TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。


宇多丸、『くれなずめ』を語る!【映画評書き起こし】の画像はこちら >>

宇多丸、『くれなずめ』を語る!【映画評書き起こし】

宇多丸:
さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、5月12日から公開されているこの作品、『くれなずめ』

『アズミ・ハルコは行方不明』『バイプレイヤーズ』シリーズなどの松居大悟監督が、自身の体験を元にした舞台劇を映画化。友人の結婚披露宴で余興をするために、5年ぶりに集まった高校時代の6人の仲間たち。披露宴と2次会の間に高校時代の思い出を振り返るが、仲間の1人、吉尾はある秘密を抱えていた。これ、ちなみにその「秘密」の部分なんですけど……予告とか宣伝でも全然出ちゃってるところなんで、これ、評論中では途中から言います。という感じですね。

主人公の6人を演じるのは成田凌高良健吾若葉竜也浜野謙太……ハマケンさん、藤原季節。目次立樹さん。さらに城田優さん、そして前田敦子さんなどが脇を固める、ということでございます。

ということで『くれなずめ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「普通」。

まあでもね、そんなに公開館数が多くないっていうか、今ね、本当に映画館そのものがあんまりやってない中でね、結構健闘している方じゃないですかね。

賛否の比率は、褒める意見が4割ちょっと。残りの6割が「好きなところもあるが、乗れないところもある」や「自分にはダメだった」という意見で半々。なかなかね、クセの強さとか、後ほども言いますが、ある種のこう、エグさの部分もたしかにありますよね。主な褒める意見としては、「後半以降、涙が止まらなかった。個人的にとても大切な映画になった」「悲しい過去を自分の中でどう折り合いをつけていくのか?そうしたテーマをユーモアで包みながらゆっくり丁寧に描いている」などがありました。

一方、否定的な意見としては、「内輪受けの強いホモソーシャルなノリや女性、外国人の扱いが見ていてキツい」「終盤直前のある突拍子もない展開で完全に置いていかれてしまった」などがございました。またラジオネーム「ムラカミ」さんからは映画の熱い感想と共に、非常に熱くなってしまったということで、劇場で売られているイラストTシャツを2着も送っていただいて。ありがとうございます!お気遣い、ありがとうございます。

■「引きずったり、ごまかしたり、カッコ悪くても生きていきたい」(byリスナー)

といったあたりで、代表的なところをご紹介しましょう。まず、褒めてる方。ラジオネーム「どんぐり」さん。

「映画『くれなずめ』、副音声つき上映含め2度観てきました!最高に爽快な気分で劇場を出る久しぶりの経験をしました。『ヘラヘラしろよ』『引きずることから逃げんじゃねえよ』など、聞いたことのないダサい決め台詞に悔しいくらい泣かされましたし、きっと今後も忘れられないパンチラインになるだろうと思います。

特に私が好きなのは、メンバー1人1人の回想の中で成田凌さん演じる吉尾のキャラクターが変化しているところです。辛辣なことを言われる関係性の人も、男同士でじゃれあって好きな女の子の話や馬鹿話した思い出ばかりな人も、一緒にいた日の思い出が出てこない人もいました。人は関係性の中でどんなふうに人に映るのかが変化するもので、それが特に故人であった時、自分がここに存在していてほしいと思うところにその人を置いてしまうことが人にはあるなあ、と思うのです。その都合のよさや、何かに折り合いをつけないままにも生きていくことについて、こんなに肯定されることがあるんだ!という驚きさえありました。好きなシーンはたくさんありますが、藤原季節さん演じる大成(ひろなり)が、作中の死者に線香をあげに行った帰り道、駅で『なんか、お菓子もらいに来た人みたいになっちゃって』と言った顔が忘れられないです」。あそこの藤原季節さんの顔は、素晴らしかったですね。

