“ミスター赤ヘル”こと元広島監督の山本浩二さんが「喜怒哀楽」を語る。1970~80年代の広島黄金時代に絶対的な4番打者として君臨し、通算536本塁打は歴代4位。

鉄人・衣笠祥雄との“YK砲”は脅威で、巨人戦通算100本塁打の大台は2人だけだ。現役18年間の濃密な記憶を掘り起こした。スポーツ報知で連載した巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」から再録する。(取材・構成=太田倫)

*****

◆「喜」29歳で初優勝野球人生分岐

 野球人生の分岐点は、1975年のカープの初優勝だね。ホームラン王とか、個人の喜びももちろんある。でもチームみんなで勝ち取った優勝は、それ以上のものなんよ。プロ7年目、29歳になる年やった。冷静に周りが見え始め、どっしりとプレーできるようになった。いいものを味わって、また優勝したいという思いが、後の支えになった。

 毎年「コイのぼりの季節まで」って言われたカープが、5月の沖縄遠征で首位に立って、前半戦を終えてもまだ3位。そして、ひとつの転機が7月のオールスターや。第1戦の甲子園で、衣笠祥雄と2打席連続のアベックアーチ。

長嶋茂雄さんが三塁コーチャーやった。これはもう…信じられない気持ちよ。新聞の見出しに「赤ヘル旋風」と躍った。さらに勢いづいたね。

 わしは前の年のオフに登録名を本名の「浩司」から「浩二」に変えた。その方が勝負事にはいい、と勧められたからや。「赤ヘル」になったのも75年から。最初は恥ずかしかったな。オープン戦で相手のパ・リーグの選手から「なんやそれは!」ってからかわれた。でも「赤」って何か燃えるもんがあるんや。結果的には変えてよかったよ。

 8月上旬に首位を奪い返して「ひょっとするかも…」と思い始めたら、プレッシャーよ。

広島の夏はとんでもなく暑いし、心も体も疲れるなんてもんじゃない。主力組は毎日のように点滴を打って試合に出ていた。そうやって勝ち取った優勝やから、感激もひときわ大きかった。優勝パレードには30万人。沿道には遺影を持った人たちもいて、涙を流して喜んでくれた。

 68年のドラフト1位で入団した頃は、巨人のV9(65~73年)真っただ中やった。あのONがいて、周りにもすごい選手がいっぱいいた。カープはまだ万年Bクラス。あの頃は巨人と戦うと、借りてきた猫みたいになっていた。勝てるわけないと思ったよな。巨人戦はテレビにも映るし、活躍すれば名前が売れる。やっぱり特別やったよ。

 若手時代、大きな自信をつけてくれたのも巨人戦や。あれはプロ2年目、70年9月11日の後楽園。4―3で勝っていて9回裏、1死三塁でランナーは王貞治さん。6番の末次利光さんが右中間に打ち上げた。わしは中堅からノーバウンドでバックホームして、タッチアップした王さんを刺した。あのゲームセットの瞬間は気持ちよかったねえ…。

 ところで当時、「11(イレブン)PM」って深夜番組があったやろ【注1】。その中のスポーツニュースで、司会の大橋巨泉さんが「広島の井上弘昭ってのは、すごい肩してますね」って、先輩と間違えとんねん! これは悔しかったね(笑)。

 【注1】65年から90年まで日本テレビ系列で放送されていた深夜帯のワイドショー。社会問題からお色気ネタまで幅広いジャンルを扱う人気番組だった。

◆「怒」3連戦欠場に最後「なにい」

 古葉竹識監督には、頭が上がらんな。1975年の5月に監督になって【注2】、三塁コーチャーをやりながらサインを出す姿がカッコよかった。

兄貴のような存在やったね。

 84年、古葉さんの下で4度目のリーグ優勝を果たした。開幕から調子が上がらず、8月7日の巨人戦(後楽園)では11年ぶりに6番に下げられた。同点の8回1死三塁で、前の打者が敬遠。発奮したよ。西本聖から決勝3ランを打った。

 でも本調子とはいかず、次の大洋3連戦(横浜)を欠場した。後輩の内田順三が打撃コーチで「きょうは休みです」と伝えに来る。1試合目は「疲れも取れるし、いいかも」と思ったが2試合目は「ええっ?」となり、3試合目は「なにい?」言うて怒ったよ(笑)。しばらく古葉さんとは口もきかんかった。

