TBSラジオ『アフター6ジャンクション』(平日18時~)の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。


宇多丸、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』を語る!【映...の画像はこちら >>

宇多丸、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』を語る!【映画評書き起こし】

宇多丸:
さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、6月18日から公開されているこの作品、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』。

(曲が流れる)

音に反応して人類を襲う「なにか」によって荒廃した世界を舞台に、過酷なサバイバルを繰り広げる家族を描いたホラーの、パート2。前作で夫と家を失ったエヴリンは、3人の子供を連れ、新たな避難場所を求めて旅に出る。やがて偶然逃げ込んだ廃工場で別の生存者に出会うのだが……ということで、エヴリン役のエミリー・ブラントをはじめ、ミリセント・シモンズ、ノア・ジュプなど前作の主要キャストが続投。

新たにキリアン・マーフィー、ジャイモン・フンスーなど……そうそう、ジャイモン・フンスーとかがね、後半に思わぬ豪華キャストとして出てきますけどね、出演しております。監督・脚本は前作に引き続き、ジョン・クラシンスキーが務めました。今回も部分的にね、ちょっと出てくるわけですが。

ということで、この『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「多め」。

賛否の比率は、褒めの意見が7割弱。

主な褒める意見としては、「続編なんて作らなくても……と期待せずに見に行ったら面白かった。前作よりいい」とか「ツッコミどころは多いものの、演出の手法は確か。子供たちの成長を描いたストーリーの盛り上げも見事」役者陣も全員上手い」などがございました。

一方。否定的な意見としては、「ツッコミどころが多すぎて、作品に入り込めず」「こじんまりとした話にまとまり、蛇足感は否めず」などがございました。

■「コミュニケーションの中で、人間の成長を丁寧に描くことにも成功している」(リスナー)

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。まず、褒めの方。ちょっと抜粋しながらいきますね。ラジオネーム「OL二等兵」さん。「面白かったです!! 1は自宅で鑑賞していて、正直普通だなという印象だったので……」。これね、やっぱり映画館で見た方がよかったと思いますよ、OL二等兵さん。

「……なので2はスルーの予定だったのですが、評判が良く、また大好きな俳優キリアン・マーフィーが出ていると知り見に行きました」「エメット演じるキリアンは今までマッチョな役やヒロイックなものが少ない印象だったので、今回の役はすごく新鮮でした。

決して強くないし、疲れ切っているけれど、でも……と、とあるシーンは泣いてしまいました」「『1』の時から、音を立てられない世界=感情やコミュニケーションが抑圧された世界というは何かの比喩なのかな、とずっと思っていましたが、コロナ下だとなんだか遠くない世界のように感じます。」というOL二等兵さんのご意見。

あとですね、「コーラシェイカー」さん。『ウィズアウト・リモース』の時とかも見事な読み解き評をいただきましたけど、今回もすごかったですね。ちょっと長いので、これも部分的に端折って紹介しますけども。

「この映画で興味深いのは、姉リーガンと途中から彼女のパートナーとなるエメットの物語が、ゲーム『ラスト・オブ・アス』の設定と非常に似ていることです」。これはたしかに!

「人間社会が崩壊し植物の楽園となったアメリカの風景、音に反応する敵、疑似的な父と娘が希望を求め目的地へ向かうロードムービー的側面、そして<大切なものを守れなかった自分>を克服しようとする疑似的な父の物語、とたくさんの類似点があります。この映画は、多分にこのゲームから影響を受けているだろうなと推測できます」。ちなみにリーガンが駅舎のところで寝て起きるところの、陽が差し込んでいて、埃が舞っているんですけども、あの空間表現も僕、『ラスアス』っぽいな、ってすごい思ったんですよね。だからこのコーラシェイカーさんの指摘は、たぶん合っているんじゃないかなと思います。

「ただ、ラスアスでは疑似的な父ジョエルが疑似的な娘エリーに対して、前作クワイエットプレイスの父リーのように一貫して庇護者の立場をとっていたのに対し、今作ではリーガンとエメットはお互い主体性を認めたパートナーとして描かれている点が、影響を受けながらも歩を進めていて見事だと思いました。