「……思いっきり泣くことも強がることも選べていないような、自分に湧いてくる気持ちに戸惑っているような、どこにもいけないすごい表情をしていました。高校生の頃、親友のお父さんのお通夜に行った日にどんな顔をすればいいか分からなかったが自分が救われるような気持ちになりました。引きずったり、ごまかしたり、カッコ悪くても生きていきたい。人生で何度も見返したい一本です」というどんぐりさんのメールでございます。

一方ですね、ちょっと否定的な方もご紹介しますね。「ロバート・マコマッコール」さん。「感想は『否』です。私は男性ですが、全体に流れる品の無い『ホモソ感』に乗れませんでした。ギャグも身内ノリで、引いた目線で見てしまい……」。もちろんね、身内同士でキャッキャキャッキャってやってる話だからね。「……全然笑えませんでした。劇中で若葉竜也演じる舞台役者が、先輩に向かって『コメディ作る方が大変なんだ』みたいな啖呵を切っていましたが、だったらもっと笑えるコメディを作ってくれよ、と思いました。役者陣の実年齢や見た目の年齢がちくはぐで、同級生や後輩だとわかりづらく、また高校時代を回想しているのに見た目に変化を付けてないのに違和感がありました(「変わらないな」と言われてたのは成田凌だけなのに)」。まあ、これはちょっと後ほど、こういうことじゃないかな、というようなのは言おうかなと……入るかな?

「……また前田敦子が演じる同級生もステレオタイプの「ヒステリックな女性」みたいな描き方で、まだそんな認識なの?と思ってしまいました。後半のテイストが大きく変わる展開も、登場人物を好きになれていれば意表を突いた演出として受け入れられたかもしれませんが、そうでは無い私には、ただただ冷めていく一方でした。旬なキャスト陣から期待は大きかったのですが、個人的には今年ワーストです」という非常に厳しいご意見。

厳しい人の意見が(いつも以上に)厳しいんですよね。

和歌山の本屋プラグ嶋田さんもね、ちょっとこれ、メールを読むのは省略しますけども、やはりロバート・マコマッコールさんと同じような観点で、非常に厳しい批判メールをいただいております。で、そういう言葉が出てくる、評が出てくるのもまあ、わかるっていう。そういう面も全然ある作品かな、というのもあるんですけどね。まあ、私はどう見たか、お話していきましょう。皆さん、メールありがとうございます。

■自然主義的な演技から突然、超常的な場面にスコーンと振り切るバランス感覚を持つ松居大悟監督

『くれなずめ』、テアトル新宿で私も2回、見てまいりました。

平日昼としてはまあまあ、結構入ってる方かなと思いましたけどね。あと、その東京テアトルチャンネルというインターネット上のページで、出演者の皆さんによる「ネタバレありのバックステージトーク」っていうのの配信が、今日の10時から始まっていて……31日までやっていて、それもチケットを買ってさっき、見たんですけど。脚本・監督の松居大悟さん。大学在学中から劇団ゴジゲンていうのを立ち上げられて。2012年に『アフロ田中』っていうね、元は漫画の映画化の監督として抜擢されて以降、劇場用映画、ドラマ、ミュージックビデオなどなど、本当に多数手がけられていて。

何気にものすごい売れっ子ですよね。松居さんね。

最近だとね、先ほどもありました、『バイプレイヤーズ』とかもそうですね。私、今年公開された最新の劇場版はすいません。ちょっと見逃してしまっておりまして。見れていないんですが。そんな感じで、全部が全部ではなくて申し訳ないんですけど、気づけば結構な割合で松居大悟さんの、少なくとも長編映画は2本を除いて全部見てる、ぐらいではありますね。

