負けても負けても走り続け、「負け組の星」と呼ばれ、社会現象を巻き起こしたハルウララ(牝29歳)が9月9日未明、疝痛(せんつう)のため、余生を過ごしていた千葉・御宿町のマーサファームで死んだ。17年3月28日から4月1日に掲載した連載を再掲する(肩書、年齢等は当時)。

 ハルウララはその後も走り、2004年5月に2着、6月にも3着と上位争い。弟のオノゾミドオリ、妹のミツイシフラワーとの3きょうだい対決で再び全国発売された8月3日、113戦目の5着がラストランになった。ハルウララが姿を消すと、あれだけ過熱したブームは去り、売り上げは年々減少していった。

 ハルウララで稼いだ剰余金も尽き、08年度の売り上げは過去最低。競馬組合トップの管理者で、当時は事務局長として赴任した笹岡貴文は「みんな前向きだった」と振り返る。経費を切り詰め、09年度にナイター競馬導入に踏み切ると、インターネット投票の普及と相まって売り上げは右肩上がりに回復。「強い馬づくり」を掲げ、昨年末から上位入着馬の賞金額をおおむね倍に引き上げた。16年度の売り上げは25年ぶりにレコードを更新。かつてタブーの連敗馬を売り出し、負け組だった高知競馬は強くなった。

 66歳の宗石大は調教師を続けている。「僕らご飯食べていかんとアカンからね。ほかのこと、できんですよ。

ハルウララのことがなかったら、誰も高知競馬を知らんですよ。ハルウララで知ってもらったから、今の高知競馬がある。高知競馬は不滅です。高知競馬が勝ったんですよ」

 企画総務班長として陣頭指揮を執った山中雅也は高知競馬には2年いただけで県庁に戻った。「(武豊が騎乗した)あの日は、僕の仲間が年休取ってボランティアでゴミ拾いや馬券講座をやってくれたんよ。仲間? 県庁の競馬仲間よ。年1回、菊花賞に行くメンバー」。根っからの競馬好きが、地元のピンチに駆けつけた。その筆頭が山中だった。

 事業課管理班長になった吉田昌史は、場内イベントではスターター吉田としてギターを弾く。「歌うと手拍子が始まります。ほかの歌もやりますけど、一番響くらしいですね」

 どうにかここまでこれたのは みんなの応援あったから(中略)夢のゴールはきっと来る(「ハルウララの詩」)

 千葉県、房総半島。

太平洋に面する御宿町にあるマーサファームは田畑に囲まれたのどかな牧場だ。21歳のハルウララがスタッフの宮原優子さんにニンジンをねだって甘えていた。「物音とか風に敏感で若い馬みたいです。乗っている時はうるさくて大変。手を緩めたら走っちゃいますね。人のことは好きで信用してますし、大事にされてきたんだと思います」

 ここで4年以上を過ごしているが、大きな病気やけがにも無縁で相変わらず丈夫そのもの。余生を見守る趣旨に賛同した、サポート団体「春うららの会」会員80人の会費で預託料を賄っている。「会いに来られて感動して泣いている方もいました」。大型連休や夏休みなど多い日には10組が見学に来ることもあった。多くのファンを集め、高知競馬を救った馬は、今もファンに支えられている。 =敬称略・おわり=

 ◇米国で短編映画に ハルウララに興味を持ったニューヨーク在住のアーティストで映画監督のミッキー・ドージェイ氏が15年に高知を訪れ、関係者インタビューなどで構成した短編映画「The Shining Star of Losers Everywhere(負け組の星、ハルウララ)」を製作。16年、カナダのホット・ドックス国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀短編ドキュメンタリー賞を受賞。

昨秋、ドージェイ氏が来日し高知競馬場で上映会が開かれた。

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