 後から聞いた監督の考えは「後半頑張ってもらわなあかんから、休ませた」ということ。終盤は復調して、マジック1で迎えた10月4日の大洋戦(同)では優勝を決める逆転3ランも打った。

うまくコントロールしてもらってたのよ。

 わしは法大の後輩にあたる江川卓を、通算で打率3割4分6厘、14本塁打とカモにした。最初は入団の仕方が気にいらんから、クソ生意気なやっちゃなって。「打ちのめしたる」ってコメントをした覚えがあるよ。ところが、あいつが新人だった79年6月17日、2か月間の自粛明けに後楽園で初対戦して【注3】、あの真っすぐにビックリしたんやから。速いし浮き上がる。「こら、すごいピッチャーやな」って。この年は19打数3安打で0本塁打、打率も1割5分8厘だった。

 そのオフに、12球団の選手が集まって歌とかクイズをやる番組があった。そこで江川と話して「頭のいいヤツだな」って分かった。カッカする前にどうやったら打てるか考えないかん。

 マウンドでは、どんどん向かってくるタイプや。

特に中軸には力の入れ方が違う。そこで次の年のキャンプで対江川用の練習をした。マシンで速球をインハイにセットして、ストライクをコンパクトに、ひと振りで仕留める練習を徹底的にしたよ。バットもほんの1センチぐらい短く持ってな。

 若い頃からオフに選手が集まるゴルフや歌番組があれば、東京まで出ていくようにした。ゴルフも下手。歌も下手。でも恥を忍んで参加した。なぜか。何げない会話から他球団の連中の考えや性格を知るためよ。江川もそう。相手からしたら、そうやって観察されているとは思ってもみなかったやろうな。

 【注2】75年はジョー・ルーツ監督が審判とのトラブルをきっかけに開幕から15試合の指揮を執っただけで退団。監督代行を立てた4試合を挟み、5月に古葉がコーチから監督に昇格。この年を含め、85年に勇退するまでリーグV4度、日本一3度。

 【注3】江川は78年オフに巨人と電撃契約する「空白の1日」事件、阪神・小林繁とのトレードなど大騒動の末に巨人に入団するも、79年は開幕から2か月1軍昇格を自粛。6月17日の広島戦は8回途中4安打1失点でプロ初勝利。

◆「哀」今でも悔やむ76年ズル休み

 悔やまれるのは初優勝の翌年、1976年や。シーズン最後は10月22日、川崎での大洋とのダブルヘッダー。もう3位と決まっていたし、古葉さんが「どうする?」と言うから、「もういいです」って第1試合だけ“ズル休み”してしまった。あれがなければ75年から82年まで8年連続フル出場。衣笠の2215試合連続出場には追いつけんけど、代打でも出ればよかったと今でも悔やんでいる。

 腰痛との闘いは大変やった。これは大学の時に上級生にやられた“ケツバット”の後遺症でもあったんや。疲れてくると、(尾骨の上にある)仙骨のあたりがフニャッとなって、力が入らなくなる。若い頃は、シーズン中に必ず動けなくなるときがあった。移動日のたびに治療したり、予防はずいぶんやった。バスの真ん中の通路に寝そべらせてもらったり、地方遠征では、用具を運ぶトラックの、運転席の後ろにあるベッドに寝て移動しとった。そこが一番楽やったからな。

 75年8月7日のヤクルト戦(神宮)。朝起きたら腰が痛くて動けん。試合前にやっと歩けるようになって、もうダメやと思ったら、ちゃんと4番でスタメン。古葉さんは、お客さんが一人でも見に来てくれるならレギュラーである以上は出なきゃいかん、という考えの持ち主やったからな。7―7の8回1死三塁で打順が回ってきた。そしたら古葉さんが「スクイズするか?」って聞いてきた。「スクイズします」って言うわけないやろ。結果は右翼席に決勝2ランやった。