で、松居さんね、得意としているのは、今回の『くれなずめ』もまさにそうですけど、先ほどからね、ちょっと本当に焦点になってますね、男友達同士のワチャワチャしたじゃれ合い描写、まあ、ホモソーシャル的なワチャワチャ描写。ただ、2015年の『私たちのハァハァ』ではその女の子たち同士……女の子たち同士でもやっぱりこういう、ワチャワチャ描写だったんで。まあ、それを非常に見事に切り取っていたんで。いずれにせよ、その友達同士のワチャワチャみたいなのものをね、ほとんど本当の友人関係をそのまま映しているだけなんじゃないの?って見えるぐらい、自然に描き出す、という。そういう名手であることは間違いない松居大悟さん。

と同時に、そういう一見ものすごく自然主義的な、要するに「本当に友達なんじゃないの?それをそのまま撮っているんじゃないの?」みたいな自然主義的な演技、演者のテンション、演出のテンションはそのままに、時折そのリアリティラインが、突然スコーンと、フィクション側にガーッと振り切る。突然、超現実的なところにボーンと抜けていったりする。あるいは、実はその現実と妄想、空想の境が非常に曖昧だった、ということが明らかになったり。そういうちょっと突き抜けた展開、構造というのも、松居大悟さんの作品ではしばしば見られる。

たとえば2015年の『ワンダフルワールドエンド』と今回の『くれなずめ』、どちらも文字通り、「お花畑」ですよね……よく「脳内お花畑」なんて言い方をしますけど、文字通りお花畑に、スコーンと抜けたりする部分があったりする。で、これはたぶんひょっとしたら……要するに、すごくそのままを撮ったような自然主義的な演技と、その超常的な場面にスコーンと抜けるって、これは先ほどから言ってるように、演劇も同時にずっとやってこられた方ならではのバランス感覚なのかな、という感じがしますね。

■ホモソーシャルなワチャワチャが「もはやそこまで無邪気なものではなくなってしまった」地点から語られる物語

あとですね、これも重要だと思うんですが、今言った『ワンダフルワールドエンド』という作品、あと『私たちのハァハァ』。あと、2016年の山内マリコさん原作の『アズミ・ハルコは行方不明』。この三作は、大きく言ってシスターフッド物でもあるわけですね。特に『アズミ・ハルコは行方不明』は、山内マリコさん原作でもあるから、割とはっきりフェミニズム的な問題意識を持って、たとえばさっきから言ってるようなその男たち、男同士のワチャワチャ、いわゆるそのホモソーシャルなノリっていうのを、はっきり批判的に相対化もしてたりするわけです。

なので、少なくとも松居大悟さん、その「男子中学生の日常」とか、そういう前のやつじゃなくて、ある時期から……やっぱりこの、いま挙げた三作ですね、そのシスターフッド物三作ぐらいから、そのいわゆる得意としてきたホモソ的なワチャワチャ描写みたいなのが、そこまで無邪気なものじゃなくなってるっていうか。たとえば2018年『君が君で君だ』っていうね、これもね、だから非常に見る人によっては、もう嫌悪しか醸さないような男同士描写があるんだけど。

それがもう、客観的にはっきりキツいっていうか、見てられないし。まあ全く正しくもない、というようなものとして基本的には扱われていたりして。ある種、扱い方のバランスがどんどん変わってきてると思う、ある時期から。その意味で今回の『くれなずめ』は、まさにそうした男同士の、本人たちは楽しそうなワチャワチャ……完全に身内ノリですよ。だから、その中でやってるギャグが面白いか面白くないかで言えば、面白くないよ、そんなの。あの「笑ってんのかーい」とか、そんなの面白いわけないんだけども。でも、その本人たちは楽しそうなワチャワチャが、「もはやそこまで無邪気なものではなくなってしまった」地点から語られる話ですよね、今回の『くれなずめ』は明らかに。

つまり、その「もうこういうのが楽しい時期じゃない。こういうのが楽しめるわけじゃない」っていうところから振り返った話であり……それを意識的にむしろ、構造化してるような話というかね。そういう構造を元々、打ち出している話とも言える。

