◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち第25回:前編 渡辺雄二
1990年代初頭、後楽園ホールを毎試合満員札止めにしたボクサーがいた。豪快なファイトで連戦連勝。
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ミットを持ち練習生のパンチを受け、声をかける。「ジャブ、ジャブ、右」「アッパーからフック」。渡辺の大きな声がジム内に響いた。「やっぱりボクシングの仕事が一番楽しい。今は週5でジムに来ています」。現役時代に所属していた斉田ジム(東京都練馬区)で2年前からトレーナーとして後進の指導に当たっている。90年代前半、ボクシング界屈指の人気を誇った渡辺も引退から四半世紀がたち55歳。
3200、3000、3200、3200―。これは渡辺が日本スーパーフェザー級タイトル(1991年10月)を獲得した試合から世界前哨戦までの後楽園ホールの観客数。現在は規制が厳しく、ここまで入場を許可していないが、90年代前半の渡辺の試合は立すいの余地もないほど会場に人が押し寄せた。チケットは前売り段階で完売した。当時は民放各局がそれぞれボクシングのレギュラー番組を持っていた時代。渡辺はフジテレビ系の「ダイヤモンドグローブ」の看板選手として世界取りを期待されていた。
思い切りのいいファイトでKO勝利を続け、ついたニックネームは「お江戸のタイソン」。世界初挑戦はプロ11戦目。10戦全勝全KOというパーフェクトレコードを引っ提げ、92年11月にWBA世界スーパーフェザー級王者ヘナロ・エルナンデス(米国、2011年6月7日に死去)に挑戦した。「あの強打なら何かを起こせる」とファンは夢を託したが、6回TKO負け。完敗だった。
「あの頃、連戦連勝で『俺は負けない』という思い込みのような自信はあったんですが、とにかく(ヘナロは)強かった。(リングで)一流のレッスンを受けたみたいな感じでした。何もできなかったし、自分のパンチがまったく当たらなかった。頭をぶつけてやろう、肘を当ててやろう、足を踏んでやろうと反則でも何でもいいからやろうとしたが、それさえもできなかった」
当時、人気は頂点に達していた。その人気を支えていたのは、多くの女性ファンだった。豪快なボクシングスタイルを純粋に支持する人もいたのだが、大半はそのルックスに心を奪われた。女性週刊誌「anan」の好きなスポーツ選手ではサッカーの三浦知良、プロ野球のイチローを抑え1位になるなど、女性誌には毎週のように登場していた。西武池袋線・練馬駅から徒歩1分の距離にあるジムには、渡辺をひと目見ようと、連日女性ファンが集まった。
プロ11戦目での初黒星。それでも人気は衰えなかった。再び世界を目指すために出直しを図るが、世界ランカーを相手にした再起2戦目でKO負けする。1階級軽いフェザー級にウェートを落とし、2度目の世界挑戦が巡ってきたのは初挑戦のヘナロ戦から4年4か月がたった97年3月。
「バスケス戦は2ラウンドで倒されて、その時に意識が飛んでしまった。もうろうとする中、顎にパンチを受けると『何だこの痛さは』と目が覚める。また意識がもうろうとなるんですが、打たれてあまりの痛みに意識が戻る。この繰り返しでした」
2度の世界戦のリングに上がった渡辺は、自分の勝利を信じ切れないまま試合に臨んでいたという。「何て言うか、リングに上がった時は、フワフワした精神状態だった」。対峙(たいじ)した世界王者たちからは「どっしりと構えて、多少のことでは動じないメンタルの強さを感じた」と1ラウンドのゴングが鳴る前から、そのオーラにのみ込まれた。チャンピオンにはあって、自分にはなかったもの。欠けていたものの答えを、渡辺は言った。
「もっともっと練習とキャリアを積んで、納得したトレーニングを毎日しなければいけなかったということ。もう一点は…。私生活の中で自分にどれだけ厳しくなれるか。
頭の中には「必ず世界を取る。ベルトを取って、応援してくれた人たちに恩返しがしたい」という気持ちがある一方で、「遊びに行きたい」という気持ちもある。まだ20代前半、遊びに行きたいという気持ちに「女の子と一緒」というワードが加われば、より強い気持ちに変わってしまう。ジムワークを終え、家にまっすぐ帰り、翌日の練習に備えればいいのだが、女性ファンとのデートを楽しんでいた。「自分自身にうそをついているようなもの。練習を頑張らなければいけない時、ボクシングに集中しなければいけない時なのに女の子と遊びに行ってしまう。自分に負けているという罪の意識はあるんです。自分に厳しくならないといけないと思いつつも、できなかった」と顔をしかめた。ジムワークをおろそかにすることはなかったが、ボクシングと向き合う気持ちに多少の変化があったことは事実だった。(続く)
◆渡辺 雄二(わたなべ・ゆうじ)1970年5月2日、東京都練馬区出身。