 守備には自信があったが、実は“ヘディング”をやらかしたことがある。あれは81年4月19日の巨人戦(後楽園)。7回2死で、中畑清が左中間の一番深いところにフライを打ってきた。カウントは3ボールだったから、まさか打つわけないやろ、と思って油断していた。慌てて追いかけたせいで、視界がぐらんぐらん。パッと振り向いたらボールが3つくらいに見えた。ボールが帽子のひさしに当たってから、おでこにゴン。記録は三塁打やったが、痛くも何ともなく、ただただ恥ずかしかった。

 ところが4か月後に起きたのが、かの有名な中日・宇野勝のヘディング事件や【注4】。あれで元祖?のわしの方は全く話題から消えてくれて助かった。宇野には本当にありがとう、と言いたいよ(笑)。

 【注4】81年8月26日の巨人―中日戦(後楽園)の7回2死二塁、巨人・山本功児の飛球を中日の遊撃・宇野が捕り損ねて見事なヘディング=写真=。二塁走者が生還した。巨人は前年から159試合連続得点中で、完封を狙っていた投手の星野仙一はグラブを地面にたたきつけるなど怒った。

◆「楽」初対面なのにビックリ(笑)

 ONは、我々からすれば神様。オールスターとかに出て話もできるようになったけど、やっぱり雲の上の人やから。78年に44本塁打で初めてホームラン王になれた。あの王さんと競って取れるとは若いうちは考えてもみなかった。王さんは本当に律義で優しくて、イメージ通りの人やな。

 ミスターは何とも言えない楽しさを感じさせてくれる人。新人のときかな、わしがセーフティーバントをした。ミスターが突っ込んできたけど、ファウル。そしたらいきなり「コーちゃん、打って打って!」って言うわけ。それまで話したこともなかったのに「コーちゃん」だから。ビックリしたよ(笑)。

 そして、頭のいい人。ゴルフを一緒に回っても、わしが何番であそこに打って…とか全部覚えている。ミスターのちょっとしたエピソードなんかは、半分はわざと周りを明るくして盛り上げるためのパフォーマンスと思っている。現役時代の全シーズンで規定打席到達はミスターとわしだけなんやって? これはよう頑張ったなと思うよ。

 アベックアーチの数はONが106回で1位。2位がわしと衣笠の86回やった。巨人戦では、キヌが101発でわしが100発か。同学年だったが、キヌは高卒でプロ入りして、先にレギュラーになった。負けたくない思いだけやから、ユニホームを着ているとき以外はあんまり話したことがなくて、決して仲は良くなかった。

 でも、初優勝で関係が変わった。この感激をまた味わうためにはどうするか? どうやったらもっと打てるのか? キヌとも、腹を割って本音で話し合えるようになった。当時は同じ団地に住んでいたから、互いの家で飯を食ったりな。もちろんライバルには変わりない。でも、腹の中で抱えているだけじゃなくて、口に出して「負けないぞ」と堂々と言える、理想的なライバルになれた。向こうは骨折してても出るような選手やから、こっちも休んでおれんっていう気持ちを、いつも持っていた。

 衣笠祥雄がいたから、山本浩二はここまで来られた。キヌもきっとそうやろう。=2025年5月27日スポーツ報知掲載=

 ◆山本 浩二(やまもと・こうじ)1946年10月25日、広島市生まれ。廿日市高を経て法大ではスラッガーとして田淵幸一、富田勝と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、68年のドラフト1位で広島入団。18年間で本塁打王4回、最優秀選手2回などタイトル多数。86年に引退後は広島監督を計2回、通算10年務め、91年にはリーグ優勝。2008年に殿堂入り。13年WBCでは日本代表監督として4強入り。右投右打。

◆取材後記 「キヌ」命日に明かした誇り

「オレが、オレが」のプロの世界。両雄が並び立たないことの方がずっと多い。2人で1040発のYK砲は、コンビを組み続けた時間の長さ、関係の濃さという意味でも希有(けう)なコンビと言える。「仲のいい選手はおったけど、やっぱり大きいのはキヌやったな」。山本さんが衣笠さんを語る言葉は、誇らしげだった。

 最高の相棒が砥石(といし)になり、「一流」から「超一流」への境界線を飛び越した。2人を中心に主力が競うように練習し、若手が倣う。広島の猛練習を伝統として根付かせたのも、功績のひとつだ。

 「わしらがいい歴史を作ったっていうのは自負できる。よきときに、よきライバルに恵まれた」

編集部おすすめ