■自身の青年期と区切りをつけるような、たぶんターニングポイントになる作品

元になったのは、2017年に、先ほどから言ってるその松居大吾さん主宰の劇団ゴジゲンが舞台でやられていたもので。ちなみに僕、これは拝見できていなくてですね。先週の『ファーザー』に引き続き、元の舞台が見れてなくて申し訳ないんですが。なんでもそれ、やっぱり松居さんご自身の大学時代の友人、劇団に誘ったけど断られて……っていうような方。まあ劇中の吉尾っていうキャラクター、成田凌さん演じる役柄のモデルになった方が、実際にいらっしゃったということで。

まあ、その今日配信のさっき言った「バックステージトーク」っていうのの中でも、最後、すごい声を詰まらせていらっしゃいましたけど。つまり、その松居大悟さんご自身にとって、かなり個人的な意味を持つ作品……であればこそ、この『くれなずめ』、さっきも言ったような意味で、松居大悟監督のこれまでのいろんな要素が入った集大成にして、ターニングポイントっていうか、たぶんその、男同士のワチャワチャ物みたいなのに、ひとつケリをつけるような作品というか。自ら青年期、青春期に区切りをつける……わかりませんよ?ここから先、何を作るのかわからないから俺が勝手に言っていることだけども。かもしれないけど、たぶん、ターニングポイントになる作品。その青年期、青春期との区切り。

それはまるで、まさに夕暮れ……くれなずむ夕暮れのような、ファジーなグラデーションではあるんです。いきなりバコン!って変わるというよりは、ファジーなグラデーションだけども、でも確実にそっちに向かっている、みたいな。そういうものとして、松居大悟さんのフィルモグラフィーとしてもたぶん、非常に重要な一作になっているんじゃないかという風に思います。僕個人の結論を言ってしまえば、まだ二作ほど見逃している状態でこれを言うのもどうかと思うが、松居大悟さん現状の最高傑作、ということは言ってもいいのかな、っていう風に思うぐらいです。

■回想シーンは主観的にデフォルメされ、現在パートは特定の解釈を入れずに長回しで撮る

まず冒頭、その友人の結婚式で見せる余興のために会場を下見する、その6人の主人公の男たち、その長回しという。この長回しがまず、結構すごいですね。5分ぐらい続くのかな?さっき言った、その配信された「バックステージトーク」によれば、15から16テイクぐらい撮ったって言っていましたね。しかもこれ、うまくいったように見えても、「うまくいきすぎた」テイクは……要するに、5年ぶりに会うという距離感、ちょっとしたギクシャク感がこれは出てないとかでダメってなったりとか、そういうこともあったりしたみたいで。

とにかくそんな感じで、それぞれ微妙に年齢や学年が違う……つまりこれ、明らかに部活じゃねえな、っていうこのゆるいつながり。部活じゃないし、サークルじゃない、この上下関係がルーズすぎるっていう感じ。「こいつら、帰宅部だな」みたいなね。そんなつながりであるなっていう感じだとか。あるいは、そういうやり取りから透けて見える、各々の現在の人生とか人柄。たとえばその、藤原季節さん演じる彼が、妙にカリカリしていて。わかります。俺もどっちかっていうとああいうタイプです。「もう迷惑、かかっているから!」みたいな感じなんだけども。

彼の、要するに「今、お前、どういう会社に勤めてんの?ちょっとお前が心配なんだけど?」っていう感じの雰囲気とかが透けて見えてきたりする。要するに、それぞれすでに全く異なる人生を歩いていて、こんな機会でもなければ、もうほぼほぼ疎遠になりかけだった、っていうようなことも匂わせるような、そういうニュアンスが出てきたりとか。そしてもちろん、会場の係の人が「5人」って言ったそばから「6人」って言い直したり、少しだけそのリアリティーの基準がぐらつくような描写が、ちょっと入ってきたりとかしてですね。諸々が、このぶっ通しの5分間の長回しで、その物語上必要な情報というのが、決して直接的な説明ではなく、きっちり提示されていくという。このへん、上手いですね。やっぱりね。