この映画は、冒頭からエメットが手話ができないことを強調します。リーガンにとって手話のできないエメットは意志を伝えるのがとても苦手な人と同義の存在です。

リーガンは音を聴けないので、この二人はコミュニケーションの成立に双方とも不都合を抱えていると提示されています。この描き方はとてもフェアです。

そして二人はお互い歩み寄り、配慮しあうことによってこれらの不都合を攻略します。ただ、意見が伝われば解決するのではなく、その上での交渉が描かれます。その交渉の中でお互いの意見を否定しあうという過程が含まれているのは特筆すべきところではないでしょうか。お互いを個人として尊重する関係を成立させるためには、お互い「NO」と言い合えるという条件が絶対に必要です。この過程を踏んだことでこの二人は、互いの主体性を認めたパートナーたりえるのです。

そして手話のできない相手とのコミュニケーションを達成することはリーガンの成長を意味します。前作でも、今作の冒頭でもリーガンがそのようなコミュニケーションを成した描写はなかったからです」とかね。あと、たとえば、一直線に伸びる鉄道の線路が、視覚的に進むか戻るかという二択を強調します、とか。

最年少の弟・マーカスは、赤子を除いては家族の中で特に庇護される存在だったのが、そのとある設定によって更に彼の成長を描いていく。一方で、子供たちが達成するるコミュニケーションの難易度の違い……「子供たちが達成するコミュニケーションの難易度の違いが、性別ではなく年齢の差に応じて設定されているのは好感が持てるだけでなく、現実的でありスマートです。

見事です。

ただ、ハラハラドキドキの演出が凄まじいだけでなく、コミュニケート不能な異形の敵に対して、コミュニケーションで対抗する構図になっているこの映画において、以上のように、まさにそのコミュニケーションの中で、人間の成長を丁寧に描くことにも成功している本作は、傑作といってもいいのではないでしょうか」というコーラシェイカーさん。

ただ、そのコーラシェイカーさんも、後半部分では非常にちょっと気になる部分みたいなのを書いてたりします。

いまいちだった方も紹介しましょう。「ナリタユカリ」さん。

「賛否で言うと否です」「期待はずれというより残念でした。前作でもかなりツッコミ処が多めな作品でしたが、今作でもそこのツッコミ処がかなり目立ってしまったように思います」とか。

たとえばラジオネーム「ものはためし」さん。ハウリングのノイズを使うというのが一作目でも出てきましたが、それをたとえばラジオに乗せたりとか、いろんな形にすると、もうそれは(音として)変わっちゃってるから(同じ効果は見込めないはず)、という非常に一種、科学的なツッコミであるとか。

「南向きの鳩」さんも非常に1個1個、細かくですね、「ここはおかしいだろ?」ということを突っ込んでいただいていて。まあ、そういうご意見もわかる気がします。ということで、皆さん、メールありがとうございます。

■「あの一作目の続きってそんなに見たいか?」

『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』、(原題は)『クワイエット・プレイス パート2』ということで、私は今日(原題で)統一しますが、TOHOシネマズ日比谷のIMAXで2回、見てまいりました。

ただ、公開週の週末に行ったんだけどね、それにしてはちょっと余裕がある入りだったかな、と。ひょっとしたら先週、私がですね、山本匠晃さんにガチャを回してもらって、1回目、まずその『クワイエット・プレイス パート2』が当たって。で、「あの一作目の続きってそんなに見たいか?」なんてね、わかったようなことを言っちゃってですね。で、1万円出してもう1回、ガチャを回したら、またこれが出ちゃって、なんていうくだりがありましたけど。

要するに、どれだけ一作目がうまくいっても……というか、一作目がうまくいっていればいっているほど、「ヒットしたから、ハイ続編」みたいなのはどうなんだ?っていうね。まあ僕も含め、今時の観客はタカをくくっちゃっているところがあると思いますし。特にこの『クワイエット・プレイス』はですね、音を立てると襲ってくる、その「何か」……先ほども言いましたけど、一応宣伝の大筋の方針に従って、今回も「何か」で通しますけど。ただ、その説明で何の問題もない作品だと僕は思っています。何か、ぐらいしかわからないわけですから。

とにかくその「音を立てると即死」っていう設定と、それを見事に生かした鮮やかな結末……ある意味、反転させるというかね。というところが一作目のキモだったわけで、あの続きって言っても、正しく蛇足にしかならないんじゃないかというのは、もう見た人ほどそう思って無理がない作品だったと思うんですね。

この一作目の『クワイエット・プレイス』。

ちなみに僕は、このコーナーでは一作目を2018年10月5日に、ガチャが当たって取り扱っておりますので。いつも言ってますけど、公式書き起こし、あるいはポッドキャスト、音源の方でもですね、今でも読んだり聞いたりできるので、ぜひそちらも参照していただければと思います。ちょっと一作目の評のポイントをおさらいしておきますね。ちょっと僕なりに、3つのポイントに整理して。

