、札幌毛ガニ事件って、今は笑い話にしてるんだけどね」
もう一つ、事件はあった。79年8月1日、これも広島戦。先発の西本聖が7点の援護をもらいながら7回に3連続死球を与えるなど5失点。
「『正座して待ってろ』と言われて、監督はシャワーを浴びに行ったんです。そしたら、風呂場の桶を蹴っ飛ばす、大きな音がした。『やばい、怒ってるぞ』と西本とビビッてました。風呂から上がって、バスタオルを巻いた監督に言われました。『おまえら、バッターが怖いのか? 投げるのが怖いのか?』『打たれても命まで取られるわけじゃ、ないだろ!』『なんで逃げるんだ!』西本と俺の前を行ったり来たりしながら、小突くというか、ビンタですね。そんな言葉を発しながら、何発も何発も、殴られましたよ。監督の目には涙が浮かんでいるようにも見えたし、俺たちは『ハイ! ハイ!』と言って、されるがままでしたね。監督が選手を殴ったという話は俺は他に聞いたことがない。あの時は、まさに愛のムチ。西本と2人で『俺たちだけの財産だよな』と今でも話してます」(つづく)
【注】1978年7月6日・広島戦(札幌円山)で、巨人は押し出し6つを含む1イニング10四球の不名誉なNPB記録。
◆角 盈男(三男、すみ・みつお)1956年6月26日、鳥取・米子市生まれ、69歳。米子工から三菱重工三原。76年ドラフト3位指名を受け、翌77年に入団。78年に新人王。81年には最優秀救援投手。王政権の86~87年、鹿取―角―サンチェのリレーは“勝利の方程式”と呼ばれた。日本ハム、ヤクルト移籍後、97年には巨人の投手コーチを務めた。巨人での通算成績は517試合に登板し、29勝41敗93セーブ、防御率2.85。92年から盈男に改名。