これ、パンフのインタビューとか、「バックステージトーク」っていうさっき言った配信で監督が仰っていたのは、それぞれのキャラクターが、そのふとしたきっかけで思い出す……この後、回想エピソードが少しずつ入ってくるわけなんですね。なんだけど、これ、実際の記憶というものがそうであるように、断片的な出来事を、その思い出してる本人の視点に寄り添うようにその回想シーンは編集してみせている、という。なので、その回想シーンの中の描写は全体に主観……まさに先週の『ファーザー』じゃないけども、ちょっと主観的に偏った描写なので。たとえば、後ほど言うその前田敦子さんの女性キャラクターが、あれはデフォルメされてるんですよね。「そういう風に見えていた」っていう。「記憶の中ではこう」みたいな。

だから、その中の人物の年齢の感じがギクシャクしていたりするのも、そういう記憶の書き換えの話でもあるということで。回想の方はそういう感じで見せている。で、一方対照的に現在パートは、起こっていることそのままを、特定の解釈を入れずに捉えたような長回しをしている。要するに、見せ方の違いをみせている。そんな感じで、舞台版とは違う、その映像作品ならではの見せ方っていうのを、きちんと考えられてやられているわけです。

■「結婚式の2次会までの時間」という「くれなずめ時間」を舞台にしたところがさすが

で、元々のその舞台版にはない今回の映画版ならではの大きな要素として、もうひとつ、場所の移動ですね。要するに移動が入る。舞台版はずっと1ヶ所、その結婚式場の裏手のところでずっと話が続くみたいなので。そもそもこれ、その「バックステージトーク」の中で、ネジ役の目次立樹さん……目次さんは劇団ゴジゲンの立ち上げの時からいたメンバーで、このコーナーだと『アルプススタンドのはしの方』の先生役でおなじみ、って感じですよね。その目次さんも仰ってましたけど、そもそもこの、結婚式の2次会までの中途半端に空いちゃった時間、という、ここを舞台にするっていう目の付けどころがまず、そもそもさすがですよね。

これ、要するに、友人同士の再会の場っていうのもこれ、もちろんだけど。なんだけど、その宙ぶらりんな、一種モラトリアムっていうのを象徴する時間でもあるし。同時に、モラトリアムなんだけど、結婚式ですから、要するに「これを区切りに大人になります会」でもあるわけですよ。というセッティング。モラトリアムなのに、確実に……まさにだから「くれなずめ時間」というか、グラデーションをもって大人になっていく、「あいだ」の時間っていう。これ、ここの狙いどころが、非常に絶妙でもある。なおかつ、この映画版の『くれなずめ』ではですね、その移動という要素、あてどない移動っていうのを付け加えることで、言っちゃえばすごく小さい、ロードムービーにもなっているわけです。

しかもそれが、最終的には現実とも象徴的描写ともつかない、なんていうか、まさしく文字通り「心の旅」になっていく、みたいな。より劇的な盛り上がりがあって、みたいな作りになっているということです。ただ、もちろんそこで話されていること自体は、披露宴で大スベリした、まさしくザ・ホモソなノリの余興…天気だから、あれ自体はもちろん面白くないですよ。その余興を2次会でまたやるかどうかっていう、まあもう「どうでもええわ!」っていうしょうもないやり取りを、ずっとしているわけですけども。

ただ、それがなぜ、その回想だの、最終的には心の旅だのに各々つながっていくか、といえば、それはもちろん……これ、改めて言います。開始早々、開始5分で明らかになることですし、予告編など宣伝でも打ち出されてる部分なので……これ、ちなみに成田凌さんは、「絶対、この部分が予告に使われると思って演じていた」っていう風に、さっき「バックステージトーク」の中でも言ってましたけど。なので、言っちゃいますけど、その6人の中の1人、成田凌さん演じる吉尾というのは、まあ5年前にどうやら、すでに亡くなっているらしいという。