■前作の良かったポイント3つを改めて解説

その1。無音の生かし方が、特にハリウッドのこういう大ヒットしたような娯楽映画としては異例なほど、大胆ですごい!という。中でも、主人公一家の娘・リーガン。これを演じているミリセント・シモンズさんご自身が聴覚しょうがいがある方で、今回も前作以上にほぼメインという、非常に大好演、素晴らしい演技を見せていらっしゃいますが、彼女、リーガンの視点になった時の、「二段階の無音」ですね。特に補聴器をつけていない時の、完全無音状態というのが、特に劇場で見るとまさしく、観客全員が身動きもできないような異様な緊張感を醸し出して、ここがすごい!というお話をしました。

あと、すごかったポイントその2。音を立てちゃダメ、声を立てちゃダメ、ゆえの、その持続する緊張感。これを、溜めて、溜めて、溜めて溜めて、溜めて……この「溜め」が長いわけですね。溜めて、溜めて、溜めて、溜めてから、息止めて! からの、満を持して、ギャーッ!!っていう大絶叫。すなわち「大解放」でもあるわけですけど、それとその物語展開のですね、ある種の非常に、ドーン!と景気のいいセレブレイト感というのが相まって、中盤に、あるものすごいカタルシスがある……僕はもう名場面だと思いますけど、素晴らしい場面が1個あってですね。ここが本当によかったです。

僕が当時の映画評で言ったことを言いますね。「ああ、もう我慢できない、我慢できない、我慢できない、我慢でき……ああっ、おしっこ漏らしちゃった~! でも……気持ちいい~!」みたいな、こういう感じだ、と言いましたけどね(笑)。ちなみに、一作目はそれ以外にも、全体で絶叫する人物というのは3人いるんですよ。3人いるんだけど、それぞれに意味が対照的に置かれているのとかが、本当に上手い作りで。命を産む者、命を諦めた者、そして命をバトンタッチしていく者。それぞれが絶叫する、というこの3つの絶叫。上手いですね。とか、ありました。

あと、3つ目。一作目のすごかったところ。全体的な雰囲気が、アメリカ開拓家族物、フロンティア物の雰囲気……『大草原の小さな家』とか『アドベンチャー・ファミリー』とか、なんでもいいですけど。特に、ホラー演出を研究し尽くして作ったというその監督・主演のジョン・クラシンスキーさん、彼の過去の監督作とも通じる、「家族という存在に改めて向かい合うことで、真の意味で成長していく」というようなテーマ性、今回のパート2もやはりそうですけど、そういう話を本質的にはしている。要するに、実質ホームドラマでもあるところ。だいたいそのようなことを、僕は2018年10月5日のムービーウォッチメンで、一作目の『クワイエット・プレイス』評として言ったわけですね。

■一作目が「親が子を命がけで守る話」だったのに対して、今回は「その子供が親の庇護から巣立っていく話」

で、さっき言ったようにですね、音を立てると襲ってきて、まず何をやっても歯が立たないその「何か」に対して、なるほど! というその鮮やかな決着がついて。「ここから先は皆さん、想像ができますよね?」っていうところで、スパン!と終わるという。90分、時間的にも非常にタイトに、スパン!と終わるという、あの鮮やかな幕引き。これもやっぱり一作目、印象的だったわけですから。ヒットしたからって……しかも一作目は、アメリカのああいう映画にしては低予算作品だったのに、低予算にしてはものすごいヒットして、非常に利益率がいいヒット作だったので、映画会社として、その続編を作りたくなるのはわかりますけど。

まあ、蛇足にしかならないのでは?と実際に我々も思いがちだったし、そう思っても無理がないところもあったし。なんなら、製作・脚本・監督・出演をしているジョン・クラシンスキーさん自身も、様々なインタビューで、「続編には相当難色を示したんだ。あんまりよくないじゃないか?っていうことはずっと言い続けてた」っていう風に言ってるぐらいで。本人が言ってるんだから、間違いないですよね。だからね、俺の先週の1万円もゆえなきことではないわけですけど(笑)。

しかし、逆に言えばですね、「これなら続編、ありじゃん」っていう風に彼が思える道を見つけたからこそ、こうして作られてるわけですね。で、実際、ここでちょっと一旦、僕なりの結論を言ってしまえば、一作目の設定や物語を一段階、先へ進めた、もしくは一段階、広げてみせた、これはなるほど非常に納得度が高い続編、パート2というものに、見事になっていまして。なんなら、本作がある前提で一作目を振り返ってみると、前作はまだこの『2』の物語のための、「セッティング」じゃん、みたいに思えるぐらいですね。「こっちの方がいい」という人がいるのもわかりますけどね。『2』の方をね。

ざっくり言えば、一作目が「親が子を命がけで守る」という……そこにこそ、生きる意味を見出していくという話だったのに対して、今回のパート2では、その子供が、親の庇護から巣立っていく話。まあ親離れ、子離れの話でもあるわけですね。

もっと言えば二作とも、このシリーズ全体が、大きく言えば「人って何のために生きるのか?」っていうこと、それをそれぞれの立場に問うているような、そういう話。だから、「ただ生きていればいいんですか?」っていう、そういう問いを投げかけている話でもあって。実は非常に射程が長い話をしている、とも言えるわけですけど。まあ、ちょっと順を追っていきますけどね。

■日常が崩壊していく「Day 1」から始まる

まず冒頭、映し出されるのは、前作と同じアメリカの小さな街のメインストリート。まあ、今回はセリフで「アパラチアの方から来た」って(言っているし)……あとは鉄工所跡があったりするんで、まあいわゆるラストベルト地帯というか、たぶんロケしてるのもそこで、ペンシルベニア州ですね。たぶんね。ペンシルベニアの小さな街なんですけど、一作目同様、ひとけがないんですね。一作目は要するに荒廃した状態から始まるんですけど、一作目同様、ひとけがないんだけど、まあ街並みはきれいだし……ここがポイント。一作目で朽ち果てていた信号機がオープニングにあったんですけども、それと同じように信号機が映るんだけど、こっちは普通に機能してる。

ただ、これが、青、黄色、赤……って、要するにこれからね、どんどん危機的になってきますよ、っていうのを示すように。で、そこに1台やってきた車を降りてきたのが、ジョン・クラシンスキー演じるリー・アボット。主人公一家のお父さんが出てくる。そこで暗転して「Day 1(1日目)」って出るわけです。だから一作目を見ている人は、「ああ、お父さんが出てきたし、街並みもこの感じだから、前だな」って分かる。前の話。それで「Day 1」って出るから、「ああ、(事態の)発端を描くんだ」っていうことがここでわかるわけですね。一作目の冒頭は「89日目」だったのに対して、今回は「1日目」からやりますよ、っていう。

で、ここですね、ちょっとご愛嬌なのは、アボット家の子供たち。さっき言ったミリセント・シモンズさん演じるリーガンも、ノア・ジュプくん演じるマーカスも、明らかに一作目よりも、ムクムク育っちゃっていて。一作目よりもデカいでしょう?っていう感じもあるし。もっと言えば、末っ子、あのボーくんを演じていた、ケイド・ウッドワードくんという子かな? あの子の、本当に文字通りボーッとした感じがすごい絶妙だったんだけども、今回は違う子役が……要するに、彼(ケイド・ウッドワードくん)はもう育っちゃっているから、たぶん。あんまり顔は映さない感じになっていて。まあ、そこは大したことじゃないんですけどね。ご愛嬌なところですけども。

とにかく、一作目冒頭に出てきた、あのお薬とかが置いてあるお店に、「あのおもちゃ」が置いてあったりとか。あるいは、そのお父さん、リーが通りを歩いていくと、あちこちからやっぱり、いろんな声や音が、普通に聞こえてくるんですよ。そこでようやく……それが強調されて、「ああ、これは普通の日常なんだ」ってことがわかってくる。で、もうここだけでも一作目を見てる人には、非常に鮮烈な対比にすでになっているんですけども。

その後、そのマーカスくんが参加している少年野球の試合シーン。まあ、巧みな……感動的なまでに非常に映画らしい、ある仕掛けが、実は仕込まれていたりして。やはり、さり気なくも非常に周到な描写が積み重ねられていって。で、そこから徐々にというか、一気に、日常が崩壊していくパニック展開になっていくんですね。そこで、まあ疑似的な、ワンカット風シーンの連なりも非常に効果的なパニックシーン。一番近いのはやっぱり、スピルバーグの『宇宙戦争』。先ほどもね、ちょろっと前の時間に言いましたけど、ここは『宇宙戦争』。

で、後半、またまた出てくるパニックシーン。こっちはポン・ジュノの『グエムル』を思わせるというか、おそらく具体的にジョン・クラシンスキーさん、その二作を研究した結果だと思います。この2つに共通しているのは、日光の下で、割とはっきりその「何か」というのを見せている、ということですね。もちろん2作目だから、っていうのもあるし、日中それが襲ってくるからこそ、日常全体がもう根本から破壊されたような、寄る辺ない怖さ、というのがより増してもいて。

■映画としてのリズム感、テンポ感がとにかく優れているジョン・クラシンスキー監督

で、それは、そのアボット一家の視点のみにあえて絞られていた一作目に対して、その外側の世界を、しかしあくまでやっぱり一家の日々を生きていく視点から目撃していく、そのパート2の物語というものに、非常に合った見せ方、語り口なんですね。

その、世界そのものを見せるために、日中のところをメインの舞台にするという。で、もちろんこのパートで、登場人物それぞれのキャラクター性であるとか、その「何か」の特性であるとか、一作目を見ていない観客にも必要な情報を、全て自然に入れ込んでくるとか、ここも抜かりないですし。そして何より、僕がこのオープニングにうなったのは、この前日譚パートから、前作の物語、472日目。1日目から472日目に飛躍して接続する、その手際の鮮やかさですね。僕、今回、バーン!ってタイトル『クワイエット・プレイス パート2』って出た瞬間に、劇場でちょっと小さく拍手してしまいました。「見事! 上手い!」っていう。

前作も今作も、ジョン・クラシンスキー監督、とにかく映画としてのリズム感、テンポ感が、とても優れている作り手だと思います。タイトルが出るタイミング、幕切れのタイミング、あるいは、さっき言ったような音の出し入れの上手さ、などなど、本当に優れてると思う。

で、とにかく驚くほど前作の、本当に「続き」なんですね。前作の続きでもあることが判明するこの本作。もはや、そのジョン・クラシンスキーさんが演じていたお父さんもいないし、納屋も焼けてしまって。で、生まれたばかりの赤子もいるし……赤子は当然、泣きますから。

ということで、助けを求めてその谷間の家を出て、まさしくその未知の領域に足を踏み出していくアボット一家。その「踏み出した足」が、あんなことになるとは……一作目で、そのエミリー・ブラントさん演じるエヴリンがですね、さっき言った本当に中盤のもう最高の盛り上がりに向けて、次から次へと食らいまくる受難という、それをある意味上回る、とんだ目にあってしまう、このマーカスくんを演じるノア・ジュプくん。

そのノア・ジュプくんが、あるひどい目にあうんですけども、その「ギャーッ!」ってなる直前に、「ううっ、ぐっ!」って絶妙な……あのうなり声が、「ああ、本当に痛いとこうなるよね」というような感じというか。あの演技の上手さも含めて、本当に劇場全体、観客みんなが息を飲む音が、本当にマジで聞こえるような瞬間でしたけどね。

■「息を潜めて生きていくしかない」と諦めていた人々が、コミュケーションを通じて生きる意味を取り戻していく話

で、そんなこんなでですね、命からがらそのキリアン・マーフィー演じるかつての知人のエメットのもとに、廃工場に身を寄せたアボット一家なんですけど。このね、キリアン・マーフィーというキャスティングがやはり、先ほどのメールにもありました、すごく絶妙で。要は、悪役をやることも結構ある人ですから。いい人とも悪い人ともつかない、グレーな存在感。それがそのまま、そのアボット家が知らなかった、外の世界の現実の反映でもあるんですよ。つまり、彼は現実の外の世界を見てきている。だから、そのグレーな感じになっている。

つまり、どういうことかというと、一方にはその「救う価値がない」っていう風に彼が言うぐらい……言っちゃえば『マッドマックス』的な、ポスト・アポカリプス状態になっているわけですね。それはもう要するに、エメットのいるところの……明らかに「対人用」の用心をしているわけです、彼は。人が来る用の用心をしているわけで、そこからも明らかなわけですね。ちなみにその、ポスト・アポカリプス要素が明らかになるシーンで、『バットマンvsスーパーマン』とか『アフターマス』とか、いろんなああいうのでおなじみ、僕の大好きなスクート・マクネイリーさんが実は出てるので。ちょっと見逃さないようにしてくださいね。

で、そういう風に、要するに非常にダークなというか、人間という存在が本当に下の下(になりさがってしまっている)、みたいなところもある一方で、リーガンが信じようとしている、そのラジオから流れている「Beyond the Sea」というあの曲に象徴されるような、人類文明の希望の側面……で、その間に、キリアン・マーフィー演じるエメットというキャラクターがいるわけですよ。