ただしこれ、登場人物が実は死んでいた、っていうのを、サプライズ的に、それこそどんでん返しな的なオチとして使っているパターンではない。だったら僕、言いませんけど。そうじゃなくて、これは僕なりの解釈と表現で言うならば、亡くなってしまった身近な家族とか友人って、でもその人の、それも割としょうもない話、エピソードトークみたいなのを繰り返しゲラゲラ笑って話していたりするうちは、まるでまだ普通にそこにいるようでもある、みたいな感じ。たとえば僕らだったら、MAKI THE MAGICがしょうもなかった話、みたいなのはいまだに定期的にしていて。「マキくん、しょうもねえなー!ゲラゲラゲラッ!」って。

で、やっぱりそのたびに「全然いる感じ」っていうか。死んでいるのはわかってるけど、それを認められない、っていうのともちょっと違って。死んでいるんだけど、そこにいるも同然、みたいな。こっちにとってはね。という、そういう感じを、松居大悟さん一流の、さっきも言ったような自然主義的なワチャワチャ×超現実性の同居みたいな、そういうタッチで表現してみせた、それがこの「そこに普通に吉尾がいる」という描写なんじゃないか、という風に私は解釈したわけですけども。

■終わりの予感があるからこそ、褒められたものじゃないホモソノリもちょっと切ない

ちなみに、その今日配信された「バックステージトーク」によると、この冒頭、カラオケボックスでその吉尾が、「ああ、俺、死んでいるんだ」っていうことをちゃんと意識するあたり。舞台版と映画版だと、割とニュアンスの微妙な違いがあって。なおかつ映画も、撮影後にさらに微調整まで加えたっていう。この話はめちゃくちゃ面白かったので、これ、興味ある方はここ、さらに突っ込んだ話、31日まで配信で聞けるそうなので、ぜひこれをお勧めしたいですけれども。

とにかく、この吉尾というのはもう死んでるし、そのことは吉尾本人も、そこにいる全員も分かった上で繰り広げられる、「いい歳した大人たちのしょうもないワチャワチャ」なので。要は、彼ら自身がすでにそのノリを相対化してる年頃、立場だし、吉尾との時間のために生じてるこのワチャワチャのノリでもあるので。なんならもう、これが終わればたぶんもう2度とこれ、やらないかもしんない、という終わりの予感をも含んでいるため……なので、そのやってることそのものは、それこそ嫌悪を感じる人がいてもしょうがない、男同士のワチャワチャ、ホモソノリなんだけども、そこにやっぱり全瞬間、ちょっととてつもない哀切みたいなものも満ちていたりして。

それが褒められたもんじゃないということは分かった上で、それでもある種のかけがえのなさみたいなものはやっぱり、たしかにあったりする。また、そのそれぞれの記憶の中にいる吉尾。これはさっきのメールにもあった通りです。それぞれの回想シーンでの成田凌の見え方が、また全然違う、っていうのもすごくやっぱり興味深いあたりで。たとえば、舞台版では松居さん自らが演じていたという、映画版では高良健吾さん演じる欽一っていうのが、仙台で会った時。おでん屋さんにいる時の吉尾……その時の吉尾くんも、明らかにもう昔のような、童顔の吉尾くんじゃないんですよね。

良くも悪くも、もう大人の厳しさをすでに身に着けてるっていうか。要は、言っちゃえば批判メールであった「外部がないじゃないか」っていうのがありましたけども、吉尾はもう、あの仙台の吉尾は「外部を知ってる人」っていうか、そういう人として……しかもその向こう側には、やっぱり震災の傷みたいなものの影が見えたりする、というようなことで。だからそこがすごく……要するにもう自分たちのノリみたいなものを、吉尾は相対化できちゃっているわけですよ。その視線がちょっとピリピリするというか、そういう感じ。

ただね、ここね、批判メールにもありましたけど、滝藤賢一さん演じるおでん屋さんの、あの片言外人ギャグみたいのは、今の感覚ではちょっとアウトっていうか、これ、ちょっとノイズですね。なんでこんなことを入れる必要があったのか……あれはちょっと、せっかく重要な場面だし、いい場面なのに、こんなディテールはいらないよ、って思いながら見ていましたけども。

でもね、ただ、いま言っているようなことは、決して「昔がよかった」みたいなことでもなくて。たとえばその前田敦子さんが、極上の声裏返しキレ芸を見せる、ミキエとの再会のくだり……だから(このキャラクターに付加された)デフォルメっていうのは「彼らから見た彼女」だからなんだけども。ちなみにそのミキエの高校時代パートに出てくる、あの四千頭身の都築拓紀さん、あのベソかき演技も、もうパーフェクトでしたけどね。あと、藤原季節さん演じるあの年下の大成に、告白されたと勘違いする一連の流れとか、本当にコメディエンヌとしてのあっちゃん、最高!っていう感じでしたけども。

とにかく、そのミキエとの再会シーン。大人になること、死をも含む時間の経過を受け入れながら、それでも前に進み生きていくこと、本作の根幹に関わる重要な話を、やっぱりその基本的には笑えるシーンとして仕立てているあたり。要するに、彼女だけが明らかに一歩、進んでいるし、今を生きているし、大人だし、ってことなんだけど。そのあたりもやっぱり、松居大悟作品ならではのバランスで、すごく良かったと思うし。

■2度3度と見ることで、味わいが変わり、また増していくような1本

まあ、主演陣の芸達者ぶりっていうのも言うまでもなくですけども。それぞれ、あの吉尾の訃報を聞くくだりのリアクションというのが、すごかったですよね。特にハマケンさん。あの引きのカメラ、引きのショットだから泣ける、っていう。そんな引きの名ショット、泣きショットに、1個また素晴らしいのが加わったんじゃないかと思います。

クライマックスでは、吉尾を彼らなりに弔う展開が何段階か重なり、なおかつ現実と超現実がさらに入り交じるという……ちょっと僕は正直、くどいというか、やりすぎ感がたしかにあるかな、という感じがしましたね。これ、演劇だったら効果的な超次元への飛躍が、こう何個も続くと……個人的には、あの『サニー永遠の仲間たち』的なあの展開よりも、やっぱり最後の「記憶のリフレイン」シーンに焦点を絞った方が、より良かったんじゃないかなと。

ただまあ、そういうバランスを取ってどうこう、っていうタイプの映画じゃないのかもしれないですけどね。最終的に、その昼と夜のあわい、全てが影を失ってひとつに溶けゆくような、マジックアワー。つまり生と死、あるいは青春と大人、そのファジーな狭間を、まあなんとか「へらへらしながら」歩いていこうとする彼らの姿。生きていくことそのもの、っていうものを象徴している。だから、『くれなずめ』というタイトルが最後にドン!と来るような感じ、これも素晴らしかった。

あと、これも。劇中で言及されて、使用もされている、あのウルフルズの「それが答えだ!」。これ、エンドロールで流れる「ゾウはネズミ色」っていう新曲は、ちょうどその「それが答えだ!」のセルフアンサー的な内容になっていて。映画全体としっかり呼応する主題歌になっていて。これもすごくよかったと思います。

ということで、2度、3度と見ることで味わいが変わり、また増していくような1本でもあるかと思いますし。松居大悟さん、ここでひと区切りつけるのかどうか、わかりませんけどね。私の見立てで言うと、ここから以降、さらに次の段階に行くんじゃないか、ということで。いよいよ楽しみな作り手になってきたと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

宇多丸、『くれなずめ』を語る!【映画評書き起こし】

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ペトルーニャに祝福を』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆5月28日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210528180000

編集部おすすめ