だからある意味、今回のその『クワイエット・プレイス パート2』は、彼やマーカスくんのように、文字通り「息をひそめて」生きていくしかないと半ば諦めていた……「こういう風に生きていくしかない」という風に諦めている人々が、主にやっぱりそのリーガンの希望や未来を信じる力、もっと言えば、コミュニケートへの意志ですよね。コミュニケートへの意志、人々に伝えていこうとする意志っていうので……それはまさにお父さん譲りの意志の強さでもあるわけですけど、それに感化され、生の意味というのを取り戻していくまでの話、とも言えるわけですよね。

で、特に今回、際だっているのがですね、途中で物語が、大きく2つに分かれるわけです。要するに、先に進んでいこうとするお姉さんのリーガンと、留まる弟のマーカスの、2つのルートに話が分かれるわけです。で、片側が危機的状況に陥っていくのにシンクロして、もう一方もまた別のその危機一髪シチュエーション、状況になっていく。で、お互いにシンクロするように、相乗効果的に状況がどんどんどんどんとヤバさを増していって……で、それが映画的に同時に極に達した瞬間に、バンッ!とある展開になってくる。

まあ、いわゆる「クロスカッティング」手法という。グリフィスがあの悪名高き『國民の創生』で発明したと言われる、クロスカッティング手法。それ自体はもちろん、目新しくも何ともないですし、下手にやると両方のシーンが興ざめになってしまうことも結構多い、このクロスカッティング話法ですけど。『クワイエット・プレイス パート2』は、これがすごく上手くて。

これ、もちろんさっき言ったジョン・クラシンスキーさんの監督としてのテンポ感、リズム感のよさ……あと、編集のマイケル・P・ショーバーさんという方。この方は、『ブラックパンサー』や『クリード』など、ライアン・クーグラー組ですけども、彼の手腕も大きいんでしょうけど。とにかく、このクロスカッティングが最上級に上手く行っている例だと思います。

大きく言って、中盤とクライマックスがあるんですけども。中盤は、さっき言った、周到に張られた伏線の回収が、なにしろ気持ちいいし、感動的だし。クライマックスは、そのリーガンとマーカスの、離れていてもシンクロしていること、隔てられていても繋がっていること、それ自体がテーマ的な意味も持っていて。このクロスカッティングという手法そのものが、テーマと一致していて。画角とかもあえて同じ画角を多用したりして、それがすごく意味を……大きな物語的な感動をも産む作りになっていて。非常に見事です。

皆さんがおっしゃるようなツッコミポイント、たしかにありますし……ただね、そのね、『28週後...』とかにもありますけども、「お前らが悪いんじゃないか?」って感じられる展開すらも、このコロナ禍に見ると、それって人類が生きていく上での業、みたいな。要するに、コミュニケートに伴うリスクっていうのも、「じゃあ、コミュニケートしないでそれぞれ息を潜めて分断していくしかないのか?」という問いにもなっていて。まあこれは、図らずも、な部分でもあるでしょうが。

■ジョン・クラシンスキー……監督として腕、あるわ!

僕はそのツッコミ以上にやっぱり、グレーな問いかけの部分というのに、大人っぽさも感じましたし。はい。

まあ、その細かいツッコミポイントはちょっと置いといて、と思えるぐらいに、ジャンル映画としての精度、もちろんそのホラー映画としての精度と、コミュニケーションを遮断されてしまった人類が、しかしそのコミュニケーションへの強い意志によってそれを克服していく、というテーマの深い掘り下げ……もちろんそれは、具体的な技術とか演出力、演技力とか込みだったりしますが、それを見事にやってのけている。ジョン・クラシンスキー、この人は、監督として腕、あるわ!と改めて思いました。

三作目ね、ジョン・クラシンスキーが降りて……でも、バトンタッチする相手がなんと、ジェフ・ニコルズ!というね。この、バトンタッチ相手すらも間違いない!っていうね、このあたりも含めて、ニクい!っていう才能です。ということで、ぜひ皆さん……先週のガチャ、私はナメてました。一作目に続いて、やっぱり映画館でみんなで息を詰める瞬間というのが、本当に何倍かで面白くなる映画なので。ぜひぜひ劇場で、ウォッチしてください!

宇多丸、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』を語る!【映画評書き起こし】

(ガチャ回しパート略 ~ 来週の課題映画は『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆6月25日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210625180000

編集部